《政府系金融改革の実態》

社会的再配分機能を解体する小泉と「民間議員」のタッグ

− 財界ボスの私的見解を、国家政策に仕立てる経済財政諮問会議 −

(インターナショナル第164号:2006年4月号掲載)


▼国家金融再編と「改革の総仕上げ」

 9月の自民党総裁の任期切れで退任すると公言する小泉の「引退の花道」として、「行政改革推進法案」が、いわゆる小泉改革の総仕上げと称して審議されている。
 同法案最大の眼目は、現在8つある政府系金融機関の統廃合だが、それがなぜか「改革の総仕上げ」などと大袈裟に宣伝されているのだ。しかも法案には、08年度までに貸付残高を国内総生産比(GDP)で半減するとか、中小企業の運転資金などに融資されてきた「一般貸付」の廃止など、効果は疑わしいが派手な目標値が盛り込まれている一方で、その社会的経済的影響がどんなものなのかは、議論された痕跡すらない。
 もちろん国家金融の再編は、いわゆる行財政改革の重要な課題ではあった。だがこれが「改革の総仕上げ」などと持ち上げられることになったのは、郵政民営化が決まって以降のことである。つまり昨年9月、小泉自民党が総選挙で大勝して郵政民営化法案が成立すると、「資金の〃入り口〃である郵政の民営化が決まったのだから、次は〃出口〃である政府系金融の改革だ」といった議論が、経済財政諮問会議などでにわかに声高に語られ始めたのである。
 だがこうした主張は、まったくのご都合主義であろう。なぜなら小泉内閣の郵政民営化に関する説明では、公的資金の無駄遣いを止めるには、郵貯・簡保など「資金の入口」である郵政を民営化することだ、というものだったはずだからだ。ところが郵政民営化が決まると、今度は一転して「出口の改革」なる議論がまかり通る現実は、政府系金融機関の統廃合を眼目とした「改革の総仕上げ」なるものが、むしろ「見せかけの実績づくり」と呼ぶ方がふさわしい、実に怪しげなものであることを示唆している。
 実際に政府系金融機関の再編は、外務省と財務省の「縄張り争い」で多くの問題を抱える国際協力銀行(JBIC)や国際協力機構(JICA)など、政府開発援助(ODA)関連の国家金融機関の統廃合という〃本当の課題〃に紛れて、政府系中小金融機関と言う中小企業支援制度の解体が、かなり強引に進められようとしている。商工組合中央金庫(商工中金)を「民営化」し、中小企業金融公庫(中小公庫)と国民生活金融公庫(国金)を統合、これをJBICの一部業務と農林水産金融公庫と一本化するというのがそれである。
 こうした公的中小金融の〃再編〃は、実際には、不良債権処理の過程で中小企業の資金繰りを支え、あるいは小規模事業の起業を支援するなどして、不況下でセーフティーネットとしても機能してきた公的金融機関の社会的な再配分機能を大幅に縮小し、社会的公正を担保してきた公的資金を更に削減することに他ならない。
 もっとも、「小泉改革」と総称される国家再編を貫いていたのが、社会的再配分機能の解体と再編であったことを考えれば、「改革の総仕上げ」が、日本経済の特徴であり産業の二重構造を体現する中小企業を下支えする政策金融制度の解体に帰結するのは、必然的なのかもしれない。

▼私的見解を国策にした〃純の一声〃

 そもそも政府系金融機関の再編の焦点は、〃省益の塊〃とまで呼ばれてきた、いわゆる「ODA改革」であった。
 このODA改革の核心は、財務省が管轄するIBJCの円借款部門と外務省管轄の無償資金援助を新JICAに統合し、それを外務省の下に一元化することで外交政策と対外援助に整合性を与えることであった。対外援助実施機関への高級官僚の天下りや、国家官僚機構の援助資金への〃たかり行為〃もさることながら、省庁ごとの縦割りで実施される対外援助の不透明さと非効率が、再編の必要性を浮上させてきたのである。
 今年2月末に発表された「海外経済協力に関する検討会」報告書はこの必要に沿ったものではあったが、それさえ外務・財務両省の縄張り争いのために、円借款部分は旧来どおり両省の共同管轄になるという曖昧な妥協が付きまとっていた。
 ところがこうした〃真の課題〃とは別に、昨年10月に「政策金融改革ヒアリングに基づく民間議員所見」(以下:「所見」)が経済財政諮問会議に提出されると、解体されるIBJCの一部と中小金融機関の統合・一本化が、何の説明も議論もないまま、だが強力に推進されはじめたのである。
 いったい何が起こったのか。以下は、内閣府の経済財政諮問会議のホームページに公開されている議事要旨などから、筆者がまとめた一連の事態の経過である。

 ことの始まりは、「所見」にまとめられた延べ11時間(4日間)に及んだ中小3金融機関の統廃合をめぐるヒアリングであった。
 日本商工会議所などヒアリングに出席した利用者(ユーザー)側は、民間金融機関の活用や直接金融をまくし立てる諮問会議の「民間議員」の質問に対して、銀行の貸渋りや貸し剥がしといった中小企業融資の非道な実態を指摘し、口々に政府系中小金融の統合に懸念を表明した。ところがこれに聞く耳をもたなかった「民間議員」の「所見」は、当然のようにヒアリングの実態を無視した、政府系中小金融の一本化に好意的なコメントで埋め尽くされていたのである。
 したがって、この「所見」が説明資料として配布された第23回経済諮問会議で、ヒアリングに出席していた中川経産相と谷垣財務相が、「率直に言って誤解を与えかねないものが幾つかあると思う」(中川)とか、「ヒアリングでの発言の一部だけが取り上げられて、・・・・明らかにミスリードする結果になっているのではないか」(谷垣)と指摘したのは、特段不思議なことではなかった。事実「所見」を解説した「民間議員」本間正明・大阪大学大学院教授も、「主観的なサマリーになっているかもしれない」と、当然ながら応じざるを得なかったのである。
 ところがこの諮問会議の終わりに、議長である小泉が「今日の谷垣議員、中川議員の話を聞いても、財務省と経済産業省がいかに抵抗しているかというのがわかる。(中略)財務省と経済産業省の大臣も余り役所にひきずられないようお願いする」と発言すると、事態は一変した。
 小泉は、政策金融改革について財務、経産両省の官僚が「一指も触れさせない」と息巻いていたことを引き合いに出し、中小金融機関統合問題の「ミスリード」を指摘した中川と谷垣の口を封じ、「所見」にお墨付きを与えたのである。しかも官僚の政府系金融改革に対する抵抗は中小金融とは無縁な、いわゆるODA関連の国家金融機関をめぐるものであることは、関係者の間では明白だったにもかかわらずである。
 だがこれ以降、解体されるIBJCの一部機能と政府系中小2金融機関との統合・一本化の議論はぱたりと途絶え、既成事実となって推進され始めるのである。
 それはいわばどさくさにまぎれて、経団連会長の奥田と経済同友会会長の牛尾という2人の〃大物財界人〃に2人の大学教授を加えた「民間4議員」の私的見解が、鶴の一声ならぬ〃純の一声〃で決定事項となった、経済財政諮問会議なる「構造改革の司令塔」の実態を象徴する〃事件〃だった。

▼現実を無視する諮問会議の害

 こうして、奥田と牛尾という財界ボスと御用学者の〃私的見解〃に過ぎない公的中小金融解体の主張が、公式のヒアリング報告を歪曲した上に、その社会的影響の評価などは議論すらされないまま、「改革の総仕上げ」に組み込まれることになった。
 もちろん、公的中小金融が不要で過大な社会的負担をもたらしたり、その社会的役割が失われていることが明白であれば、統廃合は正当化されるかもしれない。だがそれでも政府は、その決定がどういう根拠に基づいてどのような議論を経たのかという、説明責任は果たさねばならない。
 そしてあえて言えば、なお景況観に大きな落差がある現局面で、政府系中小金融機関を解体しなければならない積極的理由は、日本財界の大ボスたちが、「アメリカモデルの改革だけが、グローバリゼーションに対応する〃活力ある資本主義〃を生む」と言った、竹中平蔵流のドグマに囚われている以外には無いと断言して良いだろう。
 実際に、それこそ問題のある対外援助資金を含めても、政府系金融全体で財政投融資と郵政の簡易保険からの借入残高は32兆円程度と、郵貯・簡保資金350兆円の1割にも満たない。あるいは補給金などの形で政府系金融に投入される財政資金は年間で1300億円と、一般会計歳出の0・15%に過ぎず、一時は約900億円にも上った国金の赤字補給金も03年度以降はゼロになっており、商工中金は元々、赤字補填すら無い。
 さらに言えば、公的金融の「民業圧迫」を騒ぎ立てる民間金融機関は、90年代に日本経済を覆った深刻な金融危機の時代に、大手銀行救済のために推進された〃画一的な不良債権処理〃の掛け声に乗って中小企業への貸し渋りや貸し剥がしに奔走し、事業再生よりはむしろ〃損切り〃の為の破綻を促進してきたのではなかっただろうか。
 国家資金の投入で経営破綻の危機を救済してもらっておきながら、積極的にリスクを引き受けるでもなく、逆に融資と引き換えに中小企業にリスクを転化するデリバティブの購入を強要する民間金融機関が、政府系中小金融を「民業圧迫」と非難するのは、自身のモラルハザードを暴くだけである。
 こうした民間金融機関に比べれば、官僚の天下りなど問題があるとは言え、商工中金、中小公庫、国金の政府系中小3金融機関は、90年代後半から多くの中小企業に運転資金などの融資を実施し、あるいは事業再生の新規融資も手掛け、小規模だが社会的有用性が見込める起業融資など実績を積み重ねてきたし、こうした公的金融機関の融資が、地方銀行などの民間金融機関を協調融資へと踏み切らせる呼び水となったのも、厳然たる事実だった【『週刊東洋経済』3/18号「政府系金融機関改革の『盲点』」を参照】。
 それは前述した経済財政諮問会議のヒアリングでも、「政策金融改革には反対しない」が「金利1・5%で無担保、無保証で1000万円を貸してくれる民間金融機関はあるのか」(全国商工会連合会)とか、「新分野や創業期の事業などリスクが大きなところには民間は貸さない傾向にある」(全国中小企業団体連合会)などと、ユーザー側から具体的に指摘されたことでもあった。
 その意味では、「民業圧迫の排除」などと称する「国家による優遇政策」に今もなお期待を寄せ、自らは積極的にリスクを取る訳でもなく、処分し易い〃高額担保を持つ弱体事業体〃への融資や、苛酷な取り立てが社会問題化しているサラ金への融資などへの依存を深め、収益率も一向に改善されない日本金融資本の私的官僚制とでも呼ぶべき「硬直した企業統治」に目を塞ぎ、アメリカモデルの機械的適用に囚われて公的金融機関の解体を目論んだ経済財政諮問会議「民間議員」の主張は、日本経済の現実を無視した主観主義と言わざるを得ない。
 しかも、この財界ボスの主観主義的な私的見解が、小泉の的外れな〃問題の単純化とすり替え〃を通じて国策として具体化されるという意味では、経済財政諮問会議が、回復の兆しの見える日本経済を撹乱させる源泉となりかねない危険さえはらんでいる。
 むしろ現実の日本経済では、中小企業や小規模新規事業のリスク評価に関して様々なノウハウを蓄積してきた政府系中小金融機関が、厳しいリスク評価とは無縁な、土地などの担保資産に依存する殿様商売にあぐらをかいてきた民間金融機関に代わって、中小企業のリスクを積極的に引き受けてその潜在的可能性を引き出したり、あるいは経営者個人の責任を超える自然災害や経済情勢の激変に対応するセーフティーネットとしての役割を果たしてきたのである。

▼何のための政策金融改革か

 では、「行政改革推進法案」によって、こうした政府系中小金融機関の機能は、どのような変化をこうむるのだろうか。
 法案どおりの再編が強行されれば、08年度には商工中金は「完全民営化」され、国金と中小公庫は、農林族という強大な政治力のバックアップを受ける農林漁業金融公庫と、先にも述べた〃省益の塊〃である国際協力銀行の一部門と合体することになる。あえて言うがそれは、国金と中小公庫が事実上、農水省と財務省が管轄する巨大国家金融機関に吸収合併されることである。
 しかも、新たに発足するこの巨大な政府系金融機関が、農林省と財務省の省益をめぐる激しい縄張り争いの影響から自由でいられるはずがない以上、中小企業向けの融資が、農業や漁業に関する公共投資的な事業への巨額融資や、財務省官僚OBが省益を守ろうとする政治融資との間で、激しい綱引きを余儀なくされることを意味している。そして、こうした国家官僚機構を巻き込んだ公的資金をめぐる争奪戦でモノを言うのが、融資先の厳密なリスク評価にもとづく将来性とか社会的有用性ではなく、官僚的縄張り、要するに行政権限の拡大や確保であり、あるいはそうした融資や投資を政府に認めさせる国家官僚や族議員の政治的影響力であることは、小泉改革の以前も以後も変わりはない。
 以上のような、この国の現状では十分に可能性のある公的中小金融環境の変化は、民間金融機関の「硬直した企業統治」という現実とも相まって、国内事業所数の90%を占め、労働者の約70%を雇用している中小企業群に融資されるべき資金が、更に減少すると予測させるに十分であろう。それは中小公庫の貸出残高7兆5千億円と国金の貸出残高9兆5千億円が、官僚と族議員の〃政治力の差〃を反映して08年度以降は大きく減額され、中小企業の30%に相当する国金の融資先139万社の資金繰りを悪化させるに違いない【05年度版『中小企業白書』による】。
 こうして、小泉政権下の4年間で50万9千社(11・7%)の中小企業が消滅した【「05年中小企業実体基本調査(速報)」による】現実の延長上にさらに多くの中小企業の消滅が促進される一方で、中小企業向け融資から引き上げられた公的資金は、農林族と財務官僚の思惑に翻弄されつつも、「グローバル化への対応」と称する国家的事業への融資や投資へと姿を変えることになるのである。
 そう!これは社会的格差を是正する再配分機能を解体し、そこで使われていた公的資金を国家官僚と多国籍資本が必要とする分野へとシフト転換する、小泉改革の本質を象徴する政策金融の逆転なのだ。

 公的中小金融の再編が明らかにするのは、言わば庶民が必要としている小金(こがね)を巻き上げ、国家官僚や多国籍資本の必要に応じて資金を再配分する、その限りでは極めてシンプルな国家権力を使ったある種の「所得移転」である。しかもそれは、選挙された訳でもない「民間議員」なる連中の主観的主張にもかかわらず、経済財政諮問会議なる装置を通過することで、「改革」という「進歩的政策の衣」を纏うのである。
 たしかに、私的官僚制とでも呼ぶべき日本資本主義の硬直した企業統治は、グローバリゼーションの圧力を受けて、抜本的な再編成を迫られてはいた。だがそれは、小泉改革のような〃アメリカモデルの機械的適用〃によっては実現されないことが明らかになりつつある。しかも小泉的改革は、むしろ経済の柔構造に打撃を与え、その不安定さを増す危険をはらんでいると言える。
 必要とされていた国家金融再編は中途半端に終わった一方、これに紛れ込ませた公的中小金融機関の再編もまた、ようやく落ち着きを見せ始めた日本経済に中小企業の大量倒産という、新たな打撃を与えることになる危険をはらんでいる。それは「角を集めて牛を殺す」類いの、本末転倒であろう。
 政府系中小金融機関の再編は、そうした考慮を決定的に欠いているのではないかとの疑念を拭いきれないのだ。

(5/2:きうち・たかし)


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