●自・民「大連立」騒動

外交戦略の変更嫌う親米保守勢力の画策

−自民党の時代錯誤と民主党の「未熟な」議論−

(インターナショナル第177号:2007年11・12月号掲載)


▼党首会談と「小沢の豹変」

 福田・自民党総裁と小沢・民主党党首による初の党首討論会直前の10月30日、唐突に両党首の会談が行われた。つづいて11月2日夜にも党首会談が行われ、この席で福田は、小沢に「連立協議」を打診した。非公開の会談を嫌ってきた小沢が、福田と2人だけの会談に応じたこと自体が驚きをもって受け止められたが、連立協議の提案は、あらゆる憶測と疑念を呼び起こした。
 2日の会談後、官邸に戻った福田は記者団に、「連立というか、まあ新体制ですな。政策実現のための体制ですよ」(11/3:朝日)と説明したが、それはたちまち自民・民主両党による、いわゆる「大連立構想」と「小沢党首の豹変」として大々的に報じられ、民主党には大きな衝撃が走った。
 その後、小沢の辞任会見と辞意撤回など、民主党が迷走する発端となったこの騒動の背景には、後述するように、自衛隊海外派兵の恒久法制化を唱えて「新テロ特措法」に強硬に反対する小沢・民主党に対して、福田・自民党の側には、それを取り込む余地があったのである。
 そしてここに、変革主体の再生をめざす私たちが、注意深く正確に評価しておくべき問題が潜んでいる。
 したがって一連の騒動の事実関係を、正確に認識しておく必要がある。というのも、党首会談の「仕掛け人」であるナベツネこと渡邊恒雄が会長を務める「読売新聞」グループの論調に幻惑されて、「政策協議」や「連立協議」とを混同して声高に小沢を非難するだけでは、民主党が圧勝した参院選を通じて高まった政権交代の期待に冷水を浴びせ、結局は自民党政権の延命に手を貸すことになるだろうからである。
 断っておくがわたしは、小沢という著名な保守政治家が信頼できるか否かを問題にしたいのではない。むしろこの点で彼は、政党政治をパワーゲームに切り縮めてとらえる、その意味で「政策的には信用できない」政治家だと考えている。
 にもかかわらず正確な事実関係を問題にするのは、仕掛け人・渡邊と、その背後で彼と密談を重ねてきた中曽根元首相ら親米保守勢力による「意図的なミスリード」に、「密室談合の料亭政治」や「元老気取りの老害」といった、この国の政治を閉塞状態に陥れてきた、清算されるべき戦後保守政治の悪弊を見るからでもある。

▼「大連立」騒動の事実関係

 では正確な事実関係は、いったいどんなものだったのだろうか。
 読売グループとフジ・サンケイグループを除くマスメディアの報道によれば、30日の会談後、小沢は菅代表代行、鳩山幹事長、輿石参院議員会長と会談して党首会談の報告をしたが、次回会談(2日)までに回答すべき提案があったかとの問いに、「全くそういうものがないんだ」「(自民党が)何を考えているかわからない」と答えたという。
 これとは対照的に、自民党の中川秀直元幹事長は30日の講演会で、「政局は風雲急を告げている。同じ考えの人が違う党に所属している〃ねじれ〃をどう解消していくか。・・・・両党首が話をして、ねじれ解消につながることを切に願う」(10・31:朝日)と、意味深長な発言をしていた。
 そして11月2日、福田は「大連立」を小沢に打診し、これを受けて小沢は、まず菅、鳩山そして輿石に、「総理から連立の話があった。驚いた」と報告したと言う。その後開かれた役員会では、小沢が「みんなの意見を聴きたい」と切り出し、連立協議について、政策実現というメリットと、「国民の理解が得られるか」というデメリットの両方を説明したと報じられている。だが役員会で発言した全員が、「その政策協議に入ること自体も反対」(2日夜の小沢の記者会見より)だっために、「反対が多いので断ります」と自ら議論を締めくくったと言う。
 こうして小沢は、「連立は私どもとしてはのめない。受諾できない」(同前)と福田に電話で伝えたのである。
 形式的な言い方だが、この事実だけなら、小沢は党首会談で提案された連立協議について党の役員会に諮り、その結果にもとづいて拒否の回答をしたのであり、辞任の理由は見当たらない。つまり小沢が辞任を決意したのは、別に理由があったということだ。そこには、「政策協議」と「大連立」とを混同した民主党内の「未熟な議論」があったと考えられるが、この問題も後述することにして、事実関係に話をもどす。
 その後、小沢自身が、党首会談に至る経過説明で「さる人」の介在を明らかにするが、10月25日夜、その仕掛け人たる渡邊・読売グループ会長と「大連立」が持論の中曽根元首相らが、都内の料亭で会食したことが朝日新聞(11/3)で報じられている。
 その報道によれば、中曽根が「総選挙前の大連立はあるか」と渡邊に問うと、彼は即座に「ある」と断言したと言う。さらにこの2人は、2度目の党首会談のあった2日の民放番組の収録でも、渡邊が「年内にも大連立政権をつくって懸案を合理的に処理していく」べきだと主張し、中曽根もまた「福田さんも小沢さんも共同責任で話し合って、安心しなさいと。そういうことをやる責任が2人にはある」と語り、大連立に強い期待を表明したのである。
 つまり福田・小沢の唐突な党首会談は、渡邊や中曽根といった親米保守派の人脈が、自民党の福田や中川、そして森元首相らに小沢を引き込んだ大連立構想をもちかけ、「新テロ特措法案」をはじめ、政府提出法案がまったく成立しない事態に焦燥を募らせていた福田が、これに便乗して小沢に党首会談を呼びかけて連立協議を打診し、民主党役員会がこれを拒否したということである。
 ただこの一連の動きは、ここに上げた人物を含む、おそらく10人未満の少数の人物たちだけで秘密裏に行われ、福田と小沢の腹心や側近を自負する人々にさえ党首会談当日まで知らされなかったことであらゆる憶測と疑惑を呼び起こした事実は、議会制民主主義の建前である与野党の論戦すら平然と無視することも厭わない、戦後保守派の悪弊として確認しておくべきだろう。

▼親米外交だけが選択肢なのか

 周知のようにその後、事態は小沢の辞意表明という意外な展開をみせた。
 もっとも小沢は、大方の予測を裏切って周囲の説得を受け入れて辞意を撤回し、「大連立」をめぐるドタバタ劇は、何ともみっともない幕切れとなったのだが、まずは、自民党の側に、小沢の持論である自衛隊派兵の恒久法制化を「取り込む余地があった」問題から検証してみよう。

 話は5年前、福田が小泉内閣の官房長官だった02年にさかのぼる。以下は、海上自衛隊が給油活動を始めた当時から「新テロ特措法案」提出までの動向を報じた、毎日新聞(10月19日)の「テロとの戦い−日本の選択(1)」にもとづいている。
 02年5月、福田は、当時の小泉首相の演説原稿に、「平和の定着及び国造りを国際協力の柱とするために必要な検討をする」と、自ら書き入れたことがあるという。「9・11」テロから8カ月、すでにインド洋で海上自衛隊による給油活動が始まっていたが、アフガニスタンへの「人道支援」に自衛隊を派遣できない状態を何とかできないかというのが、福田の思惑であった。
 なぜなら小泉演説の翌月、福田は官房長官の諮問機関として「国際平和協力懇談会」を設置し、同年12月の懇談会報告書には、「多国籍軍の後方支援に自衛隊派遣を可能にする恒久法整備」が盛り込まれたからだ。
 それから5年。福田は、自らの所信表明演説の草稿をつくる官僚たちに、「平和を生み出す外交」と真っ先に記された手書きのメモを渡した。ところが「新テロ特措法」策定に向けた自民党内の検討作業は、福田の思惑とは程遠い混迷の中にあった。
 所信表明演説から3日後の10月4日、新テロ特措法の与党プロジェクトチームの会合に提出された新法案の骨子には、「テロからシーレーンを守る」とあった。座長の山崎拓・前自民党副総裁は「そんなの入れたら大問題になるぞ。日本の自衛権の発動になる」と、声を荒らげたと言う。
 憲法論議を置き去りにして、言わば思いつきの派兵目的を法案に潜り込ませようとする自民党内のご都合主義は、「給油活動は安全で安上がりだ」と言う、給油活動擁護論にも色濃く現れている。それは「カネを出せば済む問題ではない」という、91年の湾岸戦争支援策の〃反省〃が、事実上は無視されているに等しいからだ。
 この自民党内のご都合主義に比べれば、小沢の持論である「国連決議があれば、海外での武力行使も合憲」という原則にもとづく派兵恒久法のアイデアは、同じく恒久法論者である石破防衛相にとっても、そしてもちろん福田にとっても、十分に「協議」に値するのは当然であろう。
 党首会談後、小沢が「自衛隊のあり方などについても、私どもの主張に大きな理解を示していただいた」と記者団に語ったのは、まさにこの問題で福田が、小沢の持論に「大きな譲歩」を提案したからだし、小沢が民主党の役員会で「政策実現」のメリットについて説明したのも、自らの持論が実現する可能性があるからに他ならなかった。
 そしてこの点に、一連の騒動の核心となるテーマがある。
 それは中曽根や渡邊、そして福田と小沢ら「親米保守派に共通する認識」と言えると思うが、彼らの最大の関心は、「親米外交を堅持する」ための「連立協議」にあったのであり、自民・民主の二大政党が手を携えて政権を担当する「大連立」という、一般に流布されたイメージとはかなりのズレがあると言うことである。
 しかもこうした思考は、政権交代可能な二大政党制は「外交上の一貫性がなければ不可能だ」とする、冷戦下で自民・社会の二大政党が対決していた「55年体制」そのままに、ばかばかしいほど硬直した戦後保守派の論理を共通の土台にしていたのだ。
 少なくとも、先の参院選が政権交代に現実的な可能性を与え、さらにはテロ特措法の期限切れで自衛隊の給油活動が中断に追い込まれたことが、親米保守勢力の不安、つまり政権交代にともなう親米外交の動揺という「不安」を増幅したのは疑いない。「福田さんも小沢さんも共同責任で話し合って、安心しなさいと。そういうことをやる責任が2人にはある」という、前述した中曽根の発言がこれを裏づけてもいる。
 そしてこの親米保守派の不安を取り除く方策が、元来の親米派である小沢の持論を取り込み、アメリカに要請される「人的貢献」を憲法上の制約なしに実施できる法制を実現する「連立協議」だったのだ。
 これが、党首会談と大連立問題をめぐる中曽根と渡邊、そして福田と小沢が共有した核心的テーマであり、私たちが正確に認識しておくべき問題なのである。

▼政策協議と小沢のプッツン

 だが、親米外交を外交戦略の代替品にしてきた戦後保守派の基本路線は、国連安保理常任理事国を目指した時にも、あるいは北朝鮮の核開発をめぐる6カ国協議でも、その綻びが露呈していることは、いまや否定し難い現実であろう。
 この国をとりまく状況は冷戦時代とは大きく様変わりし、アメリカの顔色をうかがうだけの親米外交は、経済的台頭の著しいアジア諸国や中東の産油国に対する有効性を失い、むしろ日本の外交的比重を低下させつつあると言っても過言ではない。
 したがって一連の騒動は、親米保守派たる小沢の戦略的限界を暴くことにもなったが、それは同時に民主党もまた、戦後保守派の親米外交に代わる戦略的対案を持てない、あるいは「持とうとしない」限界と未熟さを示すことにもなった。
 と言うのも、党首会談後に小沢は、民主党役員会の反対意見を「その政策協議に入ること自体に反対」と表現したが、この苛立ちは何故かということでもある。
 小沢が言及した「その政策協議」が、派兵恒久法に関する協議であったことは明らかだし、福田がそれを「連立協議」として提案したのも事実であろう。だが政策協議と連立協議は同じではないし、連立協議でさえ「大連立」と「部分連立」を同列に論じるのは正確ではない。
 辞意撤回後、TBS-TVの「NEWS23」に出演した小沢は、「私は〃大連立〃とは言ってない」と筑紫キャスターに答えたが、小沢は、派兵恒久法に係わる「部分連立」を想定していたと考えられる。
 ひとつの傍証がある。11月3日付朝日新聞の「時時刻刻」である。
 これによると小沢は、ある政治学者がまとめた「民主党の中長期戦略リポート」の要約版を読み、この学者に丁重な礼状をしたためたという。リポートにあった「国会改革のための憲法部分改正や公務員制度改革などの問題のためだけに、短期間の連立か、それに代わる議論の場をつくる」との提言に強い関心を持ったからだそうだが、「大連立は目的と期間を限定し、必ず総選挙によって、早期に終了するものでなければならない」とも記されていたと言う。

 言うまでもなく、多くの選挙区で与野党候補の一騎打ちとなる小選挙区制の下で、長期にわたる大連立など、現実には不可能であろう。「大連立」に否定的な与野党幹部が口を揃えて指摘したように、それは「中選挙区制に戻すことが前提」になるだろうし、そんなことが、それこそ国民の理解を得られるとも思えない。
 だが前述のように、政権交代をしても外交路線は同じでなければならないという、硬直した論理に囚われた保守政治家・小沢としては、海上自衛隊の給油活動中断が呼び起こす外交上の疑念や不審は、早期に打ち消しておく必要を感じて不思議ではない。
 ところが民主党の役員会では、おそらく小沢が期待したような議論はなく、それこそ政策協議も連立協議も、長期的連立も部分連立もすべてがごちゃまぜのまま、強硬な反対意見が噴出したに違いない。
 もちろんそれは、「憲法論と現実の政策は別」とうそぶき、海外での武力行使を容認する派兵恒久法を唱えて自民党を揺さぶり、はては党首会談を秘密裏に準備した親米保守派と気脈を通じた、策士・小沢の身からでた錆びだが、これが党首辞任表明の引き金になったと思われる。
 小沢が「プッツンして」辞任会見を開き、事実上の党首不信任だの、政権党としては民主党は力量不足だのと口走ったのも、こう考えれば説明がつく。
 だがこれは、ひとり民主党の「未熟さ」ではなく、戦後日本の議会政治のあり方から生じた悲喜劇と言えるだろう。
 事実上の永久政権党=自民党の存在と、採決では絶対に勝てない野党という関係の固定化は、公然たる政策協議の代わりに「密室談合による裏取引」を常態化し、他方では「対案なき反対」という野党の「無責任」を助長してきたからである。
 だが、いわゆる「衆参のねじれ」が、こうした与野党の馴れ合いを不可能にした。
 互いに譲ることのできない対決法案はいざしらず、与野党間にさほどの違いのない法案までが、旧来的な与野党関係を前提に「政争の具」とされ、議会が何も決められない事態が慢性化すれば、それこそ中央省庁官僚の恣意的「指導」や通達が幅をきかし、議会は自らの役割を否定するに等しいことになるのは明らかだからである。
 そして皮肉なことに、この大連立をめぐるドタバタ劇の直後から、自民・民主両党による「政策協議」は現実となり、いくつかの非対決法案の成立を見たのだ。

▼対案のための相互討論へ

 こうして、自民・民主の保守二大政党制に抗して、親米外交からの脱却と新自由主義的な「改革」に反対する政治勢力の形成をめざす私たちは、大連立をめぐるドタバタ劇を通じて、戦後外交戦略の代替品とされてきたアメリカ追随外交に代わる、「新たな外交戦略の対案」を持つ課題を突きつけられたと言わなければならない。
 ところが戦後革新勢力の小沢批判は、戦争遂行の総動員体制を支えるために1940年に結成された大政翼賛会をアナロジーした批判にとどまり、「政党政治と議会制度への違背」という視点すら希薄であった。
 むしろこの点では、「官僚依存の象徴のような政府に対する質疑応答の場」と化している議会の論戦を「政党や議員同士が討論する場に変え」、その討論を「国民に見える形で徹底的に行って」法案を成立させるのが「言論の府」(北川正恭・元三重県知事)だとする保守リベラルの方が、小沢への批判としては鋭いものだと言える。
 実際に、旧帝国議会における二大政党だった政友会と立憲民政党は、少し乱暴な言い方をすれば、相互に重要法案を政争の具として権力抗争にうつつを抜かし、自ら政党政治への信頼を貶(おとし)め、大政翼賛会への道を掃き清めはしなかっただろうか。そしてこの時も政友・民政両党は、対中国外交に関する対案らしい対案を持たず、結局は中国戦線の膠着に苛立つ社会的雰囲気に押されて、「バスに乗り遅れるな」と大政翼賛会へとなだれ込んだのではなかったか。
 したがって私たちが、いま本当に必要としているのは、親米保守勢力の「親米外交」を維持し続けようとする野合−そう!これは連立というよりは野合なのだ−に抗して、いわゆる「国際貢献」の対案を生み出すための真剣な協働と相互討論なのである。
 そうした対案の私見は、本紙149号(04年10月号)の「経済援助という国際貢献の道」で述べたのでここでは繰り返さないが、いずれにしろ「親米外交」と「人的貢献」の呪縛から解き放たれない限り、この国の外交的混迷を克服はできないだろう。
 それでも、この外交戦略の転換が「親米か反米か」といった、親米保守派が恐れるような二者択一ではあり得ない。というよりも今日、覇権国家・アメリカとのそれなりに良好な関係ぬきには、日本のみならず世界のあらゆる国もまた、国際政治への現実的関与が難しいことは明白である。
 そうした意味でも、戦後外交戦略の抜本的な再検討を認めない親米保守派の硬直した論理は、冷戦時代を引きずった時代錯誤と言う他はないのだ。

 ところで、大連立をめぐるドタバタ劇の直後だったにもかかわらず、11月18日に行われた大阪市長選挙では、民主党と国民新党が推薦し社民党も支持した平松邦夫候補が、自民党と公明党が推薦した現職・関淳一候補を敗って初当選した。
 この結果は、小沢への不信は確かに強まったが、自公連立政権への不信や「元老気取りの老害」への嫌悪がこれを上回り、政権交代への期待がなお持続していることを示すものであろう。それは、政官財の癒着と無責任な官僚行政に依存しつづける自民党政治を終わらせたいという、民衆の強い思いの現れとは言えないだろうか。
 さらに言えば、「小沢辞任騒動」後の各種世論調査でも、民主党の支持率はほとんど変わらないのに対して、福田政権の支持率がじりじりと低下してもいる。「・・・声高に小沢を非難するだけでは、・・・自民党政権の延命に手を貸すことになるだろう」と述べたゆえんである。

(12/10:きうち・たかし)


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