小泉改革の挫折で激化する
大量倒産・大量失業の攻撃
ー労働組合による生存権防衛の共同行動ー

(インターナショナルNo.124/2002年3月掲載)


●外相更迭劇と支持率の急落

 1月29日夜、アフガン復興会議からNGO(非政府組織)を排除した問題で、鈴木宗男・衆院議員運営委員長が外務省に不当な圧力を加えたことを暴露した田中真紀子外相が、首相官邸前で「首相自らが(私の)更迭と申されました」と語ったとき、回りを取りまく記者団からはどよめきがおきた。
 この問題での田中外相更迭はそれほど衝撃的であったが、それは自民党を変えると豪語してきた小泉政権の政治決着としては、あまりにもお粗末にすぎた。
 だから外相更迭「事件」を機に、これまでは小泉政権の高支持率に怖じけづき、明快な小泉路線の批判を控えていたと思われる新聞各社やテレビ各局は、いっせいに「真紀子は悪くない」(『AERA』2/11)といった小泉批判を展開しはじめ、直後の週末(2月2・3日)には各社がこぞって電話などによる緊急世論調査を実施したのである。
 周知のとおり、この世論調査の結果は小泉政権支持率の急落だった。朝日新聞社は「事件」直前の1月25・26日にも世論調査をおこなっていたが、その時の支持率は72%で昨年12月の調査とほぼ同じだったのが、2月2・3両日の調査では49%に急落、読売新聞の調査では昨年末の78%から47%に、毎日新聞では77%から53%に、日経新聞では昨年11月の78%から55%へと、軒並み23から31ポイントという急落ぶりであった。
 われわれは、こんなお粗末なドタバタ劇による支持率の急落までは予測しなかったが、小泉政権発足当初から、改革への大衆的期待は幻想に終わるだろうと指摘してきたし、田中更迭による支持率の急落は小泉人気の、ひいては小泉改革の転換点である。
 したがって階級的労働者は、小泉人気の急落によって予測される経済的政治的混迷と、これを基盤に現れるであろう混沌たる政治再編を見すえて、情勢に効果的に対抗すべく備えなければならないだろう。

●小泉改革のお寒い実態

 われわれが昨年4月、小泉改革への期待が幻想に終わるだろうと主張した理由は、なによりも小泉が、いわゆる構造改革を推進する物質的基盤を持ち得ていないだけでなく、その基盤を組織するには不可欠である戦略的展望や将来的ビジョンをまったく提起してはいないことにあった。
 というのも、グローバリゼーションの圧力によって強制される日本資本主義の国家社会再編は、第二次大戦後の世界資本主義の再生と繁栄を可能にしたシステム、つまり大量生産・大量消費・大量廃棄の経済的好循環が過剰生産(今流に言い換えれば過剰設備・過剰債務と需要不足)の壁に突き当たり、資本の利潤率が急速に低下したことでもたらされている以上、日本の政治と経済の構造的再編は、それなりに中長期的な展望に基づくことなしには困難だからである。
 しかも、すでに70年代後半に過剰生産に直面したヨーロッパとアメリカが、金融とサービスの自由化、つまり大量生産と販売量の拡大から、最新技術と新ビジネスモデルへの先行投資とセットになった金融投機、さらに国際的経済格差を利用した物流などで高い利潤率を確保する産業構造への転換をすすめたのに対して、80年代好況とその後のバブル景気に酔いしれていた日本資本主義は、こうした転換に大きく立ち遅れてもしまった。
 その意味で日本資本主義は今日、過剰債務の重圧にあえぐ日本的な大量生産・大量消費システムを解体的に再編し、かつ多国籍資本が激しく競い合う金融・サービス分野にかなり遅れて参入するという、二重の再編と転換に直面しているのである。
 これがグローバリゼーションが強制する構造改革であるなら、資本主義・日本の対応策は、国際競争力で相対的に劣る産業分野を強引に切り捨て、そこにある資本と労働を相対的優位な競争力をもつ産業分野により多く、かつ速やかに移動するための一貫した誘導政策であろう。それは大量生産・大量消費の経済を育成してきたこれまでの税制や財政金融政策を全面的に再検討し、新産業分野の育成を促進するように系統的に再構築することである。つまり小泉政権が「改革」として示すべき内容は、どの産業分野が切り捨ての対象となり、そこで生じる倒産や失業という「痛み」はどの程度なのか、また資本と労働を集中する産業分野はどこで成長率はどの程度か、だから雇用や税収の増加がどの程度見込めるか等々の見通しであり、それを実現するための諸政策なのである。
 ところがである。小泉の打ち出した「骨太の方針」や「経済白書」(平成13年度年次経済財政報告)に示された改革プランは、不良債権処理と特殊法人の統廃合を柱に、せいぜい都市再開発促進で地価バブルの再来を刺激する程度の、ありきたりで抽象的なものだったのである。しかも不良債権処理は、長期不況による増加の問題はあるにしろ、基本的にはバブル景気破綻のツケの清算であって、構造改革の前提条件ではあってもそれ自身は改革でもなんでもない。
 これでは、戦後保守政治の歴史的蓄積の上に立って、大量生産・大量消費の経済に対応して構築された政治支配システムをより小さな痛みで暫進的に転換しようとする保守実権派の路線、言い換えれば橋本政権で頓挫した行財政改革路線のドラスティックな転換とは言い難いのは明らかである。
 政権発足後10ケ月をへて、こうした小泉改革の実態が、田中外相更迭という「事件」を契機に、いまようやく公然と語られはじめたのである。

●小泉の陥る悪循環

 では今後、小泉政権とその改革路線はどのような運命をたどるだろうか。
 小泉政権の歴代自民党政権との最大の違いは、自民党内の基盤が極めて脆弱にもかかわらず、高支持率を支えにして自民党の保守実権派の意向を斟酌せずに自らの掲げた政策を推進することにあった。
 これまでの自民党政治は、党の各部会が政府提出法案を事前に検討して修正し、後は多数を占める国会で形式的審議を行って法案を成立させるものであった。そこではいかなる改革であれ、自民党の利益誘導システムに打撃を与える条項は事前に排除され骨抜きにされるのだが、この法案修正に威力を発揮するのがいわゆる族議員とその意向を汲んだ中央省庁の高級官僚であり、両者の合意は当然ながら密室でおこなわれてきた。
 小泉に対する大衆的期待は、この政治家と官僚の癒着構造を解体し、国家官僚機構と族議員たちの利権と化した公共事業や諸政策の決定システムの転換であった。ハンセン病訴訟の国側控訴断念という小泉の決断や、外務省官僚たちと公然とわたりあう田中外相を圧倒的に支持した世論は、こうした大衆的期待の証拠なのである。
 しかし外相更迭による支持率の急落は、自民党各部会の事前審査や抵抗を封じる小泉の手法の最大の支えを奪うことになる。だから小泉が自ら掲げた改革を実現するには、高支持率に代わる政権基盤を求めざるをえないのだが、小泉は自民党内に強い基盤をもたず、だからまた過去のしがらみに囚われない改革が可能だろうと期待されてきたのだ。
 こうして小泉は、自己の政策を進めたければ自民党内に基盤を求めざるをえず、それなしには改革もすすまないというジレンマに陥ることになる。もっとも前述した程度の政策を改革と喧伝し、「抵抗派もやがて改革に協力するでしょう」と能天気に言い放つ小泉のことだから、保守実権派を基盤にした改革も可能だと思っているのかもしれない。
 だがこれは、小泉政権の悪循環の始まりである。保守実権派に依拠する改革が大衆的不評に直面するのは明らかであり、それが支持率をさらに低下させ、この支持率の低下が小泉の保守実権派への依存をさらに強めるという悪循環が始まるのである。

●改革の混乱と政治再編の胎動

 ところで、前述した「最新技術と新ビジネスモデルへの先行投資とセットになった金融投機、さらに国際的経済格差を利用した物流などで高い利潤率を確保する産業構造」への転換は、日本が国際資本主義体制の一翼を担うかぎり不可避である。より高い利潤率を確保できる産業構造への転換は、小泉政権と保守実権派の混迷にもかかわらず、グローバリゼーションの圧力のもとで否応なく進展せざるをえないのである。
 戦後日本の経済成長を牽引してきた基幹産業部門でさえ、生産拠点の大規模な海外移転や人員削減に踏み切り、あるいは欧米資本との提携や合併すらが常態化しつつあることにそれは端的に示されている。問題は、こうした社会再編の加速する進展に対応する国家再編、つまり行財政や金融の再編と転換が、生活保守と分かち難く結びつき集積された権益という、戦後保守政治の歴史的基盤と激しく衝突し遅々として進まない、もしくは進められないことにある。小泉政権は、こうした歴史的基盤とは無縁で、過去のしがらみに囚われずに再編の大ナタをふるえるのではないかとの期待を担っているというかぎりで、繰り返し頓挫した国家社会再編を強引にすすめる「切り札」でもあった。
 つまり小泉改革の挫折は、新たな「改革勢力」の準備を保守実権派に突きつける。言い換えれば「日本発の国際金融危機」を回避しつつ国家再編を加速し、新たな資本主義的発展を切り開くような改革路線を推進できる政治勢力は、未成熟ではあれそれなりに戦略的に準備された勢力として見いだしうるのか、ということである。
 むしろ予測される事態は、こうした政治勢力を見いだせないことによって、日本資本主義は一層の経済的低迷に悩み、社会的閉塞状況が持続し、深く広範な政治的混迷が進行して、いわゆる「ガラガラポン」の政治再編の圧力がじりじりと高まりつづけるということではないだろうか。だとすれば日本資本主義は、さらに数年におよぶ経済的低迷とグローバリゼーションの圧力での下で、無秩序な社会的再編と国家再編がある種の痙攣的危機をともなって進行する、混乱した一時期に直面することにはならないだろうか。

●生存権防衛の共同行動

 だが階級的労働者にとってもうひとつ明白なことは、この日本資本主義の混迷に抗する準備された労働運動も、だからまた政治勢力も不在だという主体的現実である。
この主体的現実は、戦後日本の労働組合の圧倒的多数を占めてきた企業内労組が、グローバリゼーションの圧力のもとで促進された雇用形態や労働形態の急速な変化に対応できず、それこそ左派であると右派であるとを問わずに破産しつつある、その意味で日本労働運動の歴史的な衰退に根拠がある。闘争団を切り捨てて企業内労組に先祖返りした国労多数派の堕落も、基幹産業の企業内労組を基盤とするJC派イニシアチブが衰退して連合内の路線的分岐が顕在化しはじめているのも、企業内労組の左右両派を貫く破産の表現にほかならない。
 しかも圧倒的に男性である企業内正規雇用労働者を基盤とする企業内労組は、企業利害と一体化した労組機構の防衛のために、非正規雇用労働者や被解雇者に敵対するなど反動的役割を果たす可能性すらあることは、堕落した国労多数派の現実が示している。いわゆる「ガラガラポン」の政治再編という、保守派対改革派や左派対右派といった旧来的な構図の延長では予測できない根深い再編の圧力は、この労働戦線総体を貫く戦略的混迷の反映なのである。
 したがって階級的労働者は、経済と政治の混乱のうちに拡大し激化するであろう倒産や失業という労働者階級への攻撃に抗して、労働者が「健康で文化的な生活をする権利」の防衛のために、労働者のもっとも広範は統一戦線、つまり企業内労組の限界を克服しようとするあらゆる大衆的労働組合を基盤に、もっとも広範な共同行動のために闘う必要に迫られていると言えよう。
 もちろん社会的生存権はブルジョア民主主義的権利だが、それは戦後資本主義が大衆的レベルで常識化した進歩的権利であり、むしろグローバリゼーションの下で自助努力を口実に否定されようとさえしている。つまり社会的生存権をめぐる攻防は、グローバリゼーションを支持する国際ブルジョアジーと、これの民主的規制を要求する国際労働運動の対決の焦点でもあるのだ。

 小泉改革の挫折後、日本の労働者大衆は、80年代にアメリカ労働者が経験した「ダウンサイジング」に匹敵するような困難な一時期に直面するかもしれない。だがその「痛み」に耐えてなお、90年代アメリカのような繁栄が保障されるわけでもない。アメリカの好況を支えたITバブルは、9月のテロ事件以前に崩壊しつつあったのだ。
 だから階級的労働者は、この厳しい現実を直視し、日本労働運動の根本的再編と生存権の防衛のために闘うのである。

(きうち・たかし)


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