【皇位継承問題】

「男系」と「女系」の間で揺れる天皇家

「平等」原則と親和する新たな直系皇統の創設は可能か?―

(インターナショナル第160号:2005年11月掲載)


▼皇位継承をめぐる激震

 11月4日の各紙に掲載された、三笠宮寛仁親王が「女性天皇容認に疑問」の記事は、皇位継承を巡って難しい状況にある皇室に、激震をもたらした。寛仁親王の発言は、男系男子での継承を求めたもので、そのための具体的な方法として、(1)元皇族の皇籍復帰(2)女性皇族に養子を認め、養子に皇位継承権を与える(3)廃絶になった宮家(秩父宮、高松宮)の祭祀を元皇族に継承してもらい再興する(4)側室制度の復活などを挙げている(毎日11月4日)
宮内庁はすぐさま8日の定例会見で風岡典之次長発言として火消しを行い、「(エッセーは)私的な会報の中で個人的な見解を述べられたものと受け止めている」と述べ、宮内庁として改めて真意を確認しない方針を表明。さらに、「7日にあった「皇室典範に関する有識者会議」でも「特にそれ(寛仁親王殿下のエッセー)が議論になったことはありません」と、寛仁親王発言の影響を封じる行動に出た(毎日11月9日)。
親王発言は、福祉団体「柏朋会」(東京都港区)が発行している「ざ・とど」の第88号(9月30日発行)で、「とどのおしゃべり−近況雑感−」と題したエッセーで触れたもので、一ヶ月以上前の発言である。この発言がわざわざこの時期を選んで報じられたのは、10月末・11月初の「皇室典範に関する有識者会議」において、女性・女系天皇容認と長子継承が多数意見となり、この線に沿った答申が、11月末にも出されることが決まったことへの、反対派からの牽制であろう。内閣主導の皇室典範見直し論議に対して、天皇家内部にも異論があることを報じることで、女性・女系天皇容認の流れに歯止めをかける狙いである。

▼くすぶる皇位継承の争い

 三笠宮寛仁親王の発言が大きく報じられることには、もう一つ意味があろう。それは、皇位継承を巡って、皇室内部にも争いが起きている可能性を示唆するからである。
 男系男子をもって皇位継承の原則とする限り、現天皇家の断絶は目前のことである。そしてこれは、天皇家断絶を生じさせないために設置された宮家においても同様であり、全ての宮家において、男性の後継ぎがいないからである。そして小泉首相をトップとして、その私的諮問機関として設けられた「皇室典範に関する有識者会議」の結論が、女性・女系天皇容認で動いている事は、現天皇家もその線を期待し、皇太子の娘、愛子内親王への皇位継承を望んでいることは明白である。
 この状況の中で、宮家が「元皇族の皇籍復帰・女性皇族に養子を認め、養子に皇位継承権を認める」と発言することは、現天皇家の皇位継承方針に異を唱え、自らの宮家にも皇位を継承させろと主張しているに等しいのである。
 なぜなら、断絶の危機は、当主の年齢から見れば、宮家の方が先に来る。従って三笠宮家の二人の娘のどちらかに元皇族から婿養子をもらい、その養子にも皇位継承権を認めると言う事は、もし二人の間に男子が生まれれば、親たちは皇太子・秋篠宮と同世代であるので、この男子は、皇太子・秋篠宮の次の世代の皇位継承者の中で、とりわけ優位な位置を占めることが確実だからである。
なにしろ、秋篠宮と皇太子の子供は全て女性である。そして天皇家はその歴史において、現天皇の直系に男子がいない場合には、現天皇になるべく近い血筋で、しかも現天皇の次の世代の男系男子から天皇を選ぶということを原則にしていた。したがって皇太子と秋篠宮に男子が生まれない限り、三笠宮寛仁親王の孫にあたる男子は、有力な皇位継承候補になるのである。

▼男系優先論のねらいは血の純潔を高める事

 この三笠宮寛仁親王の「男系優先」論以外にも、男系優先の言説が流布されている。そしてこの論者は「有識者会議」に対抗して、「皇室典範を考える会」(代表・渡部昇一上智大名誉教授)を結成し、「有史以来の伝統を守る姿勢が大前提」として、有識者会議に旧皇族の皇籍復帰を検討するよう要請している(毎日10月21日)。
 この論者の意見は、今の天皇家も嫡流の男系男子が絶えた時に、傍流の男系男子が即位したものであり、現天皇家に代って、皇籍を離脱した旧皇族に復帰してもらって天皇位を継ぐ事は、先例もあり、なんの問題もないというものである。
 確かに天皇家は、その歴史において、直系の男系男子が断絶する危機に面した時には何度も、傍系の男系男子から皇位継承者を選んで、天皇家を存続させてきた。例えば現天皇家の祖先にあたる光格天皇が1779年に傍系の閑院宮家の第六皇子から即位したのは、祖父の兄・中御門天皇の系統が後桃園天皇で絶えたためであり、彼は後桃園天皇の皇女を皇后として即位したのである。つまり当時の天皇の3代前に遡った親族の子孫から選んだのであり、傍系と言っても、なるべく現天皇から近い所から選んだのである。
 しかし今日において、現天皇の何代前に遡ったら男系男子がいるのであろうか。天皇の弟常陸宮には子供がいない。昭和天皇の弟である三笠宮家にも寛仁親王の次の世代の男子はいない。そこで引っ張り出されたのが、戦後に皇籍を離脱した11の旧宮家である。この宮家の男子と今の天皇家や宮家の女子とを結婚させれば、男子継承ができ、天皇の血の純潔は、女系継承より高まるからである。
だが、この11の宮家の祖先が天皇家から分かれたのは、なんと600年ほど前。1428年に、皇統の直系男子が絶えた時、伏見宮家の嫡男が第102代の後花園天皇として皇位を継いだ後、その弟が継いだ伏見宮家以来である。
 この宮家には途中で何度か皇女が嫁ぎ、最近では明治天皇の皇女と昭和天皇の皇女が嫁いでいるとはいえ、男系であっても、なんと現天皇家から遠い事か。このように血統的にも遠い親族から天皇を選び、600年続いた系統を無視するという事は、あまりに現天皇家を無視した行為と言わざるをえない。
 思うにこれは、昭和天皇以後の天皇家が、后に一般人を選び、国民に開かれた皇室を目指して慣例を次々に破ってきた事に原因がある。天皇家は天照大神の血筋を引くものとして、その血の純潔を維持するために腐心してきた。そのため天皇の后は、天皇の娘か皇族、そして天皇家と相互に婚姻関係を結ぶ特別な氏に限られてきた。そうすることで、婚姻によって天皇家の血が薄まる事を避けようとしたのだ。
しかし現天皇以後、后に一般人を迎えてきた事は、この原則を破り、天皇家の血の純潔を薄めてでも天皇家の存続を図る策であり、これに女系での継承が加われば、さらに天皇家の血の純潔は薄まり、それが持つ神性は、限りなく失われていく。これは、天皇の神性を護持することで日本社会の家父長制的特徴を維持し、日本を民族主義的に変えていこうとする人々にとっては、許しがたい犯罪なのである。
そして、現天皇が、東京都の君が代・日の丸強制に不快感を示したり、中国や韓国へ侵略の謝罪の言葉を口にしたり、さらには先だってサイパン島を慰霊に訪れた際に、韓国人慰霊碑に参拝するという行動。要するに、小泉首相が連年靖国神社を参拝し、日韓・日中関係を悪化させていることに対する不快感の表明とも言える天皇の行動も、これらの現代の天皇主義者には、認めがたいことである。
ゆえに、男系男子継承を唱え、現天皇家の皇位継承方針に反対する現代の天皇主義者の行動は、天皇の血の純潔を高め、侵略戦争を肯定し、勃興するアジアや世界支配を強めるアメリカに対抗する民族主義的国家に日本を変えようとする動きの一環なのである。

▼男系優先は天皇家存続を危うくする

 しかし、男系男子を皇位継承の原則として維持しようと言う考えは、憲法に規定される男女平等の原則と正面からぶつかる。天皇は国民ではないから、国民における男女平等の原則に縛られないという議論も出されるであろう。
 だが、明治時代ならいざしらず、男女平等の原則が憲法に明記されて60年あまり。一般世間でも女性がオーナー企業の社長を継ぐ事例すら増えている現代において、男系だけを神聖視する考えは、大きな抵抗に会うに違いない。なぜなら、男系男子継承の考えは、天皇家の女性または天皇家に嫁ぐ女性を、高貴な種としての天皇の男子を生むだけの道具に落しこめるからである。そしてこれは、いまだに、「男子を生めない」ことで肩身の狭い思いをさせられている世の妻たちに対して、さらなる抑圧を生むことになり、女性たちの反発、たとえば男社会に抵抗する結婚しない女性たちに、「やはり日本は男子優先の男社会=家父長制社会でしかない」という認識を強めさせ、天皇家や日本という国が、女性たちの総反発をくらいかねないのである。
 かの明治時代においても、男女平等の考えと天皇制を親和させようという動きはあった。皇室典範が制定される過程において、1886年に出された最初の案は女性天皇容認・女系継承容認であった。その理由は、女系・女性を認めないのは男尊女卑であるとするのと、もし男系男子がいない時には、天皇家の存続すら危ぶまれるというものであった。しかし枢密院において男系男子を聖なる原則として振りかざす天皇主義者の反撃の前に、女性・女系天皇容認論は敗れたのであった。だが、男女平等原則への配慮から生まれた一夫一婦制の採用に伴う側室制度の廃止(これは他の面では、后を一人に限り、后を出す家柄を再度皇族か限られた氏に限定するという血の純潔を高める性格を持っていたことは注意されて良い)は、皇統断絶の危険があることを知りながら採用された(以上、遠山茂樹著「明治維新と天皇」岩波書店1991年刊、飛鳥井雅道著「明治大帝」筑摩書房1989年刊による)。また、男女平等原則に配慮して、天皇・皇后ともに「陛下」の称号を使う事とし、天皇・皇后が平等に、臣民の父母として存在するようにしたのである。
 だから戦後の皇室典範改正の時も再び、女性天皇容認問題が再燃した。憲法に男女平等の原則が明記されたのだから、国民の象徴として国民に範をたれるべき天皇家が、男女平等原則を取らないのは不自然だし危険だと言う意見が出されたのである。この時は、とりあえず男系男子の候補が多数存在しており、皇位継承の危機はないとのことで論議は先送りされ、将来男系男子が絶えた時には皇室典範の改正を行い、天皇の内親王に皇位を継承させることを予測した上で、議論を収束させた。しかしこの時においても、旧典範が庶子を皇族と認めていたのを嫡出子のみと改定し、一夫一婦制を徹底したのである(以上「有識者会議」の諸資料による)。
このように、皇室典範の歴史の中においても、すでに男女平等原則との親和性が問題になり、その時点で可能な限りで、平等原則への配慮がなされてきたのである。
 天皇の地位は憲法に定められるように、「日本国民の総意に基づく」ものである。この文言の中に、「国民の総意」が変化した時においても、天皇家の存続をなんとか図ろうという意図が込められている。つまり、「国民の総意」へ寄り添うことが天皇家存続の条件だと認識されていたのだ。
 だからこそ、昭和天皇の世代までは、后を宮家や華族の中の公爵家などから選んできたのを、現天皇の世代からは、一般から選ぶようにしたのだ。そして天皇・皇族も自らの手で子育てをし、民主的でお互いを認め合い支えあうという、理想的な家族を演じてきたのだ。このように現天皇家が、できるだけ「開かれた皇室」「国民の模範になる皇室」「親しみやすい皇室」を演じてきたのは、彼らの地位そのものが、「国民の総意」に基づくものであり、その国民が世界の流れの中にあって、かならず民主主義の考え、自由と平等の考えを自分のものにするに違いないことを見とおしたからである。
 今日、あくまでも男系男子、ましてや側室制度の復活にこだわり、女性を「子生み道具」とする動きは、このような流れに逆らうものであり、皇室の存続を危うくする動きなのである。

▼試みられた女系継承

 今までの女性天皇は全て、皇位継承候補者が幼すぎるか、もしくは候補者が多すぎて絞れないときの、中継ぎの一時的な天皇であった(例外は、江戸時代初期の1629年に即位した第109代明正天皇。これは徳川の血が天皇家に入る事を嫌った後陽成天皇が、徳川和子との間の長女を即位させて、この系統を断絶させたもの)。
 では天皇家の歴史の中において、本当に女系で天皇家を継承させたことはなかったのだろうか。実は少なくとも2例、女系で継承させようと試みた例があり、二つとも、当時の公家達の多数が支持したのである。
 一つは、奈良時代の聖武天皇の時である。天武・草壁皇子・文武・聖武と続いた皇統は、草壁の皇子文武が幼かったために、草壁と天武の死以後、持統・元明・元正と3代続けて母・叔母たちが天皇に立った。そのため文武・聖武は2代続けて天皇の娘という、当時の皇后の条件を満たす女性を見つけられず、やむを得ず、藤原氏という氏を天皇の后を供給する特別な血筋として新たに設定し、聖武はその后藤原光明子を始めて氏出身の皇后につけ、二人の間に生まれた男子を、生まれるやいなや皇太子につけるという慣例破りをやってまで、自己の皇統を正統なものにしようとした。しかし、この皇子は数ヶ月で死去し、二人の間には2度と男子は生まれなかった。そして、草壁親王の娘(聖武の叔母:吉備内親王)を后とした天武天皇の孫の長屋親王という最大のライバルを謀反の罪で葬ってまで後を継がせようとした、他の后との間に生まれた唯一の男子も18歳で夭折。聖武は皇統を継ぐものを全て失うと言う事態になったのであった。
 この時、聖武が取った方法が女系による継承であった。聖武は光明子との間の長女を皇太子に立て(後の孝謙天皇)、次女を天智天皇の孫である白壁王に嫁がせ、二人の間に生まれた男子に皇位を継がせようとした。そして聖武の後を継いだ長女(孝謙天皇)はその後生まれた男子(他戸王)にあとを継がせる為に、他の天武天皇の血を引く男系男子の皇族を全て謀反の罪に陥れて抹殺し、天武天皇の子孫である男子は、その他戸王一人の状態にしてしまった。
 770年、彼女が死の床についたとき、並み居る群臣は、その聖武天皇の女系の孫である他戸王を次の皇位継承者として認め、彼がまだ幼いので、父の白壁王を中継ぎとして即位させた(光仁天皇)。この女系で皇位を継がせようとした試みは、白壁王の長子(後の桓武天皇)が皇位を望み、弟と継母を謀反の罪で捕らえて毒殺しなければ成功していたのである。しかし桓武天皇の即位が公家達の合意を踏みにじったものであることは、彼および彼の3人の息子達が、異母妹の皇女たちを次々と妻にして正当な血統の後継者を得ようとし、桓武王朝の正統性を認知させようと必死で動いた事によく表されている(以上、河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」吉川弘文館1986年刊による)。
 もう一つ女系で継承させようとした例が室町時代にある。それは、将軍足利義満の子に皇位を継がせようという出来事であった。
 時の天皇・後小松の男子は一人だけで、幼い時から病弱。皇位の継承は危ぶまれていた。この時「名実ともに兼ね備えた」候補として動いたのが足利義満である。彼は女系であるが、鎌倉時代の順徳天皇五代の孫なのだ(天皇の五代の孫で皇位についた先例として、継体天皇がある)。そして後小松天皇とは母同士が姉妹という従兄弟。所領の大部分を失い、消滅寸前に陥っていた公家たちは、彼らの生殺与奪の権を持つ室町将軍に取り入り、彼の天皇家簒奪の企てに荷担し、女系で天皇の血筋を伝えているのだから良しとすべしと、彼の子息を後小松天皇の養子として即位させる手はずを整えた。
 この企ては、1408年に義満が急死し、後継将軍が父への太上天皇号贈与と弟の即位辞退をしたので失敗をした(以上、今谷明著、「室町の王権―足利義満の王権簒奪計画」中央公論新書1990年刊による)。義満の死で自由に動けるようになった後小松天皇は嫡子に譲位し(称光天皇)、その嫡子が子もないまま若死にすると、北朝天皇家の嫡流である伏見宮家から養子を迎えて即位させ(後花園天皇)、皇統の断絶を救ったのである。

▼女性・女系天皇容認の抱えるジレンマ

 歴史を紐解いてみる時、女系で天皇家を継承しようという試みは存在した。そしてその例からもわかることは、天皇というものは、皇統の継承を第一に考えるだけではなく、自己の血統に皇統を継承させようという強い意思を持って行動し、慣例すら無視して新しい皇位継承原則を作り上げようとするということだ。さらにもう一つは、天皇という権威と一蓮托生となっている者たちもまた、自分たちにとって都合の良い天皇ならば、それが女系であろうが、天皇家に代る他の氏による皇位簒奪であろうがかまわないという意思を持つということである(そしてこれは、神の至高性が薄れた時代ほど顕著になり、だから神の権威が低下した室町時代以後、足利義満や織田信長がこれを試みたのだ)。
 では、現天皇は、自己の血統にどのようにして皇位を継承させようとしているのだろうか。
 現天皇の血統には皇太子・秋篠宮以外の男子はいない。とすれば皇太子の娘・愛子内親王に継がせる以外に方法はないのである。従って女性天皇容認・女系での継承容認以外に方法はない。問題は、愛子内親王の夫を誰にするかである。
 聖武の時には、3代遡った天智天皇の子孫という男系で天皇家に繋がる夫がいた。だから女系でも継承が可能だったのだ。だが愛子内親王には、男系で皇統に繋がる夫候補は、今の皇族の中にはいない。可能性があるのは、たしかに伏見宮家の血を引く、旧皇族11家の男子だけである。
 しかしこれでは、愛子内親王は、完全に「種としての天皇」の男子を産むための道具になってしまう。すでに皇太子妃雅子が男子を生めないと言う理由でバッシングにあい、彼女を非難した人々から妻を守ろうとした皇太子を、弟秋篠宮が批判してもめ、世間のひんしゅくをかった。やはり「天皇家も男子優先の家父長制なのだ、古臭い化石のような家系」というイメージは、権利意識に目覚める女性たちを前にしては、絶対に避けたい所である。
 現天皇家は皇后に一般人から正田美智子を選んだ時から、皇族・華族という特別の血を持った家系から后を選ぶという従来の皇室の慣例を破り、天皇の血の純潔を薄めるという新たな直系皇統創造の道に入っている。そして先頃行われた天皇の長女紀宮清子内親王の婚儀において夫として選ばれた黒田慶樹氏は、その祖父が三井財閥の大番頭の一人であり、父もトヨタ自動車販売の重役、そして彼の家系が、婚姻を通じて、明治の元勲大久保利通や吉田茂元首相・麻生太郎外務大臣に繋がり、三笠宮家とも縁戚関係になるとはいえ、一般人であることには変わりがなかった。
 この動きから見て、愛子内親王の夫は一般人から選ぶしかない。残された道は、女系で現天皇家に繋がる一般人か、黒田氏のような財界主流に繋がる家から夫を選ぶ道である。しかしこれは、天皇家の皇統継承原則を完全に壊す事になるし、天皇の血の純潔を限りなく薄め、天皇が帯びてきた神聖性すら解体する可能性を秘めており、右からの根強い反対にあう可能性が高い。
 戦後日本国家は、象徴天皇制をとって天皇家を存続させたことに象徴されるように、財閥解体・地主制度解体という大いなる民主化を進めたようでいて、その実は、旧来の家父長制的関係をあらゆる所で温存し、それをばねにして戦後急成長を遂げてきた。財閥は系列企業と言う形で存続し、企業は擬似家族共同体として機能してきたし、企業別労働組合もまた擬似家族共同体であったし、官僚組織も農協などもそうであった。そしてそこにおける権力の継承は天皇家と同じく男子優先で、職場秩序はまさに男社会であったのだ。
 しかしその結果として女性にとっては暮らしにくい社会となり、社会人として仕事を持って社会に貢献したいという希望を強くもっている女性たちが、結婚して子育てをしながら社会人として活動することをほとんど不可能にしてしまった。それゆえ、結婚しない女性・子供を産まない女性が多数生まれる事となり、ただでさえ少子化の傾向の強い先進国の中にあっても異常なほどの事態となり、社会の存続さえ危ぶまれるに至っている。
 少子高齢化の解消。これはすでに国家にとっても企業にとっても絶対の至上命題となっており、国も企業も、男女が平等に家事と子育てを分担し、女性も安心して子育てをしながら働きつづける社会を築き上げるために、さまざまな改革をしなければならない所に追い込まれている。この時において、女性天皇を認めず、女系での継承も認めないということは、国家の頂点において女性を平等な人間としては認めないと内外に宣言するに等しい。従ってこの道は、今の国家官僚にも企業の官僚にも選択することはできないのである。だから、靖国参拝を強行し、中国や韓国の勃興に敵愾心を燃やす民族主義に染まった人々に媚を売って政権を維持しようとする小泉が、自らの手で、女性天皇・女系継承容認の動きの先頭を担っているのである。
 しかし、家事と子育てを男女が平等に担う社会への変革は、日本社会の家父長制的性格の根本的変革となり、社会のあらゆる構造の変革を必要とする。そしてこれは、古い社会慣習の抵抗だけではなく、労働基準法から女性の保護規定を削除したり企業において成果主義を強めたり正社員を減らして非正規雇用労働者を増やすなどして、労働コストを減らす事でグローバル化に対抗しようとしている社会の新自由主義的改革とも衝突するなど、さまざまな困難が待ちうけている。
これと同様に、女性・女系天皇の容認は、皇位継承の家父長制的要素の解体であり、このような「皇室の民主化」は天皇の血の純潔を限りなく薄め、神性を伴う天皇制そのものの解体へとつながる。この動きは、日本国民の中に生まれた「民主主義的」雰囲気に依拠して進められてはいるが、これは、日本社会の家父長制的性格の護持と神性天皇制の護持を持って排外主義的民族主義的に日本を改変しようとする運動ともぶつかり、日本社会の全面的改変と通底するがゆえの様々な抵抗にあうだろう。
 女性天皇容認・女系天皇容認は、日本を旧来の家父長制的くびきから解放し、より民主主義的な男女平等の社会に変革していく「構造改革」の象徴なのであり、この「構造改革」の困難さを共有してもいるのである。したがって、「有識者会議」が、女性・女系天皇容認の答申を出したからといって、そのまますんなりとこれが国会で決定されるわけではないのである。まだまだ紆余曲折があるだろう。

(11月20日 すどう けいすけ)


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