【第20回参院選挙の結果について】

地方切り捨てが招いた自民党の牙城での敗退

(インターナショナル第146号:2004年7月号掲載)


 7月11日に投開票が行われた第20回参議院選挙は、欠員1を含む改選議席51を目標にした自民党が49議席にとどまり、小泉ブームで圧勝した前回01年参院選とは対照的な敗北を喫した。他方、最大野党の民主党は38の改選議席に対して12増の50議席を獲得し、比例区得票も2千百13万7千票余(得票率:37・8%)と自民党の1千6百79万7千票(同:30・0%)を上回り、選挙区と比例区の両方で比較第1党に躍進した。
 もっとも小泉は、連立与党の公明党が改選10議席を確保して現有23議席を維持し、連立与党の合計議席が安定多数を越える138議席が確保できたとして、ただちに首相続投を表明した。

 こうした選挙結果は、ほとんどのマスメディアが報じるように、年金改革法の強行採決やその後のデータ隠しの露見、年金未納議員の続出と小泉の「人生いろいろ」発言、あるいはイラク派遣自衛隊のなし崩し的な多国籍軍への参加表明など、ようやく暴露されはじめた小泉の「いい加減」な政治手法や庶民感覚とは乖離した「不まじめ」な態度に対して、無党派層を中心とした反感が表明されたものと言える。
 だが無党派層の即時的反感とは別に、参院選での自民党の敗北には、この党の「終わりの始まり」を示す重要な兆候も現れた。それは戦後政治において一貫して自民党の対抗勢力であった社民・共産の両党が、小泉政権に対する反感の受け皿としての機能さえ失いつつある現実と一対の、戦後日本の社会的再編の帰結でもある。
 まずは自民党の「終わりの始まり」を象徴する、1人区におけるこの党の敗北を検証することから始めてみたい。

▼自民党の牙城=1人区の攻防

 自民党にとって参院1人区は,文字通りの意味で牙城であった。記録的大敗を喫して退陣に追い込まれた橋本政権下の98年参院選でさえ、当時24あった1人区では、自民推薦の無所属候補1人を含めて16選挙区で議席を獲得し、圧勝した前回参院選では25議席を獲得したように、「保守の岩盤」と形容される強固な社会的基盤が自民党を支えつづけてきたのである。
 だが今回は27の1人区のうち自民党が獲得したのは14議席で、98年には1議席も獲得できなかった民主党は公認候補9人が当選し、推薦候補3人の当選も含めれば12議席を獲得したのである。しかも岩手、三重、滋賀、奈良、長崎、大分の6つの1人区では、民主党の新人が自民党の現職を敗り、秋田、高知、宮崎の3つの1人区でも、民主党推薦の新人が自民党の現職を敗って当選した。
 これだけでも地方、つまり地方中小都市と農山村部に広く深く張り巡らされた自民党集票機構の衰退は明らかだが、選挙終盤に公明党が改めてテコ入れを約束した岩手、滋賀、奈良、長崎、宮崎の5つの選挙区でも民主党に敗れ、山形、山口、佐賀では公明党の全面的支援で辛うじて当選するといった事態は、単なる集票機能の衰退以上の〃何か〃を思わせるに十分であろう。
 自民党が勝利した1人区でさえ山形、山口、佐賀の3選挙区は、前述のとおり公明党の組織票に助けられた当選だし、福井、和歌山、鳥取、徳島、香川の5つの選挙区では自民党の現職が民主党新人候補の激しい追い上げで数万票差の接戦を演じるハメになり、圧勝と呼べるのは石川、島根、鹿児島の3つだけ、民主党の現職に競り勝った1人区は富山、熊本の2つだけというありさまであった。それは自民党が単独で勝てる1人区が、いまや27選挙区のうち10に満たない現実を浮き彫りしたのである。
 こうした1人区の惨状は選挙区全体の得票にも現れている。自民党のそれは前回の41・0%から35・1%(1968万票余)に減少し、前回の18・5%から39・1%(2190万票余)に伸長した民主党に選挙区の得票数でも第1党の座を奪われた。選挙区の全国平均投票率が前回の56・44%とほぼ同じ56・57%だったことを考えれば、1人区の苦戦をともなう選挙区得票率の減少は、自民党支持基盤の深刻な危機を示すものであろう。

▼「保守岩盤」の歴史的形成

 もちろん自民党支持基盤の衰退は、今では選挙のたびに指摘される各種業界団体の機能低下や衰退の反映だが、参院1人区という牙城に現れた危機はそれにとどまらない、いわば中核的支持層の瓦解をうかがわせる事態と言っても過言ではない。

 前述のように1人区の多くは地方の中小都市と農山村部の選挙区であり、1955年の保守合同で自民党が誕生した当時は、同党の得票率は70%を越えていた。
 だがその後、高度経済成長の過程で多くの若者が都市に流出し、過疎や高齢化に悩まされるようになると自民党の得票率は低下の一途をたどり、67年衆院選に過半数を割り込んで以降は、自民党はただの一度も過半数を回復できないでいる。歴代自民党政権がこの支持基盤をつなぎ止めようと、春闘の賃上げと対になった政府買い上げ米価を毎年引き上げ、当時は潤沢だった国家財政から大枚の地方交付税を注ぎ込んでも、拡大する地方と都市の生産性格差は押し止どめようもなかったからである。
 だが1972年、「列島改造論」を掲げた田中角栄の首相就任で転機が訪れた。以降、参院1人区に代表される農山村地域には地方交付税から公共事業の補助金に姿を変えた国家資金が注ぎ込まれ、道路建設や箱物の公共事業が農林業を荒廃させながらこの地域を覆い、農業の荒廃で零細土建業との兼業に追い込まれた兼業農家を中心に、田中派の政治利権に連なって経済的恩恵を享受しようとする自民党支持層が「保守の岩盤」、すなわち「自民党の社会的陣地」として再生産されるシステムが生み出された。
 自民党の牙城=参院1人区は、このシステム化された、だが利権まみれの所得再配分機能によって育成されたのである。

▼経済成長の終焉と保守基盤の崩壊

 こうした自民党支持基盤の再生産システムが機能不全に陥るのは、90年代初頭のバブル経済の崩壊とその後の長期不況を契機にしてであった。しかも同時に押し寄せたグローバリゼーションの波は、日本的経営の労働生産性の低さを容赦なく暴き出し、輸入食料の急増が農業の荒廃を一段と加速しただけでなく、地方に注ぎ込む国家資金そのものが、不況による税収の落ち込みの直撃を受けて枯渇しはじめたのである。
 「構造改革」が声高に叫ばれはじめると、保守基盤の再生産に欠くことのできない公共事業や補助金は露骨な利権争奪戦の対象となり、スキャンダルのリーク合戦を含む手段を選ばぬ抗争が激化し、利益誘導政治の隠された実態が次々と暴かれはじめた。そしてついに田中時代に築かれた再生産システムの維持が不可能であることを、自民党自身も認めざるを得ない状況に至るのである。
 かくして自民党は地方分権と「三位一体改革」を標榜しながら、税源委譲を伴わない補助金と地方交付税の削減という非常手段に訴える以外になくなった。補助金は1兆円、地方交付税は3兆円を削減する一方で、委譲する税源を6千5百億円に値切るという大胆極まりない地方切り捨ては、自民党による所得再配分機能にかすかな期待を抱いてきた中核的支持層に、絶縁状を叩きつけるに等しい蛮勇と言う以外にない。
 というのも自民党は、小渕政権以来10年にわたって「不況対策」と称して自治体単独の公共事業を奨励し、借金漬け自治体の元凶を作ってきたからだ。国家資金の不足を補う債務保証付き公共事業なる妙案は、自治体財政を圧迫して独自の公共投資の余地を奪うことになったが、その自治体に対する補助金と地方交付税の大幅な削減は、自治体の債務返済計画を破綻させ、独自の公共投資を不可能にするだけである。
 投資が減少すれば、経済は縮小する。それは資本主義に限らない経済の鉄則である。とすれば小泉自民党政権の将来的構想を示すことさえない一方的な補助金削減は、裏切り以外の何物でもない。
 この状況下で自民党の集票に奔走する支持者がいれば、そのほうが驚きである。自民党の1人区の苦戦はすでに決定的であった。年金法案のデタラメや小泉の「人生いろいろ」発言は、いわば最後の引き金になったと言うべきであろう。

▼所得再配分システムの再構築へ

 紙数と時間的制約のために、この閉塞状況を打開する対案や主体の構想を詳しく述べることはできなくなった。
 だがわたしたちが繰り返し指摘してきたように、日本経済の成長神話にしがみつく福祉国家の展望は、たとえ「バージョンアップされた」と形容されようが、まったくの幻想であることが明らかになりつつある。
 したがってもちろん、自民党田中派がシステム化した補助金行政や地方交付税の大判振る舞いにメスが入れられなければならないのだが、それは同時に、右肩上がりの経済成長を前提にした所得再配分システムを全面的に見直し、比較的長期にわたる社会保障が可能となる現実的な社会保障制度が提示されなければならないはずである。
 それがなければ、そして小泉にはその問題意識すら無いのだが、補助金削減の優先順位は決められないし、必要な社会保障に優先的に資金を投入する「効率的社会」への改革も達成できはしないのである。

(7/31:きうち・たかし)


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