●ニッポン放送株の買収騒動

旧構造を継承する日本経済が金融自由化に痛撃された混乱

=戦後日本の旧構造はいかにして形成されたか=

(インターナショナル第153号:2005年3月号掲載)


▼無知と誤解のオンパレード

 新興のIT企業・ライブドアによるニッポン放送を対象にしたM&A(企業買収・合併)が、フジ・サンケイグループの対決姿勢もあって注目を浴びている。
 主要な新聞とテレビがトップニュースとして大々的に報じたばかりか、週刊誌やスポーツ新聞、果ては株式になどほとんど関心のなかったテレビのワイドショーに至るまでがライブドアとフジテレビの株式取得率が何%になったなどと連日のように報じる様は、少しばかり異様であった。しかも当初はM&Aが「敵対的」買収と同義で報じられたり、ライブドアの言う「企業支配」が「乗っ取り」と混同されるなど、金融に関する無知と誤解のオンパレードとさえ言えるマスメディア報道の粗雑さは現に金融に従事する人々、とくに欧米系の金融会社やエコノミストを困惑させるに十分であった。

 そもそもM&Aは、誰でも売買できるように株式市場に上場されている株式の取得を通じて既存の企業を買い取り、その企業を売却や合併などで資本効率を引き上げるように再構築(リストラクチャリング)してより大きな利益を獲得しようとする経済行為であり、市場原理にもとづく資本主義の下では日常茶飯事である。ただライブドアによるニッポン放送株の買収のように、現在の経営陣と企業買収を目指す投資家や株主が経営戦略をめぐって対立している場合は「敵対的買収」と呼ばれるに過ぎないのであって、企業買収や合併一般を意味するM&Aとそれは同じことではまったくない。
 また企業の「支配」は、経営権つまり営利企業の重要な意志決定権の掌握を意味するだけであり、これをめぐる現経営陣と新しい大株主の対立や抗争は最大利潤を追求する資本主義的競争の一部なのであって、市場や時代の変化に対応できず利益を上げられない現経営者を株主が解任し、経営を刷新することは当然あり得ることなのだ。
 こうした「資本主義のルール」に従って理解する限り、ライブドアは成長著しい新興企業としてニッポン放送株を買収してこれを子会社にし、ニッポン放送が保有しながら配当を受ける以外「有効に活用していない」フジテレビやポニーキャニオンといった優良企業株式の入手をテコに、自社の業態拡大を意図したに過ぎない。
 だがこれに対するニッポン放送とフジテレビの反応は、「資本主義のルール」とは違う異様なものだったのである。

▼守旧派だった「改革」の扇動者

 ニッポン放送株のTOB(株式公開買い付け)を宣言していたフジテレビが、この間隙をつくようなライブドアのM&Aに不快感を表明するのは当然ではある。自ら公表したグループ企業の再編に他人が割り込んできたのだから、「不愉快だ!」と言うのは不当なことではない。だが問題は人情ではなく、結局はどちらがより積極的に利潤を追求するかなのである。
 この点フジテレビのTOBは、規模も収益もはるかに小さなニッポン放送が、株式の保有関係上はフジテレビを「支配」できる「ねじれ現象の是正」の意味しかもたない消極的TOBだったし、ニッポン放送側も「フジ・サンケイグループの一員」というブランドが維持され、収益の柱でもあるフジテレビ株保有による株主配当が確保できるなら反対する理由はない。グループ企業ならではの利害の一致である。
 要はフジテレビとニッポン放送のTOBを含む再編方針は、旧態依然たるグループ企業間の「株式の持ち合い」という排他的馴れ合い構造を前提に、だから他社がこれに参入する事態など想定さえしないものだった。エコノミストたちが「脇が甘い」とフジのTOBを批判したのも当然である。しかもフジテレビとニッポン放送は経営の刷新といった積極動機とは逆に、メディア利権を独占する企業グループの維持と防衛という、いわば守旧的動機にもとづいてグループ再編に乗り出したのも明らかである。
 ところが90年代初頭にバブル景気が崩壊して以降、当時の日経連などによって盛んに奨励されたグローバルスタンダードに対応した市場原理の導入や規制緩和は、日本でも確実に進展していた。こうして一連の金融規制の緩和がもたらしたM&Aを積極的に活用し、市場原理主義を文字通りの意味で実践して急成長した新興企業・ライブドアが、安穏としたグループ企業間の馴れ合い構造を痛打することになったのである。
 金融自由化など規制緩和の推進を積極的に扇動し、小泉の「構造改革」路線のお先棒をかついでもきたフジ・サンケイグループというマスメディア企業連合が、市場原理主義で行動する新興企業のM&Aに翻弄される姿はなんとも滑稽でさえある。

 だいたいフジテレビ経営陣が、「現代の黒船の来襲」とまで騒がれた「テレビ朝日買収事件」を忘れていたとすれば、こんな間の抜けた話もない。なぜなら1996年9月にも今回と同じような「敵対的」買収がテレ朝を対象に行われ、当時は社長だったフジテレビの現会長・日枝が、事態収拾の仲介役を果たしているからである。
 事件は、当時はまだライブドアのような新興企業だった「ソフトバンク」が、アメリカのメディア王・マードックと組んでテレ朝株の大量取得に乗り出しテレ朝と対立を深めるという、今回のM&Aと同じ展開であった。結局ソフトバンクは翌97年3月、日枝の仲介で買収額と同額でテレ朝に株式を売却してM&Aは失敗に終わるが、この時もソフトバンクの社長だった孫正義が今の堀江貴文と同じようなバッシングを受けた。ところがこの失敗は、ソフトバンクにマスメディアの「支配的派閥との人脈」という大きな財産を残したようである。
 というのも、ニッポン放送が保有するフジテレビ株を借りてフジの筆頭株主となった投資会社ソフトバンク・インベストメント(SBI)最高経営責任者の北尾吉孝は、96年のテレ朝株買収で孫の片腕として奔走した張本人だし、すでにニッポン放送を支配下に置き、同社が保有するフジ株を武器に事業提携を迫ろうとするライブドアから事実上株式議決権を奪うこの株の借り受けは、北尾とフジ経営陣が「フジテレビ経営権の防衛」で気脈を通じていることを示すからである。
 今やソフトバンクはかつてのような「行儀の悪い」新興企業ではなく、日本資本主義の支配的派閥の一角に食い込む企業に成り上がったということであろう。

▼経営者の独裁的企業支配

 ところでわたしは、SBIの北尾を非難している訳ではない。M&Aをめぐる攻防は投資家にとっては死活をかけた闘争であり、勝者は繁栄し敗者は破産するだけである。要するに今回のM&Aでは、ライブドアの堀江よりSBIの北尾が投資家としては一枚上手だと言うだけである。
 だがその北尾が、たとえ戦術的計算上の発言とは言え「敵対的買収は日本の企業風土になじまない」と堀江を批判した一言は、投資家・北尾の「日本的思考の限界」を暴く発言と言えるかもしれない。というのもSBIを呼び込んでフジ経営陣が防衛しようとしている「日本的な」経営権は、今やグローバリゼーションの圧力を受けて動揺し、これとともに「日本の企業風土」も重大な転換を迫られているからである。
 どういうことか? 日本と欧米社会の経営者に対する監視機能を比較すれば判ることだが、欧米の「近代的な資本主義」では通常、株式会社の経営者は「株主によって監視される」。だからまた経営者は株主に対して情報公開や説明責任を負い、株主総会は「最高の意思決定機関」となる。
 もちろんそれでも経営者は情報を隠したりするのだが、説明責任を含む経営の透明性の確保は、近代資本主義の成熟度を図る重要な指標と考えられている。ところが日本の経営者はこうした「下からの」もしくは「社会的な」監視をほとんど受けず、文字通り「経営権の不可侵」を享受し、独裁的に企業を支配していると言える。
 情報公開や説明責任が声高に叫ばれる昨今でさえ、引退する社長が取締役会にも株主にも何の説明もせずに後継の次期社長を指名できたり、総会屋を雇って株主に沈黙を強いても刑事訴追さえされない事実は、日本の経営者が独裁的に企業を支配している何よりの証拠であろう。
 では日本の経営者は誰の監視も受けないかと言えば、そうではない。日本における経営権は「責任ある経営者」同士の相互監視に委ねられており、この「責任ある経営者」つまり大企業の経営者で構成される特権的サークルこそ、「株式の持ち合い」によって結びつけられた支配的派閥なのである。
 出身大学ごとや地縁・血縁など縁故を主要な基盤とする日本ブルジョアジーの支配的派閥は、後述する歴史的形成過程を通じて「株式の持ち合い」という排他的な「ムラ社会」を構成し、政治家や高級官僚で構成される政界と官界の支配的派閥とも強力なネットワークで結ばれているが、こうした利害の共通する特権的人々の閉鎖的派閥が「相互信頼」にもとづいて監視し合うシステムに、馴れ合いや庇(かば)い合いが蔓延するのは不思議なことではないだろう。
 グループ企業の経営者が談合して欠陥品を隠し、グループ企業の「社外」取締役が虚偽報告の違法を承知で見逃すのも、結局は株式の相互持ち合いで結ばれた経営者の支配的派閥が経営者による独裁的企業支配、言い換えれば「企業の私物化」に一致した利益を見いだしているからに他ならない。これこそが不透明で無責任な「日本の企業風土」の基盤であり、現役経営者たちが「株主が経営者を監視する」市場原理を本音では毛嫌いをする理由である。
 つまりフジテレビ経営陣が防衛しようとしているのは、市場原理とは対立する経営者の独裁的な企業支配権であり、この土台である株式持ち合いという日本的システムそのものなのである。だがもし仮に、世界中を暴走する金融資本に抗してこうした日本的な経営者独裁が維持されつづけるなら、海外からの対日投資は減少し、国内金融資本の流失も加速され、やがては膨大な国家財政赤字のファイナンスに行き詰まり、国債の暴落と長期金利の急騰という劇的な経済的破綻に直面する以外にはない。
 ところで真に先見のある投資家なら、このような日本資本主義の脆弱さを見逃すはずはない。だが戦前の旧構造をひきずる支配的派閥に食い込むことで満足し、日本資本主義が直面する企業再編の行く末も見通せなくなっているとすれば、SBIの北尾もまた一世を風靡しながら没落したダイエーの竹内や西武の堤の後を追うだけである。

▼株式持ち合いとメインバンク

 資本主義に同様に存在する株式会社でありながら、日本と欧米の株式会社が何故かくも違った経営権を持ち得たかを歴史的に分析したのは、『なぜ日本は「成功」したか』(1982年刊)の著者としても有名な経済学者・森嶋通夫の著書、『なぜ日本は行き詰まったか』(2004年3月刊)であろう。
 この著書で森嶋は、日本の株式会社を「安定株主」、つまり長期に株を保有して経営者を支持しつづける株主と「不安定株主」、つまりいつでも自由に株を売買する「信頼できない」投資家の構成比によって分類し、1945年の敗戦以降、財閥解体や大土地所有の禁止など徹底的な改革が推進されたにもかかわらず、なぜ旧財閥を事実上継承するような特権的サークルが成立し得たかについて以下のように述べている。

 『・・・・自己完結的な株式の相互持ち合いシステムが成立可能であるためには、システムに所属する諸会社が、相互に支持し合うことを自然で不可避であると考えるような雰囲気が存在しなければならない。その点旧財閥諸会社にはそういう親密な感情が事実存在していた。しかもこれらの諸会社の中の大企業は、占領軍の指令により、いくつかの小会社に分断されていたから、集団の構成員の数は非常に大きかった。それらの中から直接的あるいは間接的な株式相互持ち合いのサークルを見つけだすことは極めて容易であったと言わねばならない』(111-112頁)。
 しかもこのシステムは『経営者が株主支配から脱却して、逆に経営者が株主を支配する体制を確立するために極めて有効であることは明白であるから、旧財閥諸企業以外にも新しい企業集団を形成して、有力な経営者たちが相互に株式を持ち合い、支配態勢をつくろうとする動きが生じた』(112頁)と言うのである。後者の「新しい企業集団を形成する動き」は、東西冷戦の激化による占領政策の転換で、一旦は追放された旧い経営者たちが復帰することで加速された。占領軍(GHQ)のリベラル派が推進した財閥解体など「経済近代化」の改革は頓挫し、占領政策の必要から解体をまぬがれた大日本帝国の国家官僚機構と手を携えた旧経営陣が、日本の資本主義的近代化を換骨奪胎していく〃逆流〃の局面が始まるのである。
 ところで株式の相互持ち合いは資金の流動化を阻害し、企業の資金需要に機動的に対処することができない。だがこの問題を解決するために戦時中に始められた体制、後に「メインバンク・システム」と呼ばれるシステムが導入されたと、森嶋は指摘する。
 戦争遂行のために考案されたこのシステムは、軍需工場などが必要とする資金を銀行が「責任を持って供給する義務を負う」システムであって、融資が利益獲得の手段である銀行業とは明らかに異質である。つまり「金を貸して利益を上げる」のが商業銀行だとすれば、メインバンク・システムは何よりも「必要な資金を供給する責任と義務」を果たすことに重点があり、利益獲得は小さな比重しか占めないのである。だがこのシステムのおかげで戦後日本の経済成長は、膨大な投資資金が潤滑に企業に供給され、巨大プロジェクトが資金不足のために中止されることもなく持続されたと言うのである。
 そして森嶋は、株式相互持ち合いとメインバンクというシステムは財閥が解体された戦後日本の産業構造の新機軸開発(イノベーション)であり、明治以来の高等教育が蓄積してきた人材がこのイノベーションを遂行したのだと続けている。
 しかし戦後日本の経済システムに関するより重要な森嶋の指摘は、戦後日本のエートスが『日本型儒教を持つ戦前派とアメリカ式新教育をうけた戦後派からなる二層社会になった』(6頁)という点にあると思われる。つまり戦前までの日本社会に行きわたっていた道徳的慣習や雰囲気(=エートス)である忠君愛国や大和魂を無自覚のうちに継承して戦後の経済復興を担った年配層と、戦後教育によってアメリカ的個人主義や自由をエートスとして刷り込まれ、80年代には大企業の若手中堅幹部や有力な青年実業家を輩出するようになった若年層に分断された二層構造になったという指摘である。

▼旧構造を襲う転換機の到来

 この分断された二層社会は、『戦後の教育改革で、占領軍は日本の教育をアメリカ式の教育に切り替えることを主張した。そうしてアメリカの理論が、アメリカのことを知らず、そのうえ戦時中は軍国主義を唱導していた教師によって教えられた』(同前)ことで形成されたと、森嶋は指摘する。結果として戦後日本の資本主義は、『人々は自分自身の良心に忠実でもなく、身を処するに厳格でもなく、嘘もまた方便であると考え、利益を得るためには人におもねって当然と考えるような、倫理的な自覚に欠けた土着的共同体』(8頁)の上に再建された。
 つまり戦後の日本社会は、崩壊した大日本帝国のエートスに代わる新機軸の構築に失敗し、この意識を引きずったまま「一知半解のアメリカ的個人主義」に乗り移って資本主義を再建したために、深い世代間の断絶に悩むことになったということである。戦後日本の政治と経済を特徴づける没主体的で無責任な〃利権に群がるムラ社会〃の土台が据えられたのである。
 かくして、普通選挙が実施され株主総会が取締役を選ぶ株式会社が設立されるなど見かけ上は近代化された戦後日本は、明治から戦前までの旧来型資本主義、つまり国家という「お上」が主導する「上からの資本主義」の多くを継承したのである。『上からの資本主義での勢力差は経済的な勢力差ではなく、社会的な勢力差−−主として政府との馴れ合いの度合いの差に基づく政府の依怙贔屓(えこひいき)−−の問題である』(11頁)とするなら、近代的装いも新たに四半世紀におよぶ平和と繁栄を謳歌した戦後日本の資本主義は、自立的個人による自由な競争という近代資本主義の原則を厳しく抑制し、政府と馴れ合う者が得をする、国際的には特異な資本主義であった。
 だが歴史的経緯がどうあれ、資本主義はその法則によって発展する。『日本経済は戦後になって上型から下型への転換期を1980年代末に再び迎えた』(12頁)。グローバリゼーションの進展が世界規模の経済的関係を急激に拡大し、国内外の市場や金融そして会社統治をも「統一された基準で結合する」ことを要求するからである。
 『運の悪いことに、戦後の日本経済は、支配的なエートスが戦前派のものから戦後派に切り替わる頃に、上からの資本主義から下からの資本主義へ転換する時機がきた。上からの資本主義のもとでは国家の意志が経済を左右しうるし、下からの場合には市場の法則が全てを決める』(7頁)。
 これが新興企業ライブドアの若き社長・堀江と、「上からの資本主義」を継承する支配的派閥の構成員・フジテレビ経営陣が激しく対立する本質的要因なのである。

 こうして最後に、どうしてもニッポン放送の正規雇用労働者の「特権的地位」について触れなければならない。
 なぜならこの主体的問題の考察ぬきには、政府による依怙贔屓のない「下からの資本主義」つまり近代的資本主義が日本に現れたにしても、市場の法則を超克しようとする新たな社会運動の展望を見いだすことはできないからである。

▼排除された外延部の可能性

 ライブドアによるM&Aの対象となったニッポン放送の昨年度営業利益は、売上高のわずか1.7%、5億円ほどである。業態的に巨大な設備を保持しなければならないとしても、利益率はかなり低水準である。
 ところが有価証券報告書に公表されているデータによれば、240人余の社員の平均年収は1165万円であり、東証1部上場企業1500社のうち40社にも満たない1000万円超の中でもトップクラスである。もちろん営業利益に比べて賃金総額が多くても構わないが、問題は前述のように、ニッポン放送には「フジテレビ株式保有による株主配当」という別の収入が労せずして保障されており、こうした営業外利益は利子と配当だけで7億円、営業外利益全体では営業利益の2倍以上、実に11億にものぼっている。
 つまり極めて高い年収に恵まれているニッポン放送の正社員たちは、フジテレビと「株式の相互持ち合い」をするニッポン放送の正規雇用労働者という「身分」だけで、文字通り「労せずして」高額年収を手にしているとは言えないだろうか。なぜならこの程度の営業利益つまり自らが稼ぎ出した収入では、頑強な闘争なくしてこの年収を確保できないのは明白だからである。
 これほど恵まれた労働者は「特権的」と呼ぶにふさわしいが、この労働者たちがライブドアの買収に反対して「放送文化を守る」とか「社会の公器としての放送」とか美辞麗句を並べたコメントを出すのは、200万円以下の、だが文字通り自らの労働で稼ぎ出した年収で生活する非正規雇用労働者を愚弄していると非難されて当然だろう。
 ここには、支配的派閥が独占する「利権に群がる」戦後日本のひとつの典型がある。だがこれは、ひとりニッポン放送だけの問題ではない。それは「上からの資本主義」の必然である社会的二重構造、大企業と中小企業、政府に援助される産業とそうでない産業等々の間にある経済的格差にも、そして90年代以降の規制緩和によって急増した非正規雇用労働者と正規雇用労働者の間の格差にも共通する問題なのである。
 この日本的二重構造が生み出した経済的格差の核心問題は、資本主義的競争がつくり出す経済的要因では説明できないこと、つまりニッポン放送社員の優遇で明らかなようにまったく「経済外的」な身分や依怙贔屓など、不平等な社会システムが主な原因で生み出された格差だということにある。雇用形態や企業の大小に左右されない均等待遇の要求が日本労働運動にとって重要な意味を持つのは、まさにこのためである。
 ちなみにニッポン放送には労働組合はないが、ナショナルセンター・連合傘下の巨大企業内労組は基本的にニッポン放送社員と同様に、支配的派閥に群がって特権的優遇を甘受していると言っていい。だがその外延には、これら特権から恒常的に排除された膨大な労働者を生み出さずにはおかない。労働組合の低下しつづける組織率、組合をバイパスした労働相談の急増、労働組合への大衆的不信はその確たる証拠である。
 この現実は、日本の大企業労働組合の多くが支配的派閥に寄生して特権を擁護する組織に堕落し、社会の不平等や不公正と闘う能力を喪失しつつあること示しているが、それはいったい〃労働運動の未来〃にとって何を意味するだろうか?

 歴史を振り返れば19世紀末、イギリスの労働組合運動の中にひとつの示唆的な事例を見いだすことができる。
 当時のイギリスの労働組合は、中世ギルド(同業者組合)の伝統を引き継ぐ職能別組合が主流であり、その構成員である職人的熟練労働者の特権的地位を防衛すべく新規参入に抵抗し、結果として職能別組合の外延部には勃興する産業資本の下で無権利状態で働く非熟練労働者が大量に放置され、やがては港湾労働者を中心とした非熟練労働者の「ニューウェーブ」が爆発的に台頭し、今日のような熟練と非熟練の双方を包含する大衆的労働組合と一般労組(ゼネラル・ユニオン)の原型が生み出されたのである。
 同じ現象が日本でも起きる、と言いたいのではない。だが日本の現実は、特権的労働組合の外側に放置された大量の労働者が「旧構造と市場原理を貫いて撃つ」客観的基盤、つまり旧構造の産物である身分や依怙贔屓という差別の撤廃を実現するために、同時に市場原理を規制するような均等待遇を要求するといった飛躍を伴う運動の基盤が、しかもまったく自立的に始まる可能性を準備しているように思われる。
 なぜなら旧構造の廃棄とグローバリゼーションに対応する「下からの資本主義」を推進するイノベーションを同時に達成する必要に迫られている日本資本主義の今日の危機は、「若い」ライブドアと「旧い」フジテレビの激突が示すように、世代間のエートス・ギャップによる鋭角的な転換の可能性を強めつつあるからである。
 そしてこうした自立的な新しい大衆的運動は、イギリス労働組合運動の歴史が示唆するように、未来を担う新しい団結形態の萌芽を必ずや含むに違いない。【文中敬称略】

(4/7:きうち・たかし)


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