【小泉政権2年半の中間決算】

経済成長の神話から脱却し公正な再分配機能の再生へ
ー国家財政の危機と連動した安全保障政策の歴史的転換ー

(インターナショナル第138号:2003年9月発行:掲載)


▼ネオコンの誤算

 イラク占領政策の危機が深刻さを増しつづけている。8月19日の国連イラク現地本部に対する爆弾テロは、イラク占領政策の危機を象徴する事件である。
 ブッシュ大統領の「戦闘終結宣言」以降も執拗につづく襲撃によって、戦争の勝利で米英軍兵士たちが抱いた「解放軍として歓迎される」幻想は崩壊し、あらゆるイラク人がゲリラに見える恐怖とともに、戦争の大義に対する疑念が多くの占領軍兵士をとらえ始めている。襲撃の続発とこれに対する掃討作戦のイタチごっこは、テロとは無縁なイラク民衆への抑圧を強め、占領軍が孤立を深めて凶暴化する悪循環の典型である。
 こうしたイラク現地の危機の深化と並行して、戦争そのものの正当性をめぐる疑惑も追及され始めた。いまだ発見されない大量破壊兵器に関して、ブッシュ政権とブレア政権が情報操作を行って国民を騙したとする疑惑の追及は、イラクとの戦争を強硬に主張してきた新保守主義者(ネオコン)の、デマゴーグという本性を暴き始めている。彼らはフセインを「現代の悪魔」に仕立て上げ、アメリカの軍事力が世界に平和と安定をもたらすと言う高邁な理想を人々に信じ込ませるために、ありとあらゆるデマを創作し流布してきたことが明らかにされつつある。
 国際世論を押し切ってイラク戦争を強行したアメリカの帝国化は、ブッシュ政権中枢がこうしたデマゴーグたちに占拠されることによって姿を現した。
 とは言え、ネオコンがアメリカの帝国化を実現したと考えるのは素朴にすぎる。アメリカ資本主義の一元的世界支配の野望は、すでに80年代のレーガン政権の下で「強いアメリカ」として追求されはじめ、クリントン政権時代のグローバリゼーションの展開を通じてその経済基盤を強化してきたからである。それは70年代半ば以降、戦後の圧倒的な優位性を失いはじめたアメリカ資本主義が、石油や食料などの戦略物資に対する支配を武器に国際的優位を再確立し、戦後資本主義=パックスアメリカーナの安定と繁栄を取り戻そうとする戦略的挑戦であった。
 9・11テロを契機に公然と展開され始めた先制攻撃戦略は、こうしたパックスアメリカーナの限界と危機に対応しようとした国際戦略の帰結である。つまり「強いアメリカ」による「世界資本主義の平和と安定の実現」の願望がデマゴーグ=ネオコンの台頭を促し、グローバリゼーションの破綻を象徴する9・11テロが、アメリカ資本主義をデマゴーグとの抱擁へと突き動かしたのだ。
 したがってネオコンの台頭とアメリカの帝国化は、大量生産・大量消費という大衆消費社会を特徴とする、戦後資本主義の危機の新たな段階の表現なのである。

▼新しい戦争の衝動

 軍事力による国際新秩序の確立という願望が、デマゴーグと手を結ぶのは歴史が証明するひとつの必然である。
 敗戦直後の日本史を再検証する有意義な試みでもある『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・W・ダワーは、「忘れられた日本の占領」と題する論考(『世界』9月号に掲載)で、「アメリカが新しい帝国を築こうとしている今日、もっとも興味深い実例と思われるのは、日本の満州(さらに中国)占領であ」り、「日本の右翼急進主義者たちの抱いた野望、情熱、そしてその帰結は、今日のアメリカの政策に見られるそれと、不気味なほど呼応しあっている」と指摘した。
 彼は「政権を交替させ、国家を作りなおし、従属国家を作りあげ、戦略物資をコントロールし、国際的非難には耳をかさず、『総力戦』に動員し、『文明の衝突』なるレトリックをもちだし、民衆の感情と理性を魅了し、海外だけでなく国内でもテロと戦う−−。これらはすべて、『共栄圏』なる思い上がったアジア新秩序の構築において、まさに日本が用いた重要な手法にほかならなかった」と述べ、満州事変とイラク戦争を仕組んだデマゴーグの共通する手法を暴いている。
 この歴史的比喩が的を得ているとすれば、アメリカのイラク戦争は、満州事変から日中戦争の泥沼にはまり込み、ついには東南アジア諸国への全面的侵略に突き進んで破滅した大日本帝国と同様に、次々と新しい戦争を必要とする可能性がある。そして現実にブッシュ政権はイラクで頻発する襲撃をアルカイーダと連携するテロリストの仕業と見なし、それを「支援する」シリアやイランを非難して外交的圧力を強めている。
 戦略物資=石油に対するアメリカ覇権の再確立のために、石油メジャーによるイラク油田の支配と「安定した」原油生産によってアラブ石油輸出国機構(OAPEC)のヘゲモニーの解体を目指すアメリカにとって、これを妨害するあらゆる行為は「テロとの戦争」に対する敵対であり、シリアやイランへの非難は新たな戦争衝動の現れである。
 だがそれは戦後資本主義世界を再組織したアメリカの、生活様式から文化まで含む政治的経済的ヘゲモニーに対する国際社会の自発的共感の衰退にあがらって、軍事的強制がますます頻繁に発動される先制攻撃戦略の本質を暴いてもいる。

 小泉政権による戦後日本の安全保障政策の質的転換は、アメリカのこうした国際戦略への積極的同調を追求するものである。だがそれは同時に、小泉が戦後日本資本主義の歴史的危機の打開を期待されながら、旧態依然たる戦略的枠組みを少しも越えない無能な政権であることを暴いてもいる。

▼小泉政権の歴史的性格

 われわれは一昨年(2001年)4月に小泉が自民党総裁選に圧勝した直後、『インターナショナル』118号(01年5月11日発行)に掲載した「日本政治の閉塞が生んだ小泉新政権への高支持率」(さとう・ひでみ)で、@小泉政権は「構造改革」を推進する社会的基盤をもたないこと、A小泉を選んだ総裁選の実情は「自民党政権の堅持」を前提とした「利権の再配分」への期待であり、「構造改革」は「総論賛成・各論反対」の入り乱れた抵抗によって混乱する以外にはないこと、そしてB小泉はこうした混乱を収斂して「改革」を進めるビジョンを(おそらく)持っていないことを指摘し、「小泉への大衆的期待は幻想に終わるであろう」と主張した。
 以降われわれの小泉批判はこの分析に基づいて展開され、経済政策と利権政治の解体的再編に関するかぎり、ほぼ予測どおりの混乱が繰り返されている。
 だが他方で小泉は、混乱を助長するばかりで成果の上がらない「構造改革」にもかかわらず、歴代自民党首相としては異例と言える過半数の支持率を2年以上も維持し、自民党総裁選に関する各種世論調査でも小泉再選支持が不支持を上回っている。
 この歴然たる事実には、前掲『インターナショナル』で指摘した自民党実権派に「対案がない」という要因だけでなく、「グローバリズムに対応する構造改革」路線に対する本質的対案の不在、つまりグローバリズムに対抗する『もうひとつの日本』を提起できない戦後日本の革新勢力と左派を貫く〃主体的問題〃が反映しており、またアメリカの同時多発テロ(9・11テロ)という、国際情勢の重要な転機の影響が表れている。
 前者の主体的問題とは、小泉への幻想的期待の核心をなす「構造改革なくして景気回復なし」という展望に対する、根本的批判の欠如である。与野党を問わず、右肩上がり経済の回復を無条件の目標にして提案される規制緩和や構造改革に対して、大量生産・大量消費の大衆消費社会の終焉を確認し、公平な再配分システムの構築こそが対案として提起されなければならない。
 そして後者の問題は、前述した「小泉政権が・・・・歴史的危機への対応を期待され」て登場したことと関連して、日本の国際戦略の根本的転換が迫られる情勢の圧力こそが、戦後日本の安保政策の転換を促進した本質的推進力であり、なし崩し的転換という現実は、この点でも小泉政権が戦略的展望を持たないことの露呈だったと言うことである。

 まずは後者の、戦略的展望なき小泉の安保政策の転換と、その推進力と基盤について検討してみよう。

▼経済政策の混乱と対米追随

 ケインズ主義経済学に対する透徹した批判者であったヨゼフ・アロイス・シュンペーターは、「現存の制度が崩壊し始め、新たな制度が生まれ始めている」歴史の大転換期には「いつも財政制度が危機に陥る」と指摘したが、小泉政権の登場はまさに、700兆円とも言われる国と地方自治体の巨額の財政赤字が累積される一方で、利権まみれの自民党実権派が有効な対応策をまったく取れない状況の打開を期待されてのことだった。
 つまり小泉政権は、誰の目にも明らかな財政危機の立て直しばかりでなく、日本資本主義の「大転換期」にふさわしい国家戦略の抜本的な立て直し、「世界化した経済」に対応する国家再編の推進という課題も客観的にだが負っていたのである。したがって小泉政権下で進展した安保政策の歴史的転換は、戦後日本に国家再編を迫る情勢の圧力を本質的な推進力にしていた。
 9・11テロとブッシュ政権の先制攻撃戦略の表明が、この情勢の圧力を一挙に顕在化させた。だが新たな戦略的提起のない「なし崩し的転換」という事態は、安保・外交に関しても小泉が戦略的展望を持っていないことを暴露した。「対米追随」と非難される小泉の対応は、戦略を持たない者(小泉)が、新戦略を打ち出した者(ブッシュ)に引きずられて追随することになった必然的な結果に過ぎないと言って過言ではない。
 小泉政権2年半の経過を振り返っても、それは明らかである。
 01年7月参院選は小泉が臨んだ最初の国政選挙だが、その内実は「実権派の勝利に支えられた自民党の圧勝」と言えるもので、われわれの分析を裏づけていた【『インターナショナル』121号「グローバリズムに翻弄される実権派の社会基盤と小泉改革」】。だが直後の9月、同時多発テロが発生してブッシュ政権が「テロとの戦争」を打ち出すと、小泉はこれを全面的に支持してアフガン戦争支援法と有事法制の制定へ、そしてイラク派兵法へとつづく戦後日本外交の基本戦略のなし崩し的転換の道をひた走り、改革路線の混迷を補うかのような「ブッシュ政権との蜜月」を支えに政権を維持しつづけた。
 もちろん9・11テロ当時、小泉がすでに安保政策の歴史的転換を意図していたと言うつもりはない。むしろ不測の事態に対応できるあらゆる選択肢を用意しておきたいという外務省や防衛庁官僚が主導した対策に始まり、ブッシュ政権の対日圧力に後押しされるように転換が進められたというのが実態に近いだろう。それはまた「構造改革」の混乱で低下しつつあった政権支持率を、「アメリカによる改革の支持」で補完しようとする小泉の思惑によっても加速されただろう。
 もちろん昨年9月の日朝首脳会談は、親米路線とアジアとの協調路線のバランス、とくに中国、韓国との関係が緊張するのに危機感を抱く外務省「国際協調派」の巻き返しだったと考えられる。だが小泉にとっては、2度にわたる不審船問題で対北朝鮮外交の無策と危機管理の無能が暴露され、さらに「総合デフレ対策」(2月)が「構造改革」の混乱を露呈し、支持率が低下しつつあった政権の弱体化を外交的成果で立て直す好機であった。
 だから小泉は、拉致被害者家族の感情を利用した強硬策が勢いを増すとあっさりと強硬路線に転じ、以降は「朝鮮半島危機」が安保政策の歴史的転換を促進するもう一つの圧力として作用することになった。
 こうして安保政策の歴史的転換は、日本資本主義が直面する「歴史的大転換期」という情勢の圧力に押されて促進されたのだが、これがなし崩しだったのは、小泉政権が《アメリカの経済と政治のキャッチアップ》という、まったく時代遅れの外交戦略以外のものを何一つ持ち合わせていなかったことに起因していたと言う他はない。

▼新防衛族と民主党と自由党の合併

 小泉政権の下で《アメリカ経済のキャッチアップ》を体現するのが新自由主義のエピゴーネン・竹中金融相だとすれば、先制攻撃戦略という《アメリカ政治のキャッチアップ》の露払いは、ネオコンの台頭と連動して発言力を増す、旧来型のアナクロニズムなタカ派とは異なる「新(ネオ)防衛族」と呼ばれる超党派の議員集団である。
 自民、民主、公明、自由各党の議員103人で構成される「新世紀の安全保障を確立する若手議員の会」は6月、朝鮮有事を想定した集団的自衛権行使の緊急アピールを発表したが、これは2001年のアーミテージ報告が日本の集団的自衛権行使に期待を表明して以来彼らが主張してきたもので、とくに目新しいことではない。チェイニー副大統領が今年3月、「日本も核配備を検討すべきだ」と言えば彼らも「日本の核武装」を口にし始めたことで明らかなように、この超党派議員団はネオコン人脈をテコに軍事の分野で過激な主張を声高に唱え、戦後政治のタブーに挑戦する改革者を装うデマゴーグである。
 ネオ防衛族の中心人物は安倍晋三(官房副長官)と石破茂(防衛庁長官)、米田建三(内閣府副大臣)の現役閣僚のほか、武見敬三(元外務政務次官)、中谷元(前防衛庁長官)、浜田靖一(自民党国防部会長)、中川昭一(拉致議連会長)、そして民主党の前原誠司(党安全保障担当)らだが、保守勢力内でもさほど評価されない二世議員を含むこの顔触れは、新防衛族が、9・11テロ以降のネオコンの台頭があればこそ発言力を増した勢力であることを雄弁に物語っている。
 しかも、こうしたデマゴーグや野心家を中心に、超党派で新たなタカ派が構成されている事態の中に、小泉改革に対する「根本的批判の欠如」が見事に現れている。
 財政危機と国家戦略の立て直しが密接に関連する課題であるなら、「グローバリゼーションに対応する構造改革」という点では小泉や小沢・自由党とほとんど違いのない菅・民主党が、外交と安保という国家の基本戦略をめぐって、小泉の「日米同盟強化」や小沢の唱える「普通の国家」と根本的に対立することなどありえない。これこそがアフガン戦争支援法から有事法制そしてイラク派兵法をめぐる国会審議で、抵抗らしい対抗が現れなかった本当の理由である。
 事実、民主党と自由党の合併は、「小泉と自民党より民主党(と自由党)の方が首尾よく改革を推進できる」ことを訴えて政権奪取を願望するものであって、対抗的な戦略的選択を提起するものではない。むしろ外交と安保をめぐってはほとんど何の統一性もない菅・民主党が、小沢の外交戦略に飲み込まれる可能性の方がはるかに高い。ここでも戦略を持たない者(管と民主党)が、戦略を持つ者(小沢と自由党)に引きずられ追随することになるのは、事の必然である。
 結果として混乱に陥るのは、アメリカの先制攻撃戦略の前に破綻した「国際協調と国連中心主義」に固執する旧社会党系・横路グループである。彼らは更なる変節か民主党との決別かの選択を迫られ、大半は変節を深めることになろう。なぜなら、彼らもまた「構造改革なくして景気回復なし」という経済成長の神話に囚われ、安保政策の歴史的転換と対の関係にある小泉改革に対して、根本的批判を持っていないからである。

▼経済成長神話の呪縛を断つ

 だが横路グループが囚われている経済成長の神話は、実は共産党も社民党も、そして日本の圧倒的多数の人々が囚われてもいる神話にほかならない。小泉への不満を募らせながら、なお小泉を支持する民衆の心情はこの神話の呪縛のためである。
 小泉や小沢は、市場原理に適応する日本資本主義の《構造改革によって》これを達成するとかたり、共産党と社民党は、消費税率の引き下げや社会保障費の増額による《大衆消費の回復で》これが達成できると言い争っているに過ぎない。ここには、戦後日本の経済成長を実現した大量生産・大量消費が《最良の持続的システムである》という共通する認識が横たわっている。
 たしかに、戦後の経済的高成長のような持続的好況があれば、国家財政の赤字も不良債権問題も自然に解消に向かうだろう。ところがこのシナリオの前提は、高い利潤率を期待できる投資先を失い、コンマ以下の利率を争って世界中を駆けめぐる膨大な投機的資金が、新しい生産的投資に向かうような画期的新製品と巨大な消費市場が復活するという、根拠なき期待と信念なのだ。
 だがわれわれが繰り返し明らかにしてきたように、いま世界を覆う全般的な経済的低迷の本質的な要因は、70年代半ば以降に顕在化した典型的な過剰生産(市場の狭隘化)という資本主義経済の限界にある。
 現代ではそれは需要不足、過剰設備、過剰貯蓄(資金)など、資本主義的循環を説明する用語で語られてはいるが、現在の長期不況が在庫調整などの景気循環で説明できないことは、エコノミストたちも認めざるを得ない現実となりつつあるのだ。
 戦後四半世紀にわたって世界の資本主義が経済的繁栄を謳歌できたのは、大衆消費市場の持続的拡大という拡大再生産の条件があったからである。だがこの条件が過剰生産の壁に突き当たり、資本の利潤率(今流に言えば株主資本利益率)が継続的に低下すると、資本の製造部門からの逃避が始まった。この逃避資本が膨大な流動性資金と化し、「コンマ以下の利率を争って世界を駆けめぐる」経済が生み出されたのである。
 仮に高い利潤率を実現する新製品や消費市場が出現したにしても、膨大の資源のムダと環境への負荷をともなう大量生産・大量消費のシステムは、今後どれほどの期間、経済的好況を保障できるだろうか。
 結論は明らかである。自民党も民主党も、そして共産党と社民党も共に抱きつづけている経済成長神話の呪縛から脱却し、長期的な低成長経済を前提にした社会的公正を実現するには、新しい社会的再分配システムの構想と構築こそが課題なのである。小泉「構造改革」路線を根本的に批判して『もうひとつの日本』を構想するには、経済成長の神話から解放されなければならないのだ。
 実際に、90年代アメリカの繁栄と同様の経済成長を期待しながら、他方ではグローバリゼーションに抗する民衆の国際連帯や協調を唱える外交政策が、多くの人々の共感を得ることはあり得ない。民衆の国際的連帯や協調を唱える外交戦略は、国内でも民衆の連帯と相互扶助を追求する戦略として追求されなければならないはずだからである。
 しかもこうした根本的批判にもとづく対案の必要性は、日本の経済と社会の現実がわれわれに教えそして求めてもいる。

▼低成長下の再分配システム

 1995年、当時の日経連が「新時代の『日本的経営』」を発表して以降、戦後日本の労働法制は次々と改悪され、多様な雇用形態の容認によって労働市場は流動化し、それと共に雇用形態や企業毎の賃金格差も拡大し、圧倒的多数の労働者の年収は年々低下して、ついには《年収300万円時代》の到来が現実味を帯びはじめてさえいる。
 小泉の「構造改革」は、これに追い打ちをかけるように社会保障費の負担を増やし給付は減らすことで一貫しているが、年収300万円と社会保障の削減は、右肩上がりの経済成長を前提に、賃上げと企業福祉要求に運動を矮小化してきた連合労働運動の空洞化を促進せずにはおかないし、全労連や全労協の運動にも鋭い問題を突きつける。
 つまり日本的賃金体系が解体されて賃下げが常態化し、企業内福祉や社会保障も縮小しつづける状況の下では、労働者大衆の多くが必要とするのは賃上げ以上に、多様な生活支援になるだろう。しかも国家と企業が生活(賃金)保障や支援を削減するのであれば、より自立的な労働者の相互扶助システムに期待が高まることにもなろう。もちろん国家が健康で文化的な生活を保障する義務を免除すべきではない。だが国家への過度の依存は、税収確保の必要などを理由に景気回復路線に搦め捕られる基盤にもなる。
 しかも労働者の自立的な相互扶助システムは、労働組合という大衆的労働者組織の自己決定と大衆自治の機能をはらむ資本と国家からの自立の基盤であり、だからまたこの中から生活協同組合や共済組合など、今日の非政府組織(NGO)に通ずる相互扶助組織が生まれてきたのも周知の事実である。

 大衆消費社会を基盤にした戦後資本主義の経済成長の終焉は、成長神話を前提とした戦後労働運動の空洞化を促進する一方で、労働組合の本来的機能を再生する客観的基盤を拡大し始めたのである。とすれば明日を担うの労働組合は、経済成長の幻想を捨て、長期に及ぶであろう低成長経済を想定して必要な生活支援を相互に満たしあうために、自立的な相互扶助システム機能として再生される以外にはないだろう。
 それは低成長経済がもたらす社会的問題に主体的に取り組み、企業や雇用形態をこえて結集するゼネラルユニオンに向かう、時代が求めはじめた道筋でもある。

(8/31:きうち・たかし)


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