【中国の反日デモと韓国の対日批判】

日本近代史の負債に向き合う新たな戦没者慰霊碑の創造を

=「脱亜入欧」から脱却する、日本民衆の能動的メッセージ=

(インターナショナル第154号:2005年4月掲載)


▼戦後日本の何が問題なのか

 「小泉政権の政治的命脈は尽きた。しかもそれは政権の一枚看板である『構造改革』の行き詰まりを契機としてではなく、政局とは無縁と見なされている外交的破綻を契機にして明らかになった」。

 これは本紙152号(1-2月号)掲載の『日中首脳会談が暴いた小泉の対中外交の破産』の一節である。表題にある首脳会談は今から4カ月余り前、昨年11月21日に1年1カ月ぶりにサンチャゴで開催された会談であり、「対中外交の破産」というわたしの断定は、4月上旬の激しい反日デモと中国政府の強硬な態度によって裏付けられた。
 だが3月上旬以降、中国の反日デモに先だって韓国の盧武鉉(ノムヒョン)大統領が「未来志向」から厳しい対日批判に転じ、竹島(獨島=ドクト)領有をめぐる対立を含む日韓関係も険悪化した事態を考えれば、小泉政権の外交的破産は「対中」にとどまらない「対アジア」外交全般の破産として再認識されなければならない。
 だが同時に現在の日中・日韓関係の険悪化という事態は、前掲「日中首脳会談」の検証でも指摘したように戦後日本の保守勢力、とりわけ「中国大陸への侵略戦争を自ら始めておきながら、その戦争の後始末を自らの手ではまったくできずに連合国、とりわけアメリカに『後始末をしてもらう』ことで生き延びた戦後タカ派」(前掲152号:5頁)の外交的破産を意味するだけでなく、明治政府以来の近代日本が戦後も引きずりつづけてきた「脱亜入欧」という国家的規範からの脱却を突きつけていると言える。
 戦後日本の保守政治家が、口先では謝罪を繰り返しながら過去の侵略戦争を一向に反省しないのは、もちろん東西冷戦という特殊な国際情勢の下で「戦争の遂行とその惨憺たる結末に大いに責任のある高級官僚や政治家たちが、国家元首たる天皇がその地位に居座ったのに倣って〃国家の指導者としての責任〃を免れた」(同前)ことに起因する日本保守勢力の歴史的負債が、今も清算されていないことの証しである。
 だがその保守と対決した戦後革新も「アジアに対する優越感」を共有し、竹島や尖閣諸島については今も「日本固有の領土」と言ってはばからない。それは戦後革新勢力もまた一握りの軍指導者に戦争責任のすべてを押しつけ、対米戦での無残な敗北と広島・長崎の被爆に代表される「庶民の被害」を強調する反面、中国とアジア諸国で旧帝国陸軍の大半が壊滅した「アジアでの敗戦」と「日本による加害」を過小評価した敗戦処理を保守勢力と共に受け入れた結果である。そのうえ近代日本が引きずっていた家父長的な社会的倫理規範を省みることなく「一知半解なアメリカ的個人主義」に乗り移り、「平和国家としての再生」という虚構の上に安住し、保守勢力と共に経済的繁栄を謳歌してきたと言うのは言い過ぎだろうか。
 それは結局のところ戦後日本の保革両勢力が、日清・日露両戦争を含む近代日本の歩みを基本的には正しいと捉え、1945年に破滅した大陸侵略と大東亜戦争を「一部の軍国主義者が主導した例外的事態」と見なす歴史観を共有してきたことを物語っている。「脱亜入欧」という近代日本の国家的規範からの脱却が問われる所以である。
 だがこうした、日中・日韓関係の険悪化を無自覚のうちにも不断に挑発する戦後日本の政治構造は今、冷戦の終焉とグローバリゼーションの圧力を受けて文字通りの意味で根本的転換を迫られている。しかも現実の日本社会は、保革を問わず戦後賠償と戦後補償に無頓着だった結果として、歴史的負債の清算とアジア諸国との新しい関係の再構築を同時に進めなければならない「二重の課題」に直面しているのである。

▼日中国交回復の誤算と無自覚

 韓国そして中国との関係が険悪化した直接的原因は、前掲「日中首脳会談」の小論でも指摘したように、小泉による靖国神社の公式参拝にある。さらにこれに国連改革問題が、つまり日本を国連安全保障理事会の常任理事国にしようというアナン事務総長の構想が、中韓両国とくに韓国の対日不信を刺激したのも明らかである。
 だが中韓両国との外交関係を修復して相互協力を発展させる現実的な打開策を見いだすためには、事態をより正確に理解することが必要である。中国政府の「原因は日本政府にある」とする強硬な態度の「本音」を理解するには、日中両国政府が国交回復当時に依拠した「外交上の虚構」を確認しておく必要があるし、韓国政府の「唐突な転換」の背景を知るには日韓条約の不備、とりわけ個々の戦争被害者に対する補償がアメリカと日本の都合によって切り捨てられた事実を確認しておく必要がある。
 まずは日中国交回復当時、両国政府が依拠した「虚構」を確認しよう。

 1972年、日本との国交回復を決めるにあたって中国が直面した最大の難関は、かつての侵略者・日本との友好を、侵略の被害者である中国が賠償請求権を放棄してまで実現する理由を、他ならぬ中国民衆に納得させることであった。
 「日本の中国侵略は一部の軍国主義勢力によるものであり、日本の大多数の国民は中国国民と同じ戦争の被害者である」という中国側の見解はこのために考え出されたのだが、これは「虚構」である。それは個々の日本兵による数々の蛮行の背後に、当時の日本社会に蔓延していた中国蔑視があったことだけでも明らかである。つまり日中国交回復は、この「虚構」を両国政府が共有することではじめて実現されたのだ。
 こうした中国共産党の対応は、もちろん賠償金に匹敵する経済援助を獲得しようとする極めて実利的側面を持つ一方で、日本兵捕虜の一部が中国共産党・紅軍と共に国民党との内戦を戦い、あるいは帰国後に日中友好運動を担った現実もあったが、何よりも原爆や無差別爆撃の経験を通じて日本の民衆に広く浸透した「被害者意識」を考慮する柔軟な姿勢を示すものでもあった。
 中国政府が「首相と官房長官と外相は靖国を参拝しない紳士協定」の存在まで持ち出して靖国参拝中止を要求するのは、A級戦犯という「軍国主義勢力の頭目」を合祀する靖国参拝が、「日本人も同じ戦争の被害者だ」と言う虚構を否定することに他ならないからなのである。日中両国が共有すべきこの虚構が崩壊すれば、後述するような中国進出日系企業の「非現地主義」も助長した若い世代の反日感情は、日本による中国侵略という歴史的現実と結びつくことで更に鼓舞され、文字通り押し止どめ難い不満のマグマとなる可能性があるからなのである。
 ところが中国の誤算はこの虚構が持つもうひとつの側面、つまり戦後日本がアジア侵略という近代史の負債と真摯に向き合うことを阻害する要因になったことである。なぜならこの虚構は戦後日本社会の内面、とりわけアジア侵略に自ら手を染めた後で戦後日本の復興を担い、72年には日中国交回復を決断もした田中角栄ら「戦中世代」に付きまとってきた「侵略への後ろめたさ」にある種の免罪を与え、「皇軍による戦争犯罪」に対する謙虚な自省の契機をむしろ後退させることになったとも言えるからである。
 結果として、「戦中世代の後ろめたさ」のために元々「日本近代史の負債から目を背ける」傾向のあった戦後日本の歴史教育は、この免罪を得て「近代史の負債を忘却する」傾向をさらに強め、ついに今年は「慰安婦」という記述がすべての教科書から消えてしまうに至ったのである。
 しかも小泉やこの政権の閣僚たちに代表される「戦後世代」の世襲議員たちは、いわば「後ろめたさを忘れたい」戦中世代を親に持ち、日本近代史の負債をほとんど教えない歴史教育を通じて「加害の現実感」からさえ切り離されてしまったのだ。そしてまさにそのことが、靖国参拝に対する中韓両国政府との認識の落差を不断に拡大している。それは日中友好が危うい虚構の上にかろうじて成立してきたことに対する日本政治の、いや正確にはアメリカの庇護に隠れて戦争責任に〃ほおかむり〃してきた「日本社会の」無自覚を象徴している。

▼戦後補償を切り捨てた日韓条約

 では日韓関係の険悪化を招いた直接的原因は何であり、その背後にある日韓条約の問題点はどのようなものだろうか。

 1965年4月、同年6月の日韓基本条約調印に先立って対日請求権、漁業、在日韓国人の法的地位に関する協定の「三懸案」協定が調印されると、韓国・ソウルでは仮調印無効を訴える学生デモが連日のように行われた。61年5月のクーデターと同年7月の政変をへて成立した当時の朴正熙(パク・チョンヒ)軍事政権は戒厳令を布告してこれを鎮圧したが、このとき韓国の学生デモが掲げた要求のひとつが「李承晩(イ・スンマン)ライン死守」、つまり1960年4月の学生革命で打倒された李承晩政権が、竹島(独島)領有を宣言したことを擁護することであった。
 一方の日本では日韓条約反対運動は盛り上がりを欠き、11月になって衆院日韓特別委員会で自民党が強行採決をしたことでようやく高揚を見せるのだが、日本の条約反対運動の柱は「日韓軍事同盟反対」であり、植民地化による加害への謝罪や戦後補償の不備といった視点は完全に欠落し、当時の社会党は「竹島領有が不明確である」ことも反対の理由に挙げてさえいた。
 こうして今日にツケを残すことになった条約は戒厳令と強行採決によって締結されたのだが、それが急がれた背景にはアメリカの強い意向と共に、韓国の軍事政権にとっては経済開発に必要な資金の獲得が、日本の財界には「賠償利権」と呼ばれた紐付き援助に便乗し、韓国からアジアへと経済進出を果たそうとの思惑が働いていた。
 事実この年の2月に北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始したアメリカは南ベトナムへの地上軍投入を本格化させ、その分だけ韓国や台湾への経済援助を日本に肩代わりさせようとしていたし、独裁を強化しつつあった朴政権は民衆の反抗を押さえて政権基盤を強化する経済開発の必要に迫られていた。そして1960年以降「所得倍増」をキャッチフレーズにして国内総生産の倍増政策へと転じていた自民党政権の下で、日本経済界は新たな市場と資源調達先を確保しようと、敗戦で崩壊したアジア諸国との経済関係の回復を切実に求め始めていたのである。
 かくして韓国の軍事政権は、対日賠償請求権を放棄する見返りに3億ドルの無償援助、2億ドルの長期低利借款、3億ドル以上の商業借款を日本から獲得し、後に漢江(かんがん)の奇跡と呼ばれる経済成長を実現する最初の開発投資資金を手にしたが、同時に独島の帰属は棚上げにされ、在日韓国・朝鮮人は指紋押捺をともなう外国人登録を強いられ、韓国人と朝鮮人が戦前・戦中に被った強制連行などの被害補償は、日本の頑なな拒絶とアメリカの圧力に押し切られた韓国軍事政権の手で切り捨てられた。
 もっとも軍事政権の終焉以降、韓国政府は事あるごとに当時の協定がもつ不備の是正を日本に求めてきたが、日本政府の対応は冷淡でありつづけてきた。そして今年1月、日韓関係を「未来志向」で発展させたいとしてきた盧武鉉政権に打撃を与える事件が暴露されるのである。「従軍慰安婦」問題の国際戦犯法廷を題材にしたNHKのTV番組に政府・与党関係者が政治的圧力を加えた、あの事件である。それは当事者たちの主観的意図がどうあれ、日本のアジア侵略による戦争被害の事実さえ認めようとしないタカ派の台頭を印象づけ、盧武鉉政権に対日政策の見直しを迫る契機となった。
 したがってNHK事件の波紋が広がりつつあった1月17日、韓国政府が日韓条約の交渉文書を一部公開して条約に付随する協定の不備を明らかにしたのは、日韓関係の未来志向を脅かす日本政府と与党勢力に対する控えめな〃警告〃でもあったのだ。だが周知のように阿部ら関係議員たちの対応は文字通り居直りだったし、小泉は小泉でそれにほとんど関心さえ示すことはなかった。そればかりか小泉は、日韓漁業協定にもとづく竹島周辺の漁で不満と苛立ちを募らせる漁民の圧力を受けた鳥取県議会が「竹島の日」条例を制定しようとする動きに対しても、日本政府としての態度や日韓友好のメッセージを伝えようとはしなかったのである。
 こうして独立運動記念日の3月1日、盧武鉉大統領は従来にない厳しい口調で、日本政府に歴史的負債の清算を求める演説を行うことになるのである。それは韓国と日本の間に横たわる「近代史の負債」をめぐる認識の落差を直視すべきだという韓国側の悲痛な訴えとも言える演説であり、小泉政権が「近代史の負債」に無頓着なことで彼を追い詰めた結果でもあったのだ。
 しかも小泉政権の歴史認識に対する無頓着ぶりは、戦後はじめて靖国の公式参拝を強行したものの中韓両国の強い抗議を受けてこれを中止し、以降は朝鮮の植民地化や中国侵略を正当化する発言をした閣僚を更迭して「友好のメッセージ」を発した中曽根政権と比べても、ひど過ぎる。そしてこの中曽根政権と小泉政権の落差の要因が、先に指摘した世代間の「加害の現実感」の違いにあると言うことができるだろう。

▼日系企業の非現地化とアジア蔑視

 ところで、こうした「日本社会の無自覚」と「歴史認識に対する無頓着」は、グローバリゼーションの進展によってますます緊密になった中韓両国との経済関係に深刻な齟齬を生じさせることになった。
 フランスの『ルモンド』紙(4月1日)が、日本が先端技術や研究部門を日本に集中させ、製造部門を中国に配置する垂直型の分業が進んでいると指摘し、さらに「日本の指導者は21世紀よりも20世紀を回顧しながら中国に対する優越感を抱き始めているのではないか」と述べたのは、現在の日中関係の核心に迫る分析のひとつである。
 中でも日中間の「垂直分業」構造と日本の政治と経済の指導者たちが持つ「優越感」の指摘は、正確ではないが現在の中国と韓国の反日感情の実相を理解するためのキーワードと言って過言ではない。
 現実に日系企業の中国や韓国への進出は、主要に労働集約型産業の製造部門が中心であり、両国の安価な労働力を利用することを主眼としてきたが、それは中国を将来性のある新しい市場と位置づけ、技術移転を含む積極的な投資をすすめる欧米企業とは対照的な、典型的な垂直分業型投資であった。こうした欧米企業と日系企業の違いは、年功序列の日本的経営ともあいまって中国の若い世代の間で日系企業に対する不満と不信を助長してきたのである。
 例えば欧米系の企業は、30歳代から40歳代の若い中国人エリート層を現地法人の幹部に次々と登用して「現地化」を積極的に推進しているのに対して、日系企業では現地法人の幹部に日本人社員を派遣し、中国人や韓国人の労働者を雇って使うという相も変わらぬ非現地化構造を抱えており、この非現地化構造が中国民衆の感情、とくにインターネットを駆使する若い世代の対日感情に鈍感な日系企業の体質=現地情報から断絶された投資と経営の原因でもある。実際に野村総研の中国事業コンサルティング部長・此本氏が1年前、「若い世代の対日感情の悪化に細心の注意を払う必要がある」と講演した時も、聴衆の日本人から「南京はそうかもしれないが、・・・・この上海では、そんなこと戯言(ざれごと)ですよ」との反応があった(『週間東洋経済』5/14号)という。
 たしかに今回の反日デモの背景には、中国国内の経済格差の拡大や失業という社会問題がある。だがそれが「反日」を掲げる大衆行動として顕在化したのは、こうした日系企業の垂直分業型投資と「日本人優位の経営」に対する中国民衆の不満、とりわけ日本による侵略被害を体験していない若い世代にも、強い不満が鬱積していたことを物語っている。「日本から送られてくるのは年功序列の果ての部長か課長。力のない日本人が、力のある中国人を押さえ込む。だから、中国人は日本人を嫌い、日本人は中国人をバカにする」(上海法律事務所の高居宏文氏:同前)という指摘こそ、中国進出日系企業が肝に銘じなければならないことなのだ。
 しかも中国では近年、家電や乗用車など耐久消費財の生産・販売で立ち遅れていた日系企業が現地生産を急ピッチで拡大した結果として、溢れる日本製品が国営企業の経営を圧迫して失業者が増える一方、日本企業は大儲けしているといった「誤解」を増幅させてもいる。ところがこの誤解の要因もまた、垂直分業型投資をつづけてきた日系企業の中国市場蔑視の結果であった。
 なぜなら中国市場における日系企業の立ち遅れは、安価な旧式家電や大衆車を中心に中国市場に乗り込み、当初から中国で高性能テレビや高級乗用車を売り出した欧米企業ばかりか、同様に高性能・高額商品の販売に力を入れてきた韓国企業にも圧倒され、大慌てで高額商品を中国市場に投入し、「誤解を招く販売攻勢」に打って出ざるを得なかったからである。旧態依然たる垂直分業型のアジア進出を図る日系企業と、高額商品は売れないし買えないだろうと決めつける日系企業のアジア蔑視はまさに一対の関係にあるし、そうした日系企業の偏見こそが中国市場での立ち遅れの要因だったのである。
 だがすでに明らかなように、グローバリゼーションの進展は世界中に水平分業のネットワークを構築することを要求しているのであり、日系企業もまたこの圧力をうけて、遅ればせながら転換を始めざるを得ない事態に直面しているのである。

▼「失われた半世紀」を取り戻す

 したがって前掲『ルモンド』紙が指摘した「日本の指導者が抱き始めている中国に対する優越感」は、正確には近代日本が日清戦争の勝利以来抱きつづけてきた中国蔑視を基盤にして、敗戦による壊滅状態から経済大国にのし上がった過剰な自信によって増幅されたものである。そして現在の小泉政権が、同様の優越感を持ち始めたように諸外国から見えるとすれば、それはむしろ中国の経済的台頭で脅かされはじめたこの「過剰な自信」を、懐古趣味的に保持しようとするタカ派的虚勢のためであろう。
 ところで戦後日本が「過剰な自信」を持つ過程は、日本社会が戦争の加害を忘却する過程と一対であった。つまり60年代後半からほぼ80年代一杯までの四半世紀におよぶ経済成長の時代は、冷戦という特殊な国際情勢のおかげでアメリカに保護された一国的繁栄が許された時代であり、中国革命の波及を恐れるアジア諸国の開発独裁政権が名目はどうあれ日本の経済援助を必要とし、垂直分業であれ何であれ日系企業の投資を呼び込む必要があった時代だったのだ。
 だが冷戦の終焉とグローバリゼーションの進展が、アジア諸国との垂直分業によって一国的繁栄を追い求める日本にとっての旧き良き時代を永遠に過去のものにした。だからまた日本経済は、グローバリゼーションが求めている水平分業のネットワークをアジアにおいて構築するために、中国と韓国をはじめとするアジア諸国と新しい対等な協調関係を再構築する必要に迫られているのである。そしてまさにそのために避けて通れないのが、日本近代史に刻印された「戦争加害」の負債と向き合うことなのである。

 こうした「二重の課題」の達成は、もちろん容易ではない。だが現在のような歴史的変化が凝縮された時代は、つまり半世紀に及んだ国際秩序(冷戦)が崩壊し世界規模で経済関係の大再編が進展するような時代は、ささやかな意識の変化が、次代の大きな奔流の萌芽となり得る局面でもある。
 ひとつの焦点は、すべての戦争犠牲者を慰霊する国民的モニュメント(記念碑)の創造である。それは靖国神社による「戦没者慰霊の独占」に終止符をうち、日本政府が戦争犠牲者を慰霊する政治と、靖国が体現する国家神道の擁護という宗教とを分離して、文字通り思想・信条の自由にもとづいて戦争の加害と被害を省みるモニュメントの創造である。しかもそれは現在の千鳥が淵戦没者墓苑を国民公園から格上げし、国立の戦没者墓苑に改めるだけでも可能である。
 これは近代日本のささやかな「宗教改革」に過ぎない。だが戦争の加害を忘却しようとしてきた戦後日本の「失われた半世紀」を取り戻し、アジア諸国に対する蔑視と戦後日本が抱きつづけてきた虚構を清算して、アジア諸国との新しい対等な協調関係を再構築する前提である「ささやかな意識の変化」の契機となる、主体的で能動的なアジアに向けたメッセージとなるだろう。

(5月10日:きうち・たかし)


日本topへ hptopへ