●薬害肝炎訴訟の和解

官僚の抵抗と保守政治の「知恵」

−政府・厚労省を追いつめた原告団の闘い−

(インターナショナル第178号:2008年1・2月合併号掲載)


●隠匿資料の突然の「発見」●

 今年1月15日、4日前の11日に「薬害肝炎救済特措法」が参院で可決・成立したことを評価した原告団が、ようやく政府との和解合意書を取り交わした時には、大阪高裁が、原告団と国・製薬会社の双方に和解案を提出するよう求めた昨年9月14日から、4カ月もの時間が経過していた。
 薬害HIV訴訟が和解した96年から12年、すでに当時から知られていた薬害肝炎の被害者たちにもやっと安堵の表情がみられたが、この4カ月の過程は、原告団が苦難直面しながらも、政府・厚労省を一歩一歩と追い詰める過程でもあった。
 攻防の焦点は、これまでの訴訟と同じように「国の責任」の有無でもあったが、原告団が頑強に求めつづけたのは、すべての薬害肝炎被害者の「全員一律救済」であり、それは政府みずからが、実際の行為を通じて被害者の「生命の平等」を明確にすべきだという要求に他ならなかった。

 当初から難航が予想された和解交渉だったが、転機となったのは、いわゆる「418人リスト」である。
 昨年10月上旬、大阪訴訟原告団の一人に届いた製薬会社の回答書には、当人へのフィブリノゲン製剤の投与事実が記載されおり、その資料は、製薬会社が医療機関から情報を集め、02年に作成したものだった。
 製薬会社が資料を作成したのであれば、同じような資料が厚労省にも保管されていて当然と思われるが、舛添厚労相は10月16日、参院予算委員会で「国は(個人名を)特定できる情報を持っていない」と答弁し、国=厚労省と製薬会社作成の資料を切り離し、厚労省は「知らなかった」と答弁したのだ。ところが3日後の19日、その厚労省の地下倉庫から2人の実名と116人のイニシャルが記載された481人分のリストなど、関連資料が「発見」されたのである。
 薬害HIV訴訟でもそうだったが、政権党との長い癒着に馴染んできた戦後日本の官僚機構は、不作為や失策を明らかにする情報を隠匿し、所轄大臣が省益防衛で動くことを期待するのを常としてきた。そうした教訓がありながら、官僚の言い分を鵜呑みにして国会答弁をした舛添厚労相の対応は、勇ましさと日和見が交互に顔を出す、その後の彼の迷走を暗示していた。
 とはいえ、この資料の「発見」を機に、和解交渉に対する政府の対応は大きく変わり、10月31日には福田首相が、「今までの経緯を見ていて、政府に責任がないというわけにはいかない」と初めて国の責任に言及し、翌11月1日には、舛添厚労相に和解協議を指示したのである。

●一律救済をめぐる攻防●

 こうして11月7日、大阪高裁が和解を勧告して原告団と国の交渉が始まったが、それは原告団にとっては、新たな苦難の道程のはじまりとなった。
 国の責任を認めることを前提とした和解交渉とは言え、製剤の種類や投与時期、訴訟の有無を問わない「全員一律救済」を求める原告団に対して、厚労省は、敗訴した4地裁判決のうち、国の責任を最も狭くしか認定しなかった東京地裁判決を基準にした「線引き」を行い、原告全員の補償には応じない姿勢を崩さなかったからである。
 案の定、12月3日に大阪高裁が原告団に伝えた和解案骨子の基本部分は、国の主張する被害者の線引きを認め、「線外」の原告に対する国の責任は認めないが、8億円の「基金」を積んで間接的な補償をするという内容だった。舛添厚労相もこの日、「福田衣里子さんも救済します」と記者団に語り、80年に感染した九州原告団の福田さんら「線外」患者の救済に言及したが、それはあくまでも基金による間接救済のことだった。
 原告団は、「福田首相の政治決断を求めたいので、それまで和解案骨子を提示しないでほしい」と大阪高裁に申し入れ、与野党国会議員を通じて、福田首相に政治決断を促す要望をつづけたが、13日には、その決断のないまま和解案骨子が提示され、原告団は受け入れ拒否を表明したのである。
 その後も非公開の協議がつづけられ、20日には、8億円の基金を30億円に積み増し、舛添厚労相が「事実上の全員救済」と強調する政府修正案が出されたが、線引きを認めない原告団は即座に受け入れを拒否、和解協議の打ち切りも表明した。
 こうして和解交渉は暗礁に乗り上げたのだが、その背後には、厚労省や法務省官僚の激しい抵抗があった。その一部が表面化したのは12月17日、法務省関係者が裁判所に報道陣を集め、「司法判断を政治がねじ曲げる前例をつくれば、裁判制度そのものがが揺らぐ」とまくし立てた時である。
 和解交渉を指示された直後には、「内閣総理大臣、福田康夫の命に従えない役人は辞表を出せ。言うことを聞かないなら力でねじ伏せる」とまで息巻いた舛添厚労相も、国の責任を認めて事態の沈静化を図ろうとした福田首相も、こうした官僚たちの抵抗を公然と非難することはなかった。
 その意味で和解交渉の行き詰まりは、戦後も無傷で残った「陛下の官僚」と癒着し、その政策に寄りかかって予算の分捕り合戦に明け暮れてきた、自民党政治の行き詰まりをも象徴するものだった。
 ところがその自民党には、政党としての必要と官僚機構の利害の衝突をすり抜ける、ある種の「知恵」も蓄積されていた。

●戦後保守勢力の「知恵」●

 その「知恵」が発揮されたのは、和解交渉が暗礁に乗り上げた翌日である。
 21日の午後2時過ぎ、与謝野前官房長官が首相官邸を訪ね、「政府案では合意は得られない。議員立法しかありません」と進言し、全員一律救済や速やかな補償認定の仕組みづくりなど、骨子を記したペーパーを示したという。与謝野の進言や、野田毅元自治相らが20日の夜、議員立法での解決を進言したことなどは、原告団と国が和解の合意書が交わした後になって報じられた。
 この時、与謝野は福田首相に、「知人から『これでいよいよ自民党も終わりですね』と言われたました」とも語ったと報じられたが、それは21日の朝日新聞朝刊に掲載された世論調査で、福田内閣の支持率が10%も急落し、自民党支持率も27%に下がり、民主党に2%差に迫られたことを念頭に置いてのことだろう。自民党議員たちの、政権に執着する執念のすごさを物語るエピソードと言うべきなのだろう。
 その後の福田首相の対応も、素早かった。3連休中にもかかわらず、福田は23日に急きょ記者団を首相官邸に集め、「自民党総裁として、全員一律救済ということで議員立法を決めました」と語り、「官の論理」を乗り越えたと強調して政治的ダメージの回復を図ったのである。
 議員立法による全員一律救済の決断は、福田が期待したように、小泉がスモン訴訟の控訴断念を決めた時のような支持率の急回復には結び付きはしなかったが、原告団と薬害肝炎被害者にとっては、勝利的和解に向けた扉が開いた、画期的な瞬間となったのは確かであった。

●政府を追い詰めた原告団の闘い●

 与謝野や野田の議員立法の進言を、政権に居座るための「姑息な知恵」と切り捨てることも可能であろう。あるいはこの救済策にも不十分な点が多々あり、薬害という不条理を繰り返さないという肝心の課題は、なお残されているのも事実である。
 それでも、その「姑息な知恵」で実現された結果、つまり原告団が自らの犠牲すら顧みずに要求しつづけた、被害患者の全員一律救済の基本的枠組みが作られた事実は、正しく評価されるべきだろう。
 「姑息な知恵」を侮ることは、人々の切実で切迫した要求を実現するあらゆる方策を追求する、人々に寄りそった賢明な努力に冷笑を浴びせかけるニヒリズムに通じかねないからである。
 これと同じように、本来は議会の立法活動で大きな役割を担うべき議員立法という手段が、被害者救済という社会正義の達成のために効果的に使われた事実も、冷静に評価されるべきだろう。
 国会に提出される法案の大半が、官僚によって作られた政府提出法案であるという日本の議会の現実は、政・官の長きにわたる癒着の象徴であり、形骸化した議会に対する広範な不信の要因でもあるからだ。
 しかし何よりも重要なことは、自民党政権をして、「姑息な知恵」を使ってでも和解を追求することを決断させたのは、原告団による非妥協的で粘り強い闘いの成果だったことを確認することである。
 薬害に侵された身体的苦痛に耐え、寒風の吹きぬける国会周辺で議員たちを説得し、街頭で署名を訴えつづける原告団の不屈の闘こそが、多くの人々の共感を呼び起こし、福田や舛添の無能と無策への憤りを広げ、内閣支持率の急落を引き起こし、議員立法による全員一律救済を福田に決断させたことは、誰の目にも明らかである。
 それは政府と官僚機構を追い詰め、不作為の違法による国の責任を認めさせた、日本で久々に現れた大衆運動であり、「全員一律救済」という勝利的和解を実現した真の力だったのである。

 たしかに、薬害という不条理はまた繰り返された。だがその被害のただ中から、そうした不条理に敢然と立ち向かい、政府に妥協を迫る力強い運動が現れたとすれば、そこに不条理な社会を変革する希望の灯をみるのは、不謹慎ではないだろう。
 和解から12後の昨年夏、薬害HIV訴訟の原告だった川田龍平氏が参議院議員に当選し、昨年の暮れには薬害肝炎原告団と共に闘ったように、それは明日に芽吹く可能を秘めた運動に他ならないからである。

(2/21:ふじき・れい)


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