有事法制の核心問題はなにか

「有事」を防止する国際戦略の不在、国家による基本的人権の制限

自己決定の否定と対峙する良心的参戦拒否権の擁護

【文末に北上(岩手県)市民集会の報告記事掲載】
(インターナショナルNo.127/2002年6-7月掲載)


 有事法制関連3法案の国会審議が迷走しつづけている。もちろんこの迷走は有事法制反対運動が政府・与党を追いつめたからではなく、むしろ構造改革を一枚看板にする小泉政権の下で、混乱しつつ進展する政官をつらぬく国家再編にともなう軋みが、様々なスキャンダルとして噴出し暴露されるという、いわば敵失の結果である。
 そのうえ6月になって、小泉と山崎・自民党幹事長は、青木・自民党参院幹事長のイニシアチブに屈するように、重要4法案のうち郵政関連法案と健保法改正法案の成立を優先することにし、会期の大幅な延長の後も、個人情報保護法案と有事法制関連3法案は衆院の通過を目標とするとの方針を固め、今国会で有事法制が成立する可能性は大きく後退することになった。

「なぜ、いま」を論点に

 もちろんそれは有事法制批判の必要性を減じるものではない。むしろ拙速というしかない有事法制制定が先延ばしされたいまは、この時間を有効に使って批判的論陣を強化し、次の攻防に備えるべきだろう。
 5月上旬に審議入りした有事法制3法案には多くの問題点があるが、国会で焦点となったのは個別法は2年後までに整備するという「法案の不備」と有事の概念、つまり何をもって有事の「おそれ」や武力攻撃が「予測される事態」とするかの定義であった。
 たしかに「有事」が仮想敵との軍事的緊張を意味するなら、その「おそれ」や「予測」は、これに関する情報を独占する政府とくに防衛庁や外務省の恣意的判断に依存する危険を免れることはできない。しかしだからこそ国家権力が取りうる強制措置を、明文化された法律によってあらかじめ限定的に規定するという「法治の理念」に照らせば、具体的な個別法を後回しにした有事法制の制定という小泉の手法は、乱暴という以上に法治の否定をはらむ暴挙でさえあろう。
 したがって法案の不備と有事の概念を焦点に、有事法制に反対する議会の論戦は有意義ではある。だがこうした各論が焦点化することで、有事法制の必要性は容認するが各論では反対するといった、いわば条件つき賛成の枠を突き破るような反対運動の発展が阻害されては、むしろ悔いの残る結果にならないとも限らない。
 現に、当初は盛んに言われた「なぜ、いま有事法制か」という問題提起は、小泉の「備えあれば憂いないし」という無内容な答弁に押し切られて以降、国会論戦ばかりかマスコミ論調や反対運動の中でも低調になり、現代日本をとりまく国際関係や国際情勢という、いわば有事論議の土台となるべき論点が失われつつあるように見える。だが「備え」は、日本をとりまく現実と関連づけられてこそ本当に有効な対策たりうる。
 だからここでは国会論戦とは違う2つの問題に焦点をあて、失われつつある論議を補う有事法制の検証を試みたい。
 ひとつは戦後日本の国際戦略について、とりわけ日中、日韓関係を中心とするアジア外交の事実上の崩壊についてであり、もうひとつは戦争協力の強制に抵抗する主体を構想するために、古い歴史をもち、今日あらためて注目される「戦争協力を拒否する権利」という思想の可能性である。

国際戦略なき有事法制

 政府・与党と防衛庁官僚が「なぜ、いま有事法制なのか」という問いに対して説明責任を果たしていないのは明らかだが、それは90年代以降さまざまな国際会議で暴かれてきた日本資本主義の戦後国際戦略の動揺と破綻の反映である。
 ここで詳しく述べる余裕はないが、例えばまだ記憶に新しい沖縄サミットで、日本が沖縄の米軍基地問題でアメリカとの交渉の突破口すら見いだせなかったのは、アジア地域の緊張緩和を促進するいかなるイニシアチブも発揮できずにきた日本外交戦略の不在の結果であり、むしろ朝鮮半島の南北首脳会談という歴史的事件でもカヤの外に置かれるという醜態をさらすあり様であった。それは日本の「周辺」であるアジアの安全保障について、冷戦時代の旧来的構造を積極的に転換する発想も、アジアにおける新たな安全保障の構想力を持ちえてこなかったことの証しなのである【本紙:111号参照】。
 こうした日本外交の機能不全は、すでに冷戦終焉後はじめての戦争=湾岸戦争のときから明らかであった。アフガン戦争でのアメリカ軍支援をめぐって言われた「湾岸戦争のトラウマ」とは、湾岸戦争のときに暴露された旧来的国際戦略の破綻と新たな事態への立ち遅れ、しかも今日の日本外交の混迷へとつづく戦略的破綻を意味していた。
 にもかかわらず、長く日米安保を軸とする親米外交を国際戦略の代替品にし、西側の一員で冷戦の最前線に位置することを機軸にしてきた戦後日本の外交は、冷戦の終焉で大きく変化した国際関係の中で「資本主義国家としての独自の国益」を自覚し、それを擁護することに失敗しつづけてきた。冷戦終焉後に世界を席巻した金融グローバリゼーションへの対応に立ち遅れ、90年代に長期の経済的低迷を経験せざるを得なかった背景には、単なる経済政策の失政以上に、戦後日本の国際戦略の破綻とこれに代わる新たな外交方針を見いだせなかった戦略的構想の欠如があったと言えなくもない。
 そして「トラウマ」を抱えたままの日本資本主義は昨年9月、アメリカのテロ事件でまた不意を打たれたのである。今回の有事法制制定の動きは、このテロ事件後の「テロとの戦い」という国際的風潮と圧力を受けた対処療法という性格をもつが、冷戦終焉後の国際戦略の破綻をひきずりつづける外務省や防衛庁に、事前に準備された対応策がなかったのも当然である。
 こうして、冷戦時代に密かに研究されてきた時代遅れの法制が、防衛官僚と国防族議員の「悲願」つまり自衛隊を軍隊として認知させる欲求の後押しを受け、焼き直しされて提出されることになった。だからそれは「テロとの戦い」という新たな国際的状況に対応すべき法制なのに、とりあえず自衛隊が自由に行動する権限の確保を目的とした、多少おおげさに言えばそれ以外は何の準備もない、法制と呼ぶのもおこがましいシロモノにならざるをえなかったのである。
 つまり政府と防衛庁が「なぜ、いま」を説明しないのは、その土台となるべき国際戦略が不在であり、この戦略的構想に必要な情勢認識さえ、連立与党ばかりか自民党内部ですら統一されていないためであり、法案の当面の目標が自衛隊の行動権限の確保にすぎないからなのである。
 とすれば有事法制への批判は、今後の日本の国際戦略とそれ基づく「備えの内容」を論点とすべきなのである。現に自民党内にさえくすぶりつづける今回の有事法制への不信の背後にも、実は日米、日中、中米関係をめぐる戦略上の対立がはらまれており、ただその対立は、外務省や自民党内の「派閥抗争」の枠内にとどまっている分だけ、大衆的にはこの核心問題が見えにくく解りにくい関係になっていると言える。
 だから自民党内の戦略上の対立をも利用して、国際戦略をめぐる公然たる論争を喚起することは、それ自身として有事法制をめぐる核心問題を大衆的に明らかにし、日本の国際戦略をめぐる本格的な、だからまた政党再編をも促進することになる政治的流動の可能性を広げることでもある。

「不審船」問題の責任追及を

 ところで階級的労働者は、「テロと戦う有事法制」にも反対する新たな国際戦略の構想という課題とあわせて、条件つき賛成の趨勢に歯止めをかける現実的方策を見いだす課題にも直面している。
 たしかに、有事法制を阻止するために様々な共同行動が模索され、反対を明確にしている共産・社民両党との連携や共同行動も追求されてきたし、有事法制に反対するこうした広範な共同行動は、もちろん必要であり有意義である。
 だが誤解をおそれずに言えば、これらの共同行動における有事法制反対の基調は、冷戦時代そのままの「国際紛争での中立の堅持」であって、戦争に巻き込まれないための「孤立主義的平和主義」にとどまっているのも明らかであろう。だがこの基調は、昨年9月のテロ事件やいわゆる「不審船」事件で醸成された「漠然たる大衆的不安」に応えられないだけでなく、条件つき賛成に対抗するにも不十分ではないだろうか。
 なぜなら今回の有事法制は、こうした旧来的反対論の弱点をつくように、すでに巻き込まれているテロの脅威や日本近海での緊張を口実に提起され、他方では繰り返される「不審船」事件などでの政府・防衛庁や外務省の失態をおおい隠すものでもあるからだ。
 つまり有事法制批判には、朝鮮民主主義人民共和国(以下:共和国)や中国との政治的緊張を緩和できない外交上の無策、「不審船」事件で指摘された政府・首相官邸の危機意識の低さとなどで政府の責任を追及する論調がつけ加えられなければならないと思われる。それは結局「なぜ、いま有事法制か」を論点にして、直接的な背景のひとつである「不審船」問題などをむしろ積極的にとり上げ、小泉政権の無能と無策の責任を追及し、有事法制の必要性そのものに根本的疑問を提起し、アジア地域の緊張緩和の促進という観点から、政府に外交戦略の提示を執拗に迫るような論戦が望まれるのである。
 実際に「不審船」対策として必要なのは、イージス艦の出動や民家を破壊する自衛隊の陣地構築ではありえない。むしろ海上からの違法な侵入を抑止する海上・沿岸の監視網を整備し、不法侵入を速やかに追い払う防衛庁と海上保安庁の情報交換や連携を、官僚的縄張り意識や防衛庁の秘密主義を排して整える方がずっと効果的である。逆に言えば共和国の特殊工作船と思われる「不審船」の度重なる侵入は、こうした対策を怠ってきたツケであり、同時に共和国に対する積極的外交方針の不在の結果でもある。
 しかも昨年12月の「不審船」との銃撃戦と撃沈は、首相官邸の判断の甘さから対応が後手にまわり、結局は十分な準備と体制のない海上保安庁に拿捕という強硬手段を命じ、海上保安官(彼らもまた海上で働く労働者なのだが)の命を危険にさらした小泉政権の重大な失態にほかならないのだ。
 この政府・防衛庁と外務省の責任を追及することは、「備えあれば云々」といった観念的な有事法制必要論の無責任さや無内容を暴き出し、日本をとりまく現実を見据えた有事法制批判、つまり日本の国際戦略をめぐる論争を俎上にのせる切り口となろう。
 もちろん、論争だけで有事法制が阻止できるわけではない。小泉の観念的な有事法制必要論の基盤でもある漠然たる大衆的不安が、国際戦略の再構築の必要性という問題意識に転換するにはまだ多くの努力と時間が必要だろうからである。だが有事法制の論争に政府の怠慢や無責任という現実性をあたえることで、「戦争協力の強制」である有事法制の本質的対立点にも具体性を与えることができるだろうし、それが観念論をこえる契機にもなりうるだろう。

国家による基本的人権の制限

 ところでご承知の読者も多いだろうが、衆院有事法制特別委員会の5月7日の審議では、極めて重要な質疑応答が行われた。
 それは共産党の志位委員長が、戦争協力に反対するという個人の信念に基づいて物資保管命令を拒否した場合も処罰の対象になるのか、もしそうなら憲法が保障する思想信条の自由を侵すのではないかと問いただしたのに対して、中谷防衛庁長官が「個人の内心には関係ない。わざと物資を隠匿したり、使用できないようにしたりする悪質な行為に基づいて考える」と答弁し、有事法制は「良心的拒否」も処罰の対象になるとの見解を明らかにしたことである。
 つまり今回の有事法制は、思想・信条の自由という基本的人権も有事という特殊な状況下では国家によって制限できるという思想に基づいており、基本的人権に含まれる自己決定権の否定が前提であることが明らかにされたのである。残念ながら共産党は、「赤旗」などを見る限り中谷答弁をそれほど重視していないようだが、これは有事法制批判の最大の焦点といっても過言ではない。
 現にいま、「テロと戦う」日常的な有事下にあるイスラエルでさえ、パレスチナ人への軍事的抑圧に反対する予備役兵士たちの占領地での軍務拒否運動が広がり、高校生たちの徴兵拒否とうい抵抗運動も広がっている。そこには思想・信条の自由という基本的人権は、自立的個人の自己決定の権利として容認される「良心的兵役拒否」の思想の歴史的系譜を継承する、思想・信条の自由にもとづく戦争協力への不服従もしくは良心的参戦拒否の思想が息づいている。
 良心的兵役拒否の思想は、「異教徒を征伐する正義の十字軍」なる思想に修正を加えた16世紀の宗教改革に端を発し、20世紀の2つの世界大戦を通じてアメリカの一部の州やヨーロッパの幾つかの国で制度的にも保障された権利だが、その多くは代替的従軍(例えば看護兵として)や代替労働などの代償が規定されており、イスラエルでの徴兵拒否は軍刑務所への収監という代償を求められる。だが他方で良心的徴兵拒否の「権利」は否定されているわけではない。良心的兵役拒否は犯罪ではないのだ。
 だが日本の有事法制は、国家を基本的人権を保障する義務から解放し、他方で民衆には国家という外的権威への「協力の義務」を強制し、良心や信条という内的権威に忠実であろうとする「自己決定の権利」を否定し、こうした人々を制度的に犯罪者に仕立て上げかねないのである。

良心的参戦拒否宣言

 良心という、人間の内的権威への自発的忠誠を意味する良心的参戦拒否の思想は、戦争に反対する最も人間的な欲求の現れであるという意味で大きな意義をもつ。
 それは、自分が殺されたくないから他人も殺さないという、生存の欲求という最も本質的な人間的欲求の表現であるだけでなく、テロに対する軍事的報復が新たなテロを生む悪循環に対しても、最もラジカルな批判的視点を提供するからである。
 例えば前述の「孤立主義的平和主義」は、有事法制を自衛隊に対する文民統制(シビリアンコントロール)の制度的整備として積極的に評価する「必要論」に有効な反論をなしえないが、良心的参戦拒否の権利の要求は、兵士たちの自己決定にもとづく大衆自治が武力行使そのものを「下から」統制する可能性を提示することで、国家が代行的に、言い換えれば武装した国家官僚機構である防衛庁や自衛隊が民衆の自己決定権を否定し、戦争参加と協力を強要して武力を行使できるとする有事法制の不条理を暴くのである。
 それはたとえ現在のイスラエルのように、戦争という現実が避けられない事態になったとしても、自らの良心にもとづいて不当な戦闘命令を拒否し、あるいは戦争協力命令を拒否することを通じて、いわゆる先進国の労働者がテロリズムを越える道徳的優位性を獲得する道筋でもあろう。
 したがってもし、国家が刑罰をもって民衆に戦争協力を強要するのに抗して、自己決定にもとづく良心的参戦拒否の大衆的な宣言運動が展開されるなら、それは国家に対する協力の義務と、思想・信条の自由という基本的人権が鋭く対立する有事法制の本質を浮き彫りにし、同時に有事法制を身近な、現実味をおびた問題として大衆的な自覚を促す契機となるかもしれない。
 しかも良心的参戦拒否という、自立的個人による公然たる抵抗宣言の運動は、政党を通じた代行的議会での反対か、もしくは労働組合や市民団体などに依拠した各種の街頭行動などとしてしか意思表示されることのほとんどなかった戦後日本の反戦平和運動に、自立的な個人による、自己決定にもとづく反戦平和の意志表示という新しい表現の可能性もあたえるだろう。                             (さとう・ひでみ)


ストップ!有事法制 −北上市で市民集会−

岩手発】5月17日、北上市役所前の広場で、『ストップ!有事法制』北上市民集会とデモが行われ、260人が結集した。この集会は昨年、アフガニスタンへの報復戦争に反対してデモを行ったときと同じ団体・個人により構成されている『ストップ!有事法制』北上市民の会が呼びかけた。
 この会は、例えば事務局が社民党・共産党の市議会議員で構成されているように、両者の共闘のもとに準備されているのが大きな特徴になっている。また、このような構成なので、有事法制に批判的な市民が集いやすくもなっている。
 市民の会の会合には、社民党・共産党系の人々以外に、どちらにも属さない団体や個人も多数参加しており、それが両者の接着剤のような役割を担っている。
 この会が今後さらに発展するかどうかは、このような個人の会員が増えるかどうかにかかっていると思われる。


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