●「政冷経熱」の日中関係

日中首脳会談があばいた小泉の対中国外交の破産

−戦後タカ派の歴史的負債と靖国参拝問題−

(インターナショナル第152号:2005年1・2月号掲載)


▼1年ぶりの首脳会談

 昨年11月21日(日本時間22日)、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が開催されたチリの首都サンチャゴで、日本の小泉首相と中国の胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席の首脳会談が行われた。日中首脳会談は一昨年(03年)10月にタイのバンコクで行われて以来、実に1年1カ月ぶりである。

 この数年、日本と中国の外交関係は「政冷経熱」と呼ばれる変則状態にある。
 1972年の日中国交正常化以来、毎年のように続いてきた日中両国首脳の相互公式訪問が朱鎔基首相の訪日(2000年)を最後に3年以上も途絶えている政府間の冷たい関係の一方で、日系資本の対中直接投資と日中貿易の急増という経済的熱気が高まり続ける関係は、外交関係としてはまったくの異常事態である。たしかに小泉は01年に訪中はしているが、この時も中国政府が招待した訳ではない非公式訪問であった。
 改めて言うまでもないが、こうした事態は小泉の靖国神社公式参拝に端を発しており、首脳会談の1年以上に及ぶ空白も、参拝中止を求める中国政府を挑発するかのように靖国詣でを繰り返す小泉の対応に起因している。しかもこの問題は、中国にとっても小泉にとっても「民族主義強硬派」の懐柔もしくは依存という、自らの政権基盤にかかわる政治的対立でもある。
 その日中両国首脳の会談が事前の見通しに反して実現したのは、皮肉にも中国原潜による領海侵犯という、昨年11月の「事件のおかげ」であったという。

▼領海侵犯事件と外交ゲーム

 中国の漢(ハン)級攻撃型原潜が、沖縄県の宮古島と石垣島の間の日本領海に侵入したのは昨年11月10日早朝であった。
 日本政府の公式発表では、アメリカ軍から通報を受けた海上自衛隊の対戦哨戒機P3Cが数日前からこの原潜を追尾しており、予測された進路をそれて日本領海に侵入する直前には、アクティブソナーの発信音で潜水艦に追尾を気づかせるためにソノブイを海面に投下して警告したという。
 そしてこのときから「国籍不明の潜水艦」による領海侵犯は「中国原潜の可能性」というリーク情報と共に大々的に報じられ、はては「尖閣諸島周辺の海底調査ではないか」といった、日中間の対立を煽るような為にする憶測まで流布されるのだが、実際の日本側の対応はこんな受動的印象とは逆に厳しい外交的駆け引きに終始していた。

 『週刊東洋経済』04年12/25−05年1/1合併号によれば、実はこの中国原潜の動向は10月15日に中国・青島の潜水艦基地を出港した直後からアメリカの軍事偵察衛星によって監視されており、11月上旬にはアメリカ第7艦隊の拠点であるグァム島の周囲を一周して帰途につき、その途中で日本領海の石垣水道に侵入したという。
 蛇足ながら自衛隊に対するアメリカ軍の公式の通報が何時であれ、日本近海を航行する可能性のある中国原潜の出港が非公式にでも通報されないとは考えられないし、いずれ帰りにも再び日本付近を航行する可能性のある原潜の動向を、詳細は別としても通報しないことも考えられない。なぜなら東シナ海の対潜哨戒は、アメリカ軍の「下請け」として海上自衛隊が担っているのはすでに既定の事実だからである。
 それはさておき、領海侵犯に対する海上警備行動が発令された10日午前以降、「外交的駆け引き」の本番が始まった。
 当時、日中両国外務省はAPEC首脳会議の場で首脳会談を開催するかどうかをめぐる折衝の最終段階にあったが、靖国問題での中国側の強い姿勢の前に首脳会談実現は困難との見方が支配的であった。そこに突然の領海侵犯事件である。対応いかんによっては、両国関係の更なる悪化さえ懸念される事態である。ところがこの事件によって、思わぬ助け舟が現れたのである。
 海上警備行動が発令された10日、中国国防相らとの会談のために北京に滞在していた橋本元首相から、「何か私にできることはないか」との連絡が外務省に入ったのだ。町村外相はこれに飛びつくように、中国側の出方を探ってくれるように頼んだという。橋本はその後、曹剛川(ツァオ・カンチュアン)国防相ら軍幹部の反応を逐一外務省に伝えるのだが、「中国原潜はデッチ上げだ」というような懸念された声はまったく聞かれず、「問題を拡大せずに処理したい」というものだったという(04年11/26:朝日)。
 中国軍幹部の「低姿勢」の真相は定かではないが、軍事的挑発とさえ言われかねない攻撃型原潜による領海侵犯が、例え故障によるものであれ(この可能性はかなり高いが)胡錦涛・温家宝(ウェン・チアパオ)政権の不興を買ったからであろう。なぜなら、昨年秋の4中全会で共産党軍事中央委員会主席から江沢民を降ろして念願の全権を掌握した胡・温政権は、中国革命を担った第一世代とも、革命を目撃して育った第二世代とも違った新世代の近代的官僚として日中間の実利(もちろん経済に限らないそれ)を重視し、江沢民時代とは違った日中関係の構築を重要課題としてきたからである。「対日強硬派」と言われた江沢民の後ろ盾を失った中国人民解放軍幹部にとって、現政権の不興を買うことが得策であろうはずもない。
 こうして低姿勢の感触を得た外務省は、領有をめぐって日中が対立する尖閣諸島(中国名=魚釣島)を同原潜が回避したことで「問題を拡大せずに」という中国側の意向に確信を深め、帰港まで確認したいという防衛庁に対抗して早期決着を主張、原潜がすでに防空識別圏(領空外に設けられた迎撃ライン)を出ていたこともあって哨戒機の追尾は12日午後には打ち切られ、同3時50分には海上警備行動終結も命じられた。
 この直後から外務省は素早い行動に出る。だが中国側の対応もまた、日中首脳会談を念頭に置いた周到なものであった。
 海上警備終結から10分後の午後4時、細田官房長官は「国籍不明潜水艦」を「中国海軍の原子力潜水艦と判断した」と発表、同5時には町村外相が日本駐在中国公使を呼びつけて抗議すると、中国外務省は16日午前11時半(日本時間午後0時半)、2日後に控えた日中外相会談を意識するかのように「中国原潜であることを確認した。・・・技術的な原因で・・・誤って(領海に)入った。事件発生を遺憾に思う」と、中国駐在日本大使に伝えたのである。それは軍事機密に属する問題の処理としては異例に早い対応だった。
 そして18日、サンチャゴで開かれた日中外相会談で町村外相は、中国の李肇星(リー・チャオシン)外相に「(16日の)遺憾の意の表明を、中国政府の発言と受け止めていいか」と問い、李が「その通りだ」と応じると町村もそれ以上の追及はせず、22日の首脳会談が合意されたという。

▼日中関係をもてあそぶ小泉

 こうして1年1カ月ぶりの日中首脳会談は、いわば靖国参拝と領海侵犯を「相殺」して両国首脳の顔を立てる形で実現した。
 だが会談の席で胡主席は、過去2回の小泉との会談では「被害国民の感情を傷つけてはならない」と婉曲な批判に止めてきた態度を改め、「日中政治関係の停滞と困難の最大の原因は、日本の指導者が靖国神社を参拝していることだ」と、参拝中止を真正面から小泉にぶつけてきたのである。
 これに対して小泉は「歴史を大切にすることは重要だ。誠意をもって受け止めたい」と応じながら、戦没兵士に哀悼の誠を捧げるという持論を展開して「節を曲げない」姿勢は貫いたが、今後の参拝については慎重に言明を避け、記者団の質問にも「これからもどんな質問があっても触れないことにした」とだんまりを決め込み、外務省が用意した「首脳往来の活発化を呼びかける」提案すら持ち出せなかったのである。
 このやり取りは、靖国参拝と領海侵犯を相殺して首脳会談の開催にこぎつけた日本外交よりも、領海侵犯事件を事実上帳消しにした上で「靖国を小泉にぶつける」中国側の周到な決断が勝ったことを物語る。しかも領海侵犯という偶発事件と橋本ら旧竹下派が維持する「日中の人脈」の助けで日本がようやく首脳会談に漕ぎ着けたものの、会談では小泉が守勢に回り「靖国参拝にタガをはめられた」との印象は拭いがたい。
 おそらく小泉は「領海侵犯事件で攻守が逆転した」などといった外務官僚の主観的見通しを鵜呑みにし、胡主席の靖国参拝への言及がこれほど厳しいとは予測せずに会談に臨んだのであろう。だがいずれにしろ小泉は「靖国参拝でクギを刺される」リスクを冒してでも、日中首脳会談に臨む以外にはなかったのである。
 と言うのも昨年8月、日本経団連の会長である奥田(トヨタ自動車会長)が「(日中)首脳会談ができる雰囲気にしてほしい」と小泉に直談判に及んだのは、「新幹線受注など中国ビジネスに悪影響を及ぼしている」と言った経済界の声を受けての事であり、こうした財界の要請を無視し続けることは小泉には不可能だからである。万博とオリンピックを控えた中国の建設ブームは、対中輸出の急増を通じて日本製造業の好況を支える当面する最大の市場であり、日中の政治的対立が経済関係に、とくに公共事業の受注に悪影響を与える可能性は小さくはない。
 もっとも、04年3月期決算で日本企業では初めて1兆円を超えるの純益を計上したトヨタは、その半額の5千億円をアメリカの高級車市場で稼ぎ出しており、その意味では奥田は小泉に劣らぬ熱心な親米路線支持者である。だがその奥田でさえ、「政冷経熱」のギャップを広げつづける小泉の対中外交とその最大のネックである靖国参拝問題は、膨張をつづける中国市場への参入で欧米多国籍資本に大きな遅れをとっている日系資本にとって、重大な障害となり始めていると判断せざるを得なかったのであろう。
 小泉の靖国参拝への固執は、資本主義・日本にとっても看過できない桎梏(しっこく)へと転化しつつあるのだ。

 ところがである、小泉の靖国参拝は「年来の信念というわけではない」と言う。しかし「スタンスを変えないことで国民の支持を受けている」(山崎拓首相補佐官)小泉政権にとって、靖国参拝は「中国の反発が強まるにつれ、むしろ引くに引けない問題となった」(04年11/23:朝日)というのだ。
 だがそうだとすれば小泉は、自らの政権を維持するためにだけ、外交的には通用するはずもない個人的感情の論理(戦没兵士への哀悼の誠)を振り回して日中関係を悪化させつづけ、「政冷経熱」という異常事態を打開するという外交上の重要課題をもてあそんでいると言わざるを得ない。
 あげく久々の首脳会談が中国の新世代指導部に「してやられた」印象を与える惨憺たる結果になったとすれば、小泉政権の外交戦略=旧態依然の親米路線に無思慮な小泉の「ひらめき」が加わった無分別な外交は、現実の国際社会に対応できなくなって破産していることを暴露して余りある。

▼稚拙な報復? 対中ODAの廃止

 だが小泉政権はこの外交的失策の恥じを上塗りするように、「冷政の第2ランド」を仕掛けるのである。
 胡錦涛に「してやられた」日中首脳会談直後の28日、東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議に出席するために訪れたラオスの首都ビエンチャンで、小泉は「もう卒業の時期を迎えているんじゃないか」と記者団に語り、中国に対する政府開発援助(ODA)の廃止を示唆したのである。2日後の30日には、温家宝首相との会談を控えていた。
 もっとも対中国ODAの廃止を主張しはじめたのは9月に外相に就任した町村信孝であり、彼は着任後の10月3日に「どこかの時点で中国は支援を受ける国から卒業するだろう」と述べ、11月の参院本会議でも「近い将来、中国がODAの卒業生になることが適当だ」とも述べていた。
 だが小泉自身が「してやられた」首脳会談の直後に、しかも数日後には温首相との会談があるのを承知で対中ODA廃止を示唆するのは、「子供っぽい仕返し」という印象しか与えない。これが「我々の政府の長」かと思うと、日本国民としては情けないやら恥ずかしいやらである。

 周知のように日本の対中ODAは「日中友好の象徴」として、大平政権下の1979年にはじまった。当時それは、中国が主張するように「(戦後)賠償の代替ではないが、賠償を放棄した中国の温情」に対する見返りの性格をはらむ「経済援助」として、漠然とではあれ一般には認識されてきた。
 もっとも対中ODAの大半は「無償援助」つまり贈与ではなく、「借款」という貸し付けである。それでも冷戦下で中国に資金を提供する西側諸国が皆無だった当時、改革開放を推進しはじめて大量の資金を必要とした中国にとって、通常の長期金利5〜10%と比べれば金利2%以下で返済30年のうち20年は据え置きという超低金利の円借款は、雲泥の差だったのは事実である。しかし他方では中国の方も借款返済の遅延・延滞がただの一度もない、円高で為替差損が出ても公式には文句ひとつ言わない「超優良の借り手」であったのだ。
 その対中ODAについて「国防費を著しく伸ばす中国にODAを引き続き推進する必要性はない」と結論づけたのは、昨年11月に訪中した参院ODA調査団であった。日本のODA大綱にある「軍事支出の動向」に抵触する可能性があるというのである。
 だが温家宝首相は会談で、「日本政府の責任者から打ち切りの議論が出るのは理解しがたい」と小泉に激しく詰め寄り、ODAは中国に進出した日本企業も助けたではないか、確かに必要性は減ったが内陸部には必要な地域も残っているといった、これまでの中国側の主張をぶつけたと思われる。
 この限りでは「互角の言い分」と言えなくもない。だがODAに関する世銀など国際的な融資・援助機関の指針では、無償援助は国民1人当たりの平均所得が1400ドルを超えると対象外だが、借款の場合は平均所得3000ドル以上が対象外とされている。現在の中国の平均所得は1000ドルであり、経済成長を考えれば数年後には無償援助の対象からは「卒業」するだろうが、今後20年程度は借款の対象国であるには違いない。しかも現実には、平均所得3000ドル超のマレーシアには今も円借款が供与されているのだ。
 小泉の「子供っぽい仕返し」は参院ODA調査団の結論に依拠したのだろうが、経済援助の国際的指針も考慮せず、中国に軍縮を迫れるような地域安全保障の構想を提案する用意もないまま「気分でしゃべる」政治スタイルは、いまや「日本の国益を損なう」と言って過言ではない。それは「この国」をアジアの孤児にするだけである。
 だが実は小泉外交の破産は、金正日(キム・ジョンイル)との首脳会談という「歴史的快挙」を決行しながら、拉致問題への対応方針を持たないといった無責任さによって両国関係をむしろ悪化させ、自らの責任では解決不能な手詰まり状態に陥り、結局はアメリカと中国の出方にすべてを託す以外にはなくなった、あの日朝外交の迷走によって証明されたことでもあった。

▼戦後タカ派の歴史的負債

 しかし「小泉外交の破産」を、彼の個人的資質だけで説明するのは正しくない。
 そこには中国大陸への侵略戦争を自ら始めておきながら、その戦争の後始末を自らの手ではまったくできずに連合国、とりわけアメリカに「後始末をしてもらう」ことで生き延びた、戦後タカ派の歴史的負債が反映されているからである。
 当然のことだが、自分で仕出かした事の始末を自分でつけるのは、最低限の自己責任というものである。無謀な危険を冒そうが大損害を被ろうが、自分以外の誰かが後始末をしてくれるのなら、社会全体に無責任な風潮が蔓延して不思議はない。

 1931年の満州事変から日中戦争へと突き進んだ日本の保守勢力は、1945年の敗戦という総路線の崩壊に直面したとき、この自己責任を果たすことなく生き延びた。
 戦争責任はA級戦犯とされた一握りの指導者たちに押しつけられ、戦争の遂行とその惨憺たる結末に大いに責任のある高級官僚や政治家たちは、国家元首たる天皇がその地位に居座ったのに倣って「国家の指導者としての責任」を免れた。敗戦は国民全体の責任だと言わんばかりの「一億総懴悔」の掛け声は、こうした高級官僚や政治家たちにとって格好の免罪符であった。
 もちろんそれは、占領政策の必要から戦争を遂行した国家官僚機構を解体せずに存続させ、朝鮮戦争を機に日本を「反共の砦」にしようと戦犯たちの公職追放を解除したアメリカの国際戦略の変転に翻弄された結果ではあったが、こうして中国との講和つまり日中戦争の終結は、共産党との内戦に敗れて台湾に逃れた国民党政府との間でだけ、しかも対日賠償の放棄を求めるアメリカの強い庇護下でなされだけで、侵略被害の大半を被った大陸に成立した中華人民共和国政府との講和は、公式には1972年の日中国交回復まで棚上げにされてきたのである。
 問題はこうして形成された日本の対中国外交の「没主体性」、つまり戦後日本が主体的に中国との関係を再構築するための外交方針を持たずに済んだ状態が、ほぼそのまま戦後日本の保守勢力とくに日中国交回復に反対して中国関連の政治利権から締め出されたタカ派の系譜に、ある劣等感と共に連綿と受け継がれてきたことである。
 戦後日本の保守政治家が侵略戦争を正当化する暴言を繰り返すのは、無責任にも戦争責任を免れた保守派の政治的堕落を暴いて余りあるが、「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根が戦後初めて靖国神社への公式参拝に踏み切ったのはこの劣等感、つまり「無責任にも戦争責任を免れた」ことで戦後タカ派が負うことになった歴史的負債=日本独自の国家像や理念の喪失を、反動的に超克しようと目論んでのことだった。
 だが中曽根の目論みは、中国ばかりか韓国などアジア諸国からも強い反発を受けて挫折した。それは日本が「アジアの一員」として経済的にではあれ「リーダー」たろうとするなら、崩壊した大日本帝国とは明確に一線を画した新たな国家理念の再構築が不可欠なことを明らかにしたのである。
 こうしたタカ派の系譜にある小泉外交の登場は、日中国交回復を推進した戦後ハト派の対アジア外交が国内同様に「利権まみれ」であることに対する不信も反映してはいたが、では「中曽根の挫折」を踏まえて新たな戦略的展望の上に展開されたのかと言えば、もちろんそうではない。小泉外交はむしろ旧態依然の親米路線に「純化」したと言えるが、それは戦争の後始末をアメリカにしてもらうことで生き延びた戦後タカ派の外交的没主体性が、必然的に行き着かざるを得なかった先祖返りであった。
 それでも、ブッシュ政権が中国を潜在的脅威と見なして対決姿勢を強めている間は、小泉の対中国外交の危うさは顕在化することはなかった。だがそのアメリカがイラク戦争の泥沼に足を取られ、当面とは言え北朝鮮との関係を含めて中国との対決姿勢を緩和せざるを得なくなった今、小泉の対中国強硬姿勢はアメリカという強力な後ろ盾を失ってしまったのである。
 最も熱心な親米路線の支持者にして日本財界の大ボス・奥田をして、小泉の対中国外交の変更を求めざるを得ない状況は、小泉政権の対中国・アジア外交の破産を示す確かな証拠なのである。

 小泉政権の政治的命脈は尽きた。しかもそれは政権の一枚看板である「構造改革」の行き詰まりを契機としてではなく、政局とは無縁と見なされている外交的破綻を契機にして明らかになった。
 ということは今後、永田町で権力をめぐる抗争が激化して政局が流動化する可能性が現れたということでもある。そして「反小泉」勢力のスローガンがいかなるものであれ、日中関係の再構築が次期政権の最も重要な外交的課題となるに違いない。

(2/10:きうち・たかし)


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