【03年統一地方選挙の中間決算】

福祉国家戦略の限界と破綻に瀕する構造改革

(インターナショナル第135号:03年5月号掲載)


●選挙結果−3つの特徴

 4月13日と26日に投開票の行われた03年統一地方選挙は、イラク戦争と新型肺炎SARS報道の喧噪のただ中で行われた。
 選挙結果に示された今選挙の特徴は、@記録的な低投票率、A自称を含む「無党派」首長や議員の増加、B共産・社民両党に代表される戦後革新勢力の後退という3点に要約できるだろうと思う。
 記録的な低投票率は、結局のところ政治に対する民衆の期待の後退、「誰を選んでも変化が期待できない」といったある種のあきらめの反映だろうし、「無党派」首長や議員の増加は、この政治に対するあきらめが政党政治全般への不信と幻滅と連動していることを示すものであろう。
 こうした状況のもとで共産・社民両党が後退した事実は、革新勢力と呼ばれた戦後日本の左翼反対派が、政党政治への不信と幻滅という状況を突破できないだけでなく、むしろそうした政党離れ現象に一役かっていることを示唆している。
 しかし現実の日本社会は、政治と経済とを問わず大きな転換点にさしかかり、直面する困難な課題も多くある。にもかかわらず現実の政治に変化を期待できない状況があるとすれば、社会には様々な矛盾や歪みが沈殿物のように堆積されることになるだろう。そしてこの矛盾と歪みは、やがては政治的上部構造である政党に対する再編圧力となって顕在化することになるだろう。
 だとすれば階級的労働者は、03年統一地方選挙の諸結果から、明日の政治再編の傾向を示唆する様々な予兆を読み取るように努めなければならないと思われる。

●政党離れと「にわか無党派」

 政党政治への幻滅という現象は、前回99年にも現れた特徴がさらに強まったものということができる。ただし99年選挙での政党離れは、主要には自民党と社民党の都市部における特徴的な現象であり、保守系候補の「政党隠し」が目だったのに対して、公明党と共産党はむしろ議席を増加させ、とくに共産党は大きく躍進さえした。
 だが今回は、公明党支持票の強固さは相変わらずだったが、共産党は前半戦の県議選では152から110へ、政令市議選では120から104へと後退し、後半戦の市議選では90、東京区議選では16、町村議選で3議席を失った。前回の自民党や社民党と同様に、共産党もまた都市部での退潮が顕著である。
 宗派を母体にした閉鎖的集団が現世利益を追求する道具である公明党という特殊な政党は例外として、政策によって民衆の支持を獲得しようとする近代的政党への幻滅が、社会党消滅以降の政治的空白を埋めるように伸長してきた共産党にまで貫徹されたという意味では、この結果は歴史的画期であると言えるものである。
 だが他方では、こうした政党離れに代わる新潮流であるかのようにもて囃された「無党派」や「市民派」にも、多くの場合は「看板に偽りあり」という現実がある。
 与野党が同じ候補者を推薦する「相乗り」が政党政治の混迷を象徴するとしても、政党推薦を受けない候補が「無党派」として好感されたかのような一面的な評価は、小泉政権下で進行した「創造なき破壊」という政治の混乱を覆い隠すだけである。
 知事選を例にとれば、10都県の知事選のうち「相乗り」候補が「無党派」候補に敗れたのは神奈川県知事選だけだし、政党推薦を返上して当選した石原(東京)と増田(岩手)はかなり以前から政党や団体への根回しを進め、圧勝が確実視された段階での返上だったのは周知の事実である。
 さらに言えば、無党派や市民派を標榜した10都県知事候補の出自も、中央官僚経験者が7人で残りの3人も元国会議員であり、神奈川県知事に当選した松沢などは、かつては民主党の党首選に立候補したこともあるれっきとした政党人なのである。
 推薦返上などで話題づくりのうまい「にわか無党派」候補がもてはやされ、有力な対立候補が見当たらない状況が、史上最低の投票率を記録する大きな要因だったと言えるだろうし、日本社会の行く末を左右しかねない有事法制や個人情報保護などの重要な争点が、イラク戦争とSARS報道の陰に追いやられたことも、それに拍車をかけた。
 つまり有権者の多くは政党と政治家の、そしてマスコミまで一体となった「改革」をめぐる混乱と、自称無党派候補たちのごまかしに幻滅していたのである。

●「改革」反対派の共通基盤

 しかし政党の混乱と政治家の欺瞞、さらにマスコミのミスリードがあったにしても、歴史的な低投票率を記録した選挙で共産、社民両党が後退し、他方で石原のような「強いリーダーシップ」への幻想が人々を捉えつづけている現実は、われわれをもふくめた戦後日本の左派勢力に重要な主体的課題を突きつけたことも確かである。
 この主体的課題の核心は、55年体制下では曖昧にされてきた、あるいは「神学論争」と揶揄されるような観念的な政治争点を全面的に再検証し、今日の現実に即した争点を再構成することを通じて有効で説得的な対案を提示することである。
 もちろんこうした主体的課題が、ただちに克服されるわけではない。だが統一地方選挙の結果にひきつけて、この課題に応える道筋を見いだそうとすることは可能である。
 この政治争点の歴史的検証と有効な対案を構想する上で指摘できることは、小泉政権が推進する「構造改革」に対して、日本ではほとんど対案らしい対案が提起されてこなかったという現実である。

 当初よりはだいぶ色あせたとは言え、今なお小泉政権に対する高支持率の主要な要因でもある「構造改革」は、低迷する日本経済とは対照的に繁栄を謳歌していた90年代のアメリカ型経済をモデルに、日本社会の「グローバル(アメリカン)スタンダード」にもとづいた再編を意図していた。アメリカの新古典派経済学者との幅広い人脈をもち、手放しでアメリカ型経済を称賛する竹中が経済担当閣僚に抜擢されたことが、小泉改革の目標を端的に表していたのである。
 これに対する反対派が自民党実権派(いわゆる抵抗勢力)と共産・社民両党なのだが、この両者の対案は「小さな政府」に反対して「大きな政府」を擁護するとい点で共通するものである。そしてこの左右2つの反対派に共通する対案の土台には、戦後資本主義経済の好循環、つまり「右肩上がりの経済」を前提にした福祉国家の実現という同じ戦略的展望が横たわっているのである。
 つまり自民党実権派と共産・社民両党は、90年代の長期不況が日本社会の閉塞感を強め、まさにその圧力が「構造改革」への大衆的期待を醸成したにもかかわらず、前者は危機と破綻を先延ばしすることによって、後者は日本経済の現実を「大資本と労働者(市民)の対決」といった観念的図式に当てはめて、国家が民衆の豊かな生活を保障する福祉国家という戦略はなお有効であると主張し、その再編を意図する「構造改革」に抵抗を試みたと言えるのである。
 「対案らしい対案が提起されてはこなかった」と指摘したのは、この意味においてなのである。
 しかも福祉国家論は、社会保障にしろ経済対策にしろ、すべては国家が責任をもって実現すべきだという、国家への依存を良しとして民衆の自治や自己決定を軽視する傾向をはらんでもいる。それは言い換えれば、官僚機構が差配する行政機関が、上から恩恵的かつ代行的に社会保障や経済的利益を実現すべきであり、その官僚機構に命令できる多数派政党(政権党)は、選挙で民衆の白紙委任を受けた存在であるといった、自民党実権派が基盤とするボス支配に類似した旧い政治スタイルを共有しているとも言える。
 自民党実権派はそれでいいとしても、自治体首長や議会への白紙委任を拒否し、より徹底した民主主義や情報公開を要求する大衆運動が住民投票などで行政機関と対決しはじめている時代に、社会変革を唱える政党と左派勢力がこうした自らの曖昧さに無自覚なままでは、進歩的な社会運動や活動家たちを魅了できるはずもない。

●「構造改革」だけが選択肢か?

 グローバリゼーションに対応したアメリカ型資本主義への再編という「構造改革」路線は、当のアメリカ経済の挫折で再編後の姿に大きな不安が生じ、先行きの不透明感が増すことでほとんど破綻に瀕している。「創造なき破壊」という無残な現実は、期待されたモデルが期待どおりに機能しない小泉改革の破綻を象徴する。
 だが福祉国家という対案も、現実的で説得的な対案とは呼べなくなった。資本主義経済が今日の低迷を脱したとしても、「大きな政府」を永遠に維持するのは不可能なことが、物価下落(デフレ)を伴う景気後退(リセッション)という資本主義的法則が、なお健在であることの再確認を通じて明らかになったからである。
 こうして国際的には、福祉国家でもアメリカ的なグローバリゼーションでもない「新しい世界」の模索がはじまった。
 ところが日本ではこうした傾向はまったくの少数派にとどまり、その分だけグローバリゼーションに対応する「構造改革」が唯一の対案であるかのように喧伝され、抵抗を押し切って「改革」を推進する「強いリーダーシップ」への期待ばかりが幻想として膨らむ状況がつくり出された。
 それは共産・社民両党に代表される戦後日本の革新政党が、「新しい世界」を模索する国際的潮流とは断絶されたまま、冷戦時代の戦略からの転換をめぐって政治的混乱と組織的分解を繰り返し、他方では国際的動向に敏感に反応した市民的運動も、社会的対案の提起を個別的な課題(シングル・イシュー)に自制し、総合的対案の提起には消極的でありつづけてきた結果であろう。
 もちろんこうした両者の背景には、戦後日本の政治争点を規定した中国革命や朝鮮戦争をめぐる歴史的闘争があり、あるいは内ゲバに象徴される日本左翼運動のセクト主義への広範な憎悪といった負債もあるが、ここでそれを詳しく述べることはしない。
 ただようやく近年になって、公正な貿易と国際金融取引の民主的規制−何よりも世界銀行や国際通貨基金(IMF)といった国際金融機関と世界貿易機構(WTO)の透明性と民主的規制−を要求する世界社会フォーラム(WSF)などの運動が日本でも注目されはじめ、政党や左派勢力の中からもこれを積極的に評価し連携を求める動きが見られるようになった。
 資本主義経済の永遠の成長という戦後の神話が崩壊し、それとともに福祉国家の展望が現実的有効性を失い、アメリカン・スタンダードをモデルにした「構造改革」が唯一の対案とされてきた日本にも、国際的潮流を背景にした戦略的対案の基盤が客観的には準備されはじめたのである。
 この対案は、もちろん社会主義計画経済ではないし、正確には改良資本主義的な体系と呼べるものである。だが提出されている対案には、民衆の自治と自決の権利を擁護し、国際金融資本による無政府的利潤追求の民主的規制を求め、それを可能とする経済構造の転換も提示されている。
 例えば石化燃料の大量消費に替わる再生可能な自然エネルギーの活用や、中央統制の強い一元的経済に替わる地域の自立的再生産システムの構築などは、大衆自治と自己決定に基礎を置く新たな人間共同体の土台となる経済システムの可能性の提示であり、「構造改革」に対抗する具体的で現実的な選択肢といった性格を持ってもいる。
 こうして主体的課題の核心は、対案としての福祉国家(国家への依存を肯定する傾向も含めて)の破綻を確認し、グローバリゼーションに対抗する「新しい世界」の構想に積極的に呼応しようとする政党、党派、活動家を貫いた、「構造改革」に替わる対案を構想し行動する協働の成否に収斂されよう。
 そしてこうした協働の現実的基盤が、実は共産・社民両党の後退という統一地方選挙の結果のなかに潜んでいる。

●「新しい世界」との連携へ

 アメリカ型資本主義への再編という「構造改革」は、実際には小泉がはじめて挑んだのではなく、80年代後半に中曽根自民党政府のもとで始まったと言える。
 しかしイギリスのサッチャー保守党政権とアメリカのレーガン共和党政権と足並みをそろえたかのように見えた中曽根改革は、内需拡大の掛け声で促進された規制緩和で不動産バブルという思わぬ副作用を生み出し、構造改革の推進力は急速に失われた。史上空前の好景気が、政界と財界の危機感に冷水を浴びせたからである。
 結果として中曽根の構造改革は、アメリカ的なブルジョア二大政党制や「小さな政府」といった目標との関係では、中途半端な結果に終わらざるをえなかった。
 たしかに国鉄の分割民営化で国労(官公労)は甚大な打撃を受けて総評は解散に追い込まれたし、社会党も相次ぐ分裂で弱小政党へと転落した。だがアメリカ労働総同盟・産別会議(AFL-CIO)をモデルにしたナショナルセンター・連合の外側には、共産党系の全労連のほかにも国鉄闘争を軸にして左派勢力が結集する全労協が成立し、かろうじてだが社会党も社民党として存続しつづけた。
 以降の10年余、日本の政治と経済はこの中途半端な国家社会再編の結果として55年体制的な価値観やスタイルを引きずりつづけ、不況の長期化とともに社会の閉塞感だけが深まってきたと言えるだろう。
 こうした中途半端な状況の突破口が、小泉政権の登場であった。小泉の当初の指南役が中曽根であったことが象徴するように、小泉改革は、頓挫した中曽根改革を徹底的に推し進めようとする性格をもった。
 もちろん前述のように、1周遅れの小泉改革は先行モデルであるアメリカ型資本主義の挫折によって破綻に瀕しつつある。だが矢継ぎ早に推進された「痛みの伴う改革」、具体的には社会保障や公共サービスの相次ぐ削減や戦後労働法制の全面的改悪などが、連合、全労連、全労協が55年体制下の戦略を引きずりながら住み分ける、そんな三者鼎立時代に終止符を打つことになった。

 統一地方選挙で、社会党消滅後の空白を埋めるように躍進してきた共産党もピークアウトしたとすれば、それはこの党もまた引きずってきた福祉国家論にもとづく価値観や政治争点では、「構造改革」に対抗し難くなったことを意味するだろう。
 統一地方選挙の厳しい結果が、55年体制下で作られた政党や党派の枠組みを越えて、有意の活動家たちに広範な協働の必要という自覚を促し、その協働が客観的に準備されはじめた新しい対案のための基盤との結合を追求し始めるとき、「構造改革」に替わる対案が姿を現すことになるだろう。

  (さとう・ひでみ)


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