《イラクでの邦人人質殺害事件》

自立的個人に対応できないこの国の政治の歪みと怠慢

(インターナショナルbP50:2004年11月号掲載)


▼繰り返された「自業自得」論

 イラクの反米武装勢力に誘拐され、「自衛隊のイラクからの撤退」要求の人質にされた香田証生さんは10月31日、バグダッド市内で遺体で発見された。
 無残に殺害された香田さんは10月20日、隣国ヨルダンのアンマンから長距離バスでイラクに入ったが、ホテルの従業員や現地で知り合った日本人らが「危険だと制止するのを振り切って」イラク入りを「強行」したと報じられ、まるでその結果として彼が人質になり殺されたとの印象がふりまかれた。それは4月の人質事件で現れた「バッシング現象」ではなかったが、「自業自得」の雰囲気を醸成するには十分だった。
 たしかにイラク国内の治安は4月の人質事件当時よりさらに悪化し、外国人の誘拐事件が頻発しているこの時期に「何故あえて」との思いはあるし、彼が直前までイスラエルに滞在していたと報じられたとき、つまり彼の旅券にはイスラエルに滞在した「証拠」があったはずだと思い至ったときは、「イスラエルに対するアラブ民衆の憎悪を知らなかったのか」と、彼の「無知」に愕然としたのは私だけではないだろう。
 だがそれでもなおこの国の、つまり日本政府の「自国民保護」に関する「冷たさ」と、自衛隊のイラク派遣の是非を真剣に検証しようとはしない姿勢には、改めて強い憤りを覚えずにはいられない。
 なぜなら事件発覚直後、小泉政権は「救出に全力をあげる」と語りながら「自衛隊の撤退はありえない」と断言し、はなから解放交渉の余地を見いだそうとする努力をしなかっただけでなく、香田さんを人質にした「イラク聖戦アルカイーダ」がイスラム原理主義グループだとの理由で「交渉は極めて困難だ」といった「見通し」を盛んに流布し、「最悪の事態」の可能性が強いという印象を広めつづけたからである。さらに香田さんが殺害された後も、25カ国に協力を要請し、そのうちの一国を介して犯行グループとの接触はあったが「時間切れになった」という以外は何の経過も説明もしようとはせず、交渉による人質解放の可能性は本当に無かったのか、あるいは日本政府の頑なな態度が人質解放の障害にはならなかったのかなど、事件を客観的に検証する情報を何一つ提供することもなかったからである。
 そこには人質の救出を早々にあきらめて最悪の事態を想定し、「早期救出」というよりは一刻も早い「事件の終焉」を望み、本音と建前を使い分けた作為が見て取れる。おそらく小泉政権の最大の懸念は、事件が長期化することで自衛隊のイラク派遣に関する世論の関心が高まり、12月14日に迫った派遣期間の終了を前に「派兵の是非」をめぐる論争が再燃することにあった。
 そう!小泉政権は人質の救出以上に派兵問題が改めて検証される事態を恐れ、解放交渉には欠かせない「時間を稼ぐ」努力を早々と放棄し、香田さん救出の可能性(もちろんそれは小さなものだったかもしれないが)を自ら閉ざしたとさえ言える。

▼人質事件と自衛隊撤退は別問題か

 こうした政府の対応にはもちろん批判はあったのだが、それは結局のところ大きな広がりを見せたとは言い難いし、小泉政権が最も懸念したであろう「派兵の是非」をめぐる議論は、少なくとも人質事件との関連で焦点化されはしなかった。
 というよりも民主党がひとつの典型なのだが、自衛隊の派遣期間延長には反対してきた野党も、事件への対応では「脅迫に屈する形での撤退はあり得ない」として小泉政権の対応に同調する一方、派兵の是非をめぐる論議は事件とは切り離して、しかも国会の日程と言った予定調和的なスケジュールに沿って論じるという対応をしたが、それが事件と派兵の是非をめぐる議論の焦点化を回避する役割を果たしたと言える。
 もちろん問われていたのは「責任野党としての冷静な対応」であり、自衛隊派遣の政治責任と誘拐事件を短絡的に直結し、最後通牒的に自衛隊撤退を要求することではなかったとしても、両者を別個の問題として切り離すことでもなかったのだ。むしろ民主党の最大の失策は人質事件と派兵の是非をめぐる論議を切り離し、2つの問題を具体的な因果関係や新しい視点で結びつけることに思い至らなかったことにある。
 結果として民主党は、派兵に対する批判的見解が増えつつあった世論を背景に小泉のイラク政策を痛打する好機をみすみす取り逃がしたに等しい。
 だいたい民主党は、人質を取られても「テロに屈するな!」という小泉と異口同音の主張が、「自衛隊撤退という選択肢はない」と宣言することと同じであることをまったく理解していない。
 事実、香田さんが殺害されて事件が終焉した直後、マスコミ各社は小泉政権の事件への対応とイラク派兵の是非を問う世論調査を実施したが、結果は自衛隊を撤退させないと断言した小泉政権の対応を支持するが7割を占める一方で、派兵延長反対も6割を占めるという「どっちつかず」のものであった。
 だが仮に民主党が誘拐グループとの交渉を主張し、自衛隊の派遣期限と関連づけて「検討の余地」といった「時間を稼ぐ」の選択肢を提起して小泉との違いを打ち出し、あるいは後述するようなイラクに関する危険情報の公開とそれにもとづく自国民への警告を怠ったという「政治的怠慢」を批判する視点を提起できたとすれば、派遣期間の延長に対する世論の反応も小泉に対して批判的傾向を強めたかもしれない。
 ところが人質事件では別の選択肢はないと断じた民主党が、イラク特措法の廃止法案提出という強攻策に打って出たとしても、それに現実的可能性を見いだすことはできないのは当然だ。小泉と同じ「テロに屈するな」というメッセージを発する民主党には、結局はアメリカに追従してイラク戦争を支持しつづける以外の選択肢があり得ないのは目に見えているからだ。こうして民主党のイラク特措法廃止法案の提出はまったくの茶番と化し、人質事件とは切り離された派兵の是非をめぐる論議は、間の抜けた形式論議に成り下がることになったのである。
 それは派兵の是非をめぐる社会的論議を避けようとイラクの治安悪化を主観的願望にもとづいて過小に評価したか、あるいはアメリカの大統領選挙に配慮して公表を差し控えたか、いずれにしても「政府の都合」でイラクの治安情報を公表せず、結果として自国民に警告を発する努力を怠ったという小泉政権のイラク政策の本質的問題点をえぐり出し、自衛隊の派遣延長反対の世論を追い風にする絶好の機会を民主党が取り逃がしたことを意味するだけである。
 と同時に、情報公開を重要な政策的課題として掲げてきた民主党が、イラクの治安情報を積極的に公開することなく「自国民に警告する努力を怠った」小泉政権の怠慢を衝くことさえ思いつかなかったとすれば、この党の掲げる情報公開という政策の中身も推して知るべしである。

▼自立的個人に届かない情報

 人質救出という緊急性とも切り離され、スケジュール通りの政府批判という民主党に典型的な対応は、実は「個々人の人権」や「個としての人間」といった価値観に対して、この国の政治が極めて鈍感だというもうひとつの現実を浮き彫りにする。
 香田さんの家族や友人にとって、彼は事件の被害者であると同時に「ひとりの人間」であり、彼の死は生々しい現実である。だがそうした「個人としての香田さん」について、おそらく小泉政権ばかりか民主党も他の野党も一顧だにしなかった。
 このように「個人」を問題にすると、日本ではすぐ「自己責任」が対置される。危険を冒すなら自分で責任を取れという論法だ。たしかにわたしも中東に関する「彼の無知に愕然とした」と述べたが、「彼の無知」は日本の平均的な青年たちに共通する「無知」であり、結局は「平穏な日本国内」と「不安定さの増す国際社会」のギャップと、異文化に関する日本社会総体の無知と無関心の反映に過ぎない。
 しかも問題なのは、将来は海外青年協力隊などで国際貢献の一翼を担うことを夢見、少なくとも自分の目と耳で世界を見聞しようとした有意の青年が、日本の「自国民保護」システムから半ば自動的に排除されている現実なのである。それは言い換えれば日本政府の危機管理が、「自立的に行動する個人」が飛躍的に増加している現実に対応できていないという問題である。
 それはどういうことなのか。
 例えばイラクに駐在員を置いていた日本の企業や団体は、すでにそのほとんどを出国させている。何故ならこれら「公認の集団」には政府や外務省がイラクの危険情報をいち早く提供するし、これを受けた企業や団体は自らの集団に所属している人間を、個人の判断とは無関係に、業務命令などの強制によって安全な地域に移動させるからである。ところが香田さんのように公認の集団から「はみ出して」自立的に行動する個人は、公認の集団を通じて伝達される情報から疎外され、結果として「保護すべき自国民」の範疇から半ば排除されているのだ。
 要するにこの国の政治からは、自立的に行動する個人を対象にした危機管理がすっぽりと抜け落ちているのであり、この現実を無視した自己責任論は無責任な居直りでしかないのだ。あげくに自己責任と身勝手とを混同する政治と報道が横行していては、事件の被害者やその家族は救われない。
 つまり自己責任を真に実現するのに必要なのは、「自立的個人」を対象にした情報や警告を伝えるシステムの存在と政治の側の意識なのである。官僚機構や政党そしてマスメディアが集団主義的に私物化し、公認の集団を通じてだけ伝達されてきた各種情報が社会的に公開されること、つまり誰もがいつでもアクセスできる公的情報の公開なしに自己責任など取りようはないのだ。
 だが日本政府は今回、文字通りの意味でファルージャ周辺の治安悪化の情報を積極的には公開しなかったし、改めて自国民に警告を発することもなかった。あるいはそもそも日本政府は、イラクの危険情報を積極的に公開し、自国民の安全のために警告を発する必要を感じなかったと言うべきかもしれない。「保護すべき自国民」は、すでにイラクには居ないはずだからである。
 だがもし日本政府がイラクで頻発する外国人誘拐事件に公式に憂慮を表明し、外務省などは当然知っていたはずの情報(米軍による新たなファルージャ総攻撃に身構える武装抵抗勢力が、「外国人はとりあえず拘束する」ほど緊張しているといった情報)を公開し、改めて強い警告を発する記者会見でも開いていれば(そう!少し大袈裟な記者会見を開くだけで、「横並びのマスコミ」は大々的にこれを報じたはずなのだ)、アンマンで香田さんに会った日本人たちはもっと強く彼を引き止めたかもしれないし、香田さんも具体的で現実的な危険情報があればイラク入りを思い止どまったかもしれない。
 だが小泉政権はそうした措置を何ひとつとろうとはしなかったし、民主党をはじめとする野党各党もそうした「政府の怠慢」を批判することもなかった。志しある個人の、自立的な行動をほとんど想定しないこの国の危機管理の貧困さも、香田さんの悲劇の要因のひとつだったのである。

 ところでこの国の政治は今、戦後の「官僚主導」や「護送船団方式」を廃して、経済の主要な調整機能を市場に委ねる「構造改革」の真っ只中にある。
 だが近代経済学の理論によれば、市場の効率的な再配分は自立的個人の「合理的思考」を前提にしてはじめて機能するのであり、だからまた「構造改革」派は自助努力や個人主義を盛んに称揚してもきたし、小泉政権はその改革の旗手を自称してきた政権ではなかっただろうか。あるいは民主党もまた「構造改革」の必要性を基本的に支持し、その重要な要素として情報公開を求めてきたのではなかっただろうか。
 言いたいことは、小泉政権や民主党の建前と本音の乖離などではない。そんなことは改めて言うまでもないことだ。そうではなく、資本主義的市場さえ前提とする自立的個人の自立的行動の保障や、その「合理的な」行動に必要な情報をあらゆる個人に公開することの意味すら理解しない輩が、この国に深く刻み込まれた国家主導型の経済と政治の構造を改革することなどできるはずもないということなのだ。
 そして市場至上主義への転換を声高に叫ぶこうした輩に冷たく見捨てられた香田さんのような「自立的な個人」は、実は自己決定に基礎を置く大衆的自治という、現代資本主義の政治システム=代行民主主義に代わるべき政治の基礎でもあるのだ。

【11/25:さとう・ひでみ】


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