農産物貿易の自由化か、食糧供給の安定か

―FTA交渉の失敗が暴く輸出依存型経済戦略の破綻―

(インターナショナル第142号:2004年2月掲載)


 昨年11月16日、日本とメキシコの自由貿易協定(FTA)交渉が決裂した。日本政府による事前の楽観的見通しが裏切られると、日本貿易振興会(JETRO)などはにわかに「農業の構造改革は待ったなしだ」と声高に主張するようになった。
 この交渉決裂の原因は、懸案のメキシコ産豚肉関税で日本が大幅に譲歩したのに、土壇場になってメキシコがオレンジジュースの無税輸入枠拡大を要求したからだと報じられている。だが「日本の譲歩」は実際には極めて不誠実であった。たしかに日本は現行関税率4・3%の半減を提案したが、他方では日本が定める輸入基準価格と実際の輸入価格の差額を徴収する、事実上49%(基準価格410円/kg、輸入平均価格276円/kgで計算)にもなる「二重関税」については何の譲歩もしなかったからである。メキシコ側が土壇場でオレンジジュース輸入枠拡大を持ち出したのは、メキシコが交渉の席を蹴ったことを意味するだけである。
 もちろん貿易振興会はこうした事情を承知の上で、むしろこの交渉決裂を好機として農産物輸入自由化を更に促進し、農業を犠牲にした輸出産業の権益擁護を強く要求しているに過ぎない。
 だがアメリカやアジア諸国と比較すれば取るに足りない規模のメキシコとの貿易交渉の決裂が、日本の輸出産業をこれほど苛立たせたのには理由がある。それはメキシコとの交渉が決裂する4ケ月前の昨年6月、日系輸出産業が新たな海外生産拠点として注目しているタイとのFTA交渉が惨めな失敗に終わったことと関係している。
 在タイ日本大使館の大江公使は「メキシコとの交渉はマイナスをゼロにする交渉だが、タイとの交渉はゼロからプラスを作る交渉」だと指摘した上で、「10年15年経つと、タイがメキシコ化する恐れがある」(週刊東洋経済03年11月29日号)と危機感を隠そうともしない。つまり焦燥感も露な貿易振興会の農業構造改革推進論の背後には、FTAが急増した90年代後半の国際貿易の動向を傍観し、慌ただしく始めたFTA交渉で次々と失敗を重ねる日本の対外経済戦略の動揺のツケが横たわっているのである。

▼メキシコとタイでの「損失」

 モロッコのマラケッシュで、WTO(世界貿易機構)の設立を含むガット・ウルグアイ・ラウンド(GATT多角的貿易交渉)最終合意文書が採択された1994年、日本の対メキシコ輸出はメキシコ輸入市場で6・1%のシェアを占めていたが、6年後の2000年には日本のシェアは3・7%にまで減少していた。
 原因は明白だった。90年代後半、すでに北米自由貿易協定(NAFTA)に参加していたメキシコはEU主要国をはじめ世界各国と次々にFTAを締結したが、日本政府は95年1月に設立されたWTOの多国間協定協議を盾にしてFTA交渉に難色を示し、結果として主要工業国では日本だけが16%の関税というハンデを負う形になったからである。日本の工業製品は対メキシコ貿易において急速に国際競争力を失い、日本側の「損失」、正しくは16%の関税がなければ手にできたと輸出産業が考える対メキシコ輸出の「失われた利益」は、年間4千億円(経産省の試算)に上った。
 これが大江の指摘するマイナスであり、昨年11月の交渉はこれをゼロに戻すことを獲得目標にしていたのである。つまりメキシコとのFTA交渉で追い詰められていたのはむしろ日本側だったのであり、交渉決裂は日本外交の敗北だったのである。

 しかも前述したタイとのFTA交渉(昨年6月)は、タイが求めていた交渉開始の宣言さえできない惨めな失敗に終わり、それが輸出業界の苛立ちに拍車をかけた。
 タイは当初から、日本に求めている米、鶏、澱粉、砂糖など農産物の輸入自由化には日本国内の抵抗が強いことに理解を示し、タクシン首相が事前に「三段階で行きましょう。センシティブな問題は先送りでいい」と伝えて交渉に臨んだ。
 ところが交渉の出口、要するに日本国内の「落としどころ」が決まらなければ交渉開始さえ宣言しないという門前払に等しい日本の対応は、タイ政府に大きな失望感を与えることになった。とくにタイに進出した日系自動車資本などが、対アメリカ輸出に有利な「タイ製日本製品」の増産と、膨張著しい中国市場への参入をにらんでタイを輸出生産拠点にする動きを強め、増産体制構築に向けた投資や部品調達に関するASEAN域内の規制緩和を要望しているのだから、日本政府の対応は身勝手そのものであろう。
 ASEANに加盟する東南アジア諸国は、かつてのように経済援助を当てにして日本の顔色をうかがう「貧しい途上国」ではなく、97年の通貨危機を乗り越え、新興勢力を自負して広大な中国市場で国際的競争に勝ち抜こうとする「伸び行く途上国」である。だからまたASEANには、欧米からの投資も活発に行われているのだ。
 だがこうした現実は、戦後の日本資本主義がODA(政府開発援助)や資金(円)供与によって築いたアジアにおける経済的なイニシアチブ、雁行型と呼ばれた「日本を牽引車にしたアジアの経済発展モデル」に基づく札束外交が、その有効性を失いつつあることを端的に示すものなのである。

▼経済格差とWTOの停滞

 日本政府が二国間のFTAを敬遠してWTOの多国間協定に固執してきたのは、「FTAは世界経済のブロック化につながる」という大義名分にもとづいていた。だがもちろんこの大義名分は、FTAに抵抗する農水省と経産省の本音ではない。
 たしかに、帝国主義列強が地域経済圏を排他的に囲い込むブロック化は二度の世界大戦の大きな要因であり、だからまた戦後の国際社会は経済のブロック化を阻止する国際貿易機関(ITO)の設立をめざし、1948年10月には世界23ケ国が、日本も8年後に加盟することになる「関税および貿易に関する一般協定(GATT)」に調印もした。しかしGATTは、1948年3月の国連貿易雇用会議で52ケ国によって採択された「ITO憲章」(ハバナ憲章)第3章の大半を切り捨てた、西側に限られた「先進工業国クラブ」に過ぎなかった。
 なぜならITO憲章第3章には、無差別的な自由貿易原則とは別に途上国の経済発展に配慮する諸規定、つまり途上国の要求にもとづく保護措置や特別援助、新たな特恵関税の取り決めなどが盛り込まれており、GATTに最初に調印した23ケ国の大半はこれを嫌う欧米の工業的先進国だったからである。
 しかもこうした欧米先進国の対応は、経済格差の是正措置を支持するソ連など東側諸国との対立をも激化させ、ITOの設立を破綻に追い込むことになった。
 この経済格差をめぐる対立はもちろんGATTで解消されはしなかったが、それは「東西対立」から「南北問題」へと姿を変えて、GATTの限界を打破しようとするWTOにも引き継がれた。GATTでも多数派を占めるようになった途上国側の批判と圧力をかわし、無差別的な自由貿易原則を擁護する国際機関を設立しようという日本を含む工業的先進国の思惑と、GATTの限界を越える新たな貿易ルールへの途上国側の期待は、当初からWTOにはらまれた鋭い対立だったのである。
 そして99年12月、途上国と先進国の農産物と一次産品の取り扱いをめぐる対立が激化する中で、無差別的な自由貿易主義に反対する数万人のデモ隊に包囲されて流会に追い込まれたシアトル閣僚会議は、この対立を押さえつけようとする先進国側のイニシアチブ(先進国を中心とした密室協議とその結論の押しつけ=グリーンルーム方式)の破綻を暴き出すことになった。
 以降の多国間協議は、先進国とくにアメリカとEUの国内農業保護を名目とした輸出補助金が、途上国の農産物輸出を妨げているという異議申し立てを焦点にして4年におよぶ無為の時間を浪費するのである。01年11月の第4回閣僚会議(ドーハ)は、輸出補助金の段階的解消の合意にこぎつけるが、それは期限も先進国側の義務も明示しないまったく不十分な内容だったし、その後の2年間、ジュネーブにあるWTO本部で続けられた協議でも事態はまったく進展せず、結局は昨03年9月の第5回閣僚会議(カンクン)も何の合意も達成できずに閉幕した。

 だがWTO多国間協議の停滞は、工業的先進諸国と途上国の歴史的な対立を正確に認識できていれば、当初から十分に予測できる事態でもあった。事実、WTO設立後の90年代後半には多くの国が多国間協議の停滞を予測していたかのように二国間のFTA協議に向かい始め、WTOとFTAを天秤にかける二股戦略を公然化させるのである。

▼農水省と経産省の農業破壊

 二国間協議を敬遠してきた日本政府はこうした国際貿易の動向に完全に乗り遅れ、ついに02年1月、シンガポールとのFTA締結という方針転換に追い込まれた。「ブロック経済化の懸念」はあっさりと忘れ去られたが、それはこの大義が農水省や経産省という国家官僚機構の本音を隠すイチジクの葉だったことも明らかにした。
 メキシコとのFTA交渉を報じた『週刊東洋経済』(03年11月29日号)には、「FTAは1対1の交渉。その都度、調整責任が生じる。WTOの関税一括引き下げなら、世界148ケ国が決めること。世界で決まったことだと言えば(農水族・農業団体も)説得できる」という「関係官庁」のコメントがある。要するに国際協調と称して「世界で決まったこと」を外圧として利用し、農業保護政策を放棄する無責任な本音を隠すためにブロック経済化の懸念なる理屈を振り回してきたのだと、関係官庁が白状しているのだ。
 そしておそらく農水省と経産省であろう「関係官庁」の本音には、ちゃんとした裏づけがある。そのひとつは日本が唯一締結したシンガポールとのFTAには、農産物の追加的関税引き下げがないことである。小さな島国であり工業国でもあるシンガポールとのFTAなら農産物は問題にならない。こうして唯一のFTAが締結された。
 もうひとつはタイとの交渉失敗から6ケ月後の12月、東京で開かれたASEAN特別首脳会議ではタイの他に、マレーシア、フィリピンともFTA交渉開始で合意したことである。対日農産物輸出の比重が小さいマレーシアとフィリピンとのFTA交渉を並行させてタイを牽制しようという見え透いた魂胆だが、そこにも「1対1の交渉」では免れない「調整責任」を回避したい本音が透けて見える。
 ところが農水省と経産省は姑息な責任回避に腐心しながら、実はアメリカやEUなどの工業的先進諸国と比べても突出した「農業を犠牲にした輸出振興策」を強力に推進して日本農業に壊滅的打撃を与え、食料自給率を40%にまで引き下げる「実績」をすでに積み上げていたのである。

 ウルグアイ・ラウンド農業合意(WTO農業協定)に対応する日本の農政改革は1995年、食糧管理法(食管法)の廃止として始まった。さらにコメ輸入の関税化特例措置にともなうミニマム・アクセス(最低輸入量:95年度は国内消費量の4%=43万トン)について、日本政府はこれを義務であると自ら宣言し、国内では青田刈りまで強制する厳しい生産調整(減反政策)を実施する一方で毎年0・8%づつ増えるコメの輸入を100%実施しつづけ、00年度のコメ輸入量は国内消費量の実に7・2%に達するまでになった。
 これと平行して始まった農業助成金の削減は、96年には33%、97年には36%と、農業合意の目標である「6年間で20%の削減」を上回る規模ですすめられ、98年度には、2年後の00年度目標水準さえ80%も超過達成する突出ぶりであった。
 それは生産性の低い零細・兼業農家の離農と農地集約を促進し、競争力のある大規模農業を育成すると称して強行されたが、戦後のコメ偏重農政の結果でもある稲作に過度に依存した日本農業の現状を無視した幻想に過ぎなかった。結果としてコメの価格支持を突然放棄するだけになったこの政策は、日本農業の危機を大いに促進したのである。デカップリング(政策と生産を分離する=デカップルになぞられられた、農業保護と農産物生産の分離政策)を標榜するアメリカやEUの農政転換でさえ、農業所得を支持するセーフティーネットを再構築しつつ進められたことを考えれば、農水省と経産省の施策の乱暴さと無責任さはあまりに酷い。
 こうした過去に蓋をして、農家潰しの張本人たる農水省と経産省が「農業保護」を口実にFTAに抵抗するのは、悪い冗談としか言いようがない。日本農業の危機は農水省と経産省自身の手で、すでに90年代後半に一挙に促進されてきたのである。

▼輸出依存型戦略の二重基準

 農産物輸入自由化に伴う乱暴な農業切り捨て政策は、70年代後半に始まるアメリカ産の牛肉とオレンジの輸入自由化の過程に前例を見ることができる。
 当時、日本からの乗用車や家電の輸出攻勢によって巨額の対日貿易赤字に悩まされていたアメリカは、日本に対して圧倒的なアドバンテージをもつ農産物に的を絞り、77年から79年の二国間協議で貿易不均衡の是正を日本に迫った。この協議が農水省と経産省が嫌う日米の「二国間協議」であったことは、改めて注目にあたいする。
 そのアメリカ産牛肉とオレンジの輸入は91年4月には完全に自由化されるが、この過程で日本の育牛・酪農農家は壊滅的とも言える打撃を被ることになる。農産物輸入自由化にともなう農業切り捨ては、事実上この時から始まったのである。
 つまり日本政府は途上国との二国間協議では農産物輸入自由化を拒絶しながら、アメリカとの二国間協議ではそれにほぼ全面的に応じる二重基準(ダブルスタンダード)を臆面もなく使い分け、しかも一旦自由化が決まるや農業保護を躊躇なく投げ捨てることを基本方針としてきたのだ。
 それは乗用車や家電など耐久消費財の輸出攻勢という、今では輸出対象国の景気動向に一喜一憂しなければならない〃日本経済の弱点〃に転化しつつある経済戦略に基づいて、否それに代わる新たな経済戦略を構想することもできずに、アメリカという巨大な耐久消費財の輸出市場を確保するためなら国内農業の破壊も厭わない、典型的な「農業を犠牲にして輸出振興を図る」政策であった。
 こうして日本資本主義はアメリカ市場への依存を一層深め、それが外交上の対米追随の圧力ともなった。だが旧態依然たる「輸出立国」の発想で農産物輸入の二重基準をつづければ、途上国の対日不信を助長して対日農産物輸入要求圧力を高めずにはおかない。そのうえASEAN諸国との経済的関係はいま、大きな転機に直面している。
 タイを対米輸出の生産拠点化しようとする日系企業にとって最大の懸念は、中国のASEANへの急接近である。経済的膨張の著しい中国はいま、ASEAN諸国とのFTA締結にむけた働きかけを活発化させており、これに日本が立ち遅れればタイ向けの部品輸出などがハンデを負い、「タイのメキシコ化」という在タイ日本大使館の大江が抱く危機感が現実性を帯びることになる。
 だが反対に、輸出産業の要求に圧されて農産物輸入自由化を次々と受け入れてFTA締結を推進すれば、国内農業の荒廃はさらに深刻化して食糧自給率を一段と低下させる以外にはないだろう。しかもアメリカ産牛肉のBSE(狂牛病)感染と鳥インフルエンザの流行に伴う緊急輸入停止が牛肉と鳥肉の供給不安を引き起こしたことで明らかなように、輸入食糧への依存の深まりは食糧の安定供給を根底から揺さぶることになる。現状では世界の食糧生産は過剰ぎみで価格も低迷しているが、農産物輸出国の天災や凶作がたちまち食糧需給を逼迫させ、価格の急騰が食卓を直撃する可能性はいつでもあるのだ。
 いまや戦後日本の経済的繁栄を実現した輸出依存型経済戦略は、国内の農業・食糧問題と国際的な農産物自由化の波に挟撃されて破綻しつつあるのである。

▼食糧の安定供給と農産物貿易

 ではWTOが無差別的自由貿易主義の推進機関となることに反対するわたしたちは、途上国と日本のFTAについてどのように考えるべきなのだろうか。
 わたしたちはまず、国内農業の保護か途上国の自由化要求支持かという不毛な二者択一から自由になるべきだし、内容を問わずすべての自由貿易協定に反対する頑なな姿勢に陥ってもならないと思う。
 核心的問題は農産物や一次産品も無差別に自由化するべきなのか、それとも食糧生産と供給の安定に資する国際システムの構築をめざすべきかの選択であり、いまひとつは途上国から冨を吸い上げて工業的先進国となった日本が、途上国に対して果たすべき国際的義務の問題だからである。
 もちろんグローバリゼーションに直撃される日本農業の危機をいかに打開するかという身近で深刻な問題はあるが、それは別の機会に譲りたいと思う。

 ところで農産物と一次産品を無差別自由化原則から分離し、途上国の農産物輸出アクセスを改善しつつ食糧自給率を引き上げようとする国際社会の努力は、実はGATT体制の下でも歴史的に蓄積されてきた。
 一次産品に関する規定がほとんどなかったGATTでは、農産物に関する国際的取り決めはコーヒー豆や砂糖など途上国の関心の強い産品ごとに、価格や貿易数量を規制する緩衝在庫、輸出割当、多国間協定などの規制を盛り込んだ国際商品協定として発足し、その後も状況の変化に応じて数次にわたって改定されてきたのである。
 むしろWTOは、GATTのこうした限界を打破するものとして農産物の自由化を協定に取り込んだ点で新しさがある。だがそれは途上国の農産物輸出アクセスの改善要求を取り込みながら、工業的先進国であり農産物の輸出大国でもあるアメリカとEU(主要にフランス)のアグリビジネスが期待する輸出拡大を後押しする協定でもあった。
 先進国の補助金付きダンピング輸出がWTOで繰り返し対立の焦点となるのはこのためだが、同時に他方には輸出用プランテーション農業が基幹産業化している途上国政府の新自由主義的政策が、農産物輸出に頼って国内産業基盤を整備する資金を獲得する以外の選択肢を自ら狭めているという事情もある。途上国の農産物輸出アクセスの改善要求が、困窮する途上国民衆の切実な要求とは必ずしも一致しない現実も、わたしたちは冷静に認識しておく必要がある。
 むしろ前述したように、ハバナ憲章の第3章には無差別的な自由貿易原則とは別に、途上国の経済発展に配慮する諸規定が盛り込まれていた。それは以降もGATTを批判する77ケ国グループの結成や国連貿易開発会議(UNCTAD)の発足へと受け継がれ、国連の専門機関である国連食糧機関(FAO)が連携する形で様々な試みがつづけられてきた。
 こうした国際社会の努力は、もともと輸出産業として発展してきた穀物メジャーを抱えるアメリカの抵抗や、途上国の政府・官僚にも浸透した自由貿易主義の影響もあって効果的成果を上げてきたとは言い難いが、それでも一定の到達点と言えるのが70年代の2つ国際機関の決議と、これを引き継いだ96年の「ローマ宣言」であろう。2つの国際決議とは74年に国連とFAOが共済した世界食糧会議にはじまり、翌75年のFAO第18回総会で採択され83年の第22回総会で改定された「国際農業調整ガイドライン」と、76年のUNCTAD第4回総会で採択された「一次産品総合プログラム」のことである。
 その内容は村田武著『WTOと政界農業』(筑摩書房ブックレット)に詳しいのでそれに譲るとして、これらの決議や提案に貫かれる基本的理念は、農産物貿易を世界の食糧供給の視点から捉え直すことで無差別的な自由貿易原則とは区別することである。
 具体的には農産物を含む一次産品を網羅する国際商品協定によって価格(所得)の安定を図り、同時に途上国の食糧自給率を引き上げ産業基盤整備を支援する国際的義務を工業的先進諸国に課したのである。先進国が負う義務には農産物輸出補助金を削減して途上国の輸出アクセス改善を図り、途上国を支援する国際基金への拠出が含まれる。

▼FTAと日本政府の義務

 ところでよく考えてみると、こうした途上国を中心とした食糧生産と農産物貿易をめぐる国際的努力は、実物経済をはるかに上回る投機的金融取引に課税し、その税収を途上国の支援に使おうという「トービン税」の提案や、途上国の債務を帳消しにして貧困と食糧不足を改善する国際的支援を呼びかけるジュビリー2000のキャンペーンと多くの共通項をもつように見える。
 少なくとも途上国の困窮する民衆が必要とする国際的支援という点では、今日のグローバリゼーションに抵抗する運動と歴史的な国際社会の努力は、十分に連携できる可能性をもつだろう。だとすればわたしたちは、少し語弊はあるが新自由主義に反対する「だけ」の運動を越えて、食糧生産と途上国支援のための国際社会の努力とも積極的に連携し、諸国の経済格差に十分に配慮したより公平な貿易ルールの確立にむけた国際的な社会運動を意識的に、そして粘り強く追求しなければならないと思うのだ。
 こうした長期的展望に立てば、日本政府が途上国と協議すべきは二国間であれ多国間であれ日本への輸出アクセスを改善する特恵取り決めであり、韓国やASEANなどより対等な関係を求める諸国とはFTAを含めたより広範な自由化協定、とくに日本が頑なに拒む労働力の受け入れを含む協定である。と同時に農産物と一次産品は、その輸出に大きく依存する途上国を例外にして、むしろ安定供給を主眼とした「一次産品総合プログラム」に準じる備蓄や規制の統一協定の締結を提唱し、途上国と共にWTOの多国間協議でもこれを推進することである。
 UNCTADの「一次産品総合プログラム」に基づいて設立されながら、先進国の十分な支援を得られずに効果の上がらない「一次産品共通基金」への拠出を増やすなど、日本の無償援助によって途上国の産業基盤整備に協力する経済戦略を構想する方が、国内農業を荒廃させながらわずかばかりの関税引き下げで途上国の要求に応える以上に、高い外交的優位性を獲得できるだろう。

 ここで述べた輸出依存型戦略に代わる新たな日本の経済戦略の展望は、もちろん現状では「青臭い理想論」に見えるだろうし、その実現には困難な障害も多い。とりわけ戦後日本の保守政治が「脱亜入欧・大東亜共栄圏」を無反省に継承した対アジア外交の打破は、この展望の前提条件である。
 だが四半世紀におよんだ世界の資本主義的繁栄が過剰生産に陥り、多国籍資本による極大利潤の追求が経済格差を拡大しながら貧困を蔓延させる今という時代は、歴史的な大変動にとともに旧来的思考やシステムの抜本的転換が課題ともなる。
 もちろん新自由主義の影響はアメリカという巨大な経済的軍事的パワーを背景に世界の主流をなし、わたしたちの運動と社会的陣地はなお脆弱である。だがそうだからこそわたしたちは長期的な社会運動の展望を共に練り上げてその陣地を構築するために、国際貿易の歴史を総括してその進歩的成果をも取り取り込み、現存する国際的運動や機関とも連携できる現実的な日本の運動を構想しなければならないのだと思うのだ。

(2/26:きうち・たかし)


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