改革への期待が幻想におわるとき
日本政治の閉塞が生んだ 小泉新政権への高支持率


劇的勝利と驚異的支持率

 4月24日に行われた自民党総裁選で文字通り圧勝し、自民党の第20代総裁に選出された小泉純一郎・元厚生相は、26日の衆議院本会議で第87代総理大臣に指名され、同日夜には自民、公明、保守3党による小泉・新連立政権が発足した。
 「脱派閥で自民党を変える」「自民党を変えることで日本を変える」と声高に訴えた小泉は、世論調査で「首相にしたい国会議員」の常に上位に名のあがる田中真紀子・元環境庁長官の応援を得たこともあって、自民党各県連に3票づつ割り振られた「地方票」141票の実に87%に当たる123票(予備選得票率は58%)を獲得、24日の国会議員票を含む本選挙を待たずに勝負はついた。
 国会議員の数では小泉の97(森派、山崎派、加藤派)に対し、155(橋本派、堀内派)と圧倒的だった平成会(旧経世会)の橋本・元首相は、系列党員をフル動員して予備選に臨んだにもかかわらず10・6%の15票(予備選得票率は30%)しか獲得できず、本選挙では江藤・亀井派や無派閥などの92票も手にした小泉が298票で過半数を制したのに対し、橋本は155票と大差で敗退した。

 自民党政治の悪の権化と目されてきた「経世会支配」の劇的な敗北と、発足直後の小泉新政権の80%という驚異的な支持率を目の当たりにして、野党各党やマスコミには困惑の色が隠せない。もちろん過剰な期待が裏切られれば反動も大きいといった警告は左右をとわずに出されてはいるが、はたして小泉が自民党の一般党員や民衆の期待に応え得るか否かは、「しばらく様子をみよう」との空気が濃厚でもある。
 はたして小泉政権は、自民党を変え日本を変えることができるだろうか。

幻想の崩壊か、政党再編か

 われわれは、小泉への大衆的期待は幻想に終わるであろうと考えている。だがそれは、7月参院選での自民党の敗北を意味するわけではない。むしろ小泉の大衆的人気は、他の首相では不可避だった自民党の惨敗を回避して、一定程度の勝利を実現する可能性の方が高い。なぜなら、「旧経世会支配」の下で閉塞感に陥り、無党派化していた自民党支持層の多くが、小泉の唱える構造改革に最後の望みを託すように、自民党支持へと回帰するだろうからである。
 むしろ小泉に対する大衆的期待が裏切られるのは参院選以降、小泉改革の具体的内容が明らかになる過程で起きる自民党内外を貫く様々な抗争の激化を通じてなのであって、それまでの小泉政権は、支持率を徐々に低下させながらも、大衆的期待が持続する可能性が十分にある。
 ではなぜ、いまの段階で小泉への期待が幻想に終わると考えられるのか。
 第1の理由は、彼を押し上げた大衆的人気とは、今日の閉塞状況を招いた「経世会支配の自民党政治」への強い反発と、「何かを変えてくれそう」という素朴な気分だという点である。それは小泉自身がいかなる改革の構想を持っていようが、それを強力に推進する物資的基盤が無い、もしくは未形成であることを意味している。
 そして第2に、小泉の現実の物質的基盤である自民党の一般党員が、巷間いわれるように「国民と同じレベル」で改革を期待したとは言い難い点である。むしろ彼らは自民党が政権を失うことを何よりも恐れ、7月参院選の惨敗がその引き金になることに危機感を募らせて小泉総裁を選んだのだ。それはむしろ自民党が政権党であることで保障される既得権益を防衛するために、参院選で勝てそうな総裁・小泉という選択であり、政治利権防衛意識の現れでさえある。
 したがって小泉が具体的な改革に着手しようとすれば、「総論賛成・各論反対」の既得権益防衛勢力が、橋本派はむろん江藤・亀井派などの族議員と結んで猛然と反撃にでることは明白であり、党と国会における基盤の脆弱な小泉がこれを押し切ることは、とうてい不可能であろう。
 さらに第3は、こうした自民党内外の反抗を押し切って構造改革を推進するには、先に指摘した物質(組織)的基盤が不可欠だが、その形成に必要な戦略的展望の提起を、小泉がまったくしていない点である。つまり戦後の日本保守政治を継承してアメリカの政治と経済のキャッチアップ路線を断固として継続するのか、それともグローバリゼーションの時代に対応する外交や経済の中長期的ビジョンを示すのか、いずれにしてもその戦略的展望の提示がなければ、小泉は改革推進勢力を組織することができない。結果として小泉改革は絵空事に終わり、彼への大衆的期待は急速に失われる以外にはない。

 もちろん小泉には、大衆の期待をつなぎ止めるチャンスもある。それは彼が、小泉流改革を推進する物質的基盤を、自民党と民主党を貫く政党再編を通じて獲得しようとする場合である。もし小泉がこの選択をするなら、その最初の試金石は7月参院選を衆参同時選挙とすること、つまり解散・総選挙に打って出られるか否かになる。
 新政権の高支持率を背景にした解散・総選挙は、小泉の党内的勝利を国政選挙における勝利として拡大再生産し、利益誘導政治と一線を画す「改革の自民党」を売り出す千載一遇のチャンスである。しかも総選挙で自民党の党勢回復に成功すれば、小泉は改革推進勢力を形成する政党再編のイニシアチブをも手中にすることになる。
 いずれにしても、旧態依然たる利益誘導型政治にどっぷり浸かった自公保連立を基盤にしては、小泉のいかなる決断も斬進的手直しへと押し戻され、骨抜きにされ、「自民党を変える」ことさえできないことが明らかになるのは時間の問題である。

小泉改革の戦略的限界

 では小泉が、改革促進にむけて政党再編を選択した場合はどうなるのか。それは日本の国家社会再編に対応しようとする、本格的な政治的収斂の始まりとなろう。
 しかもこの政党再編は、90年代半ばに現れた旧来的政治・自民党政権の否定と破壊にとどまることはできず、政治理念はいうにおよばず、経済、税制、社会保障そして外交戦略にまでわたる、日本資本主義の国家戦略をめぐる全般的な抗争と再編のはじまりとなる可能性がある。日本の経済と政治の混迷は、すでにそこまで追いつけられつつあると言えるからである。
 したがってこの再編はある意味で激動の局面の始まりであり、小泉がこの局面を改革の旗手として泳ぎ切れるか否かは、先に指摘した戦略的展望の問題である。

 今日、日本の経済と政治が直面している混迷と危機は、戦後資本主義の歴史的転換にともなって、日本社会の再編成が急速に進展したことによって生じている。自民党政治や経世会支配と呼ばれる再配分システムの機能マヒは、家父長的伝統と利益誘導の結合とでも言える戦後日本の政治支配システムが、この社会的再編に対応できなくなったことの端的な現れなのである。
 その意味で、日本政治の再編と経済財政構造の転換と改革は不可避的だが、小泉の主張する構造改革は、郵政民営化論が端的に示すように、いわゆる新自由主義にもとづく市場至上型経済への転換と社会保障など公的負担を削減する小さな政府という、それ自身、すでに転換の必要性が繰り返し訴えられてきた改革の域を越えてはいない。
 しかも小泉の系譜と語録からは、田中派の経済拡大を批判した福田の緊縮財政の傾向や、岸、福田そして森と継承されてきた外交上の親台湾傾向が滲みでており、改憲や靖国公式参拝の発言も、かつては森も石原東京都知事と共に所属したタカ派議員団「青嵐会」の系譜を再確認させるものである。
 ところでこの小泉の政治信条は、社民党や共産党が主張する反動的で危険な傾向といったこと以上に、小泉改革の戦略的限界を暗示するものなのである。
 たしかにいま小泉の改革方針は、政権発足直後の先進7カ国経済蔵相会議(G7)での好意的反応が示すように、外圧という風を受けて好評である。だが「マイナス成長も覚悟した改革の推進」が世界経済に、とくにアメリカ経済に悪影響を及ぼしはじめたとき、G7は日本国内の景気回復優先を唱えて財政出動の拡大を要求しないだろうか。しかも外圧が小泉にとって逆風となるときは、小泉流改革にともなう副作用が、つまり建設業界を中心とした大量倒産と失業率の上昇が顕在化し、日本国内の大衆的不満という共鳴板を見いだして風速を増す可能性もある。
 橋本政権の財政再建行革が頓挫し、小渕政権の借金漬けと積極財政が歓迎されたシナリオである。しかも小泉の小さな政府が年金や社会保障の削減にまで手をつければ、それは民衆の将来的不安を助長し、戦後資本主義の経済成長に欠かせない個人消費の回復に冷水を浴びせるだろう。
 あるいはアメリカのブッシュ政権が対中国戦略を硬化させつつあることを背景に、親台湾傾向も当面は歓迎されるかもしれない。だが中国との外交的対決姿勢は、むしろ日本における新自由主義的構造改革の阻害要因となる可能性が強く、日中国交回復の立役者・田中角栄の娘というキャラクターを外相に据えておくだけでは、外交関係の悪化をごまかし続けるには限界がある。
 というのも対中関係の悪化は、賃金格差を最大限利用した中国での大量生産など、日本経済に組み込まれコストダウン構造に打撃をあたえ、不況下の日本では例外的にこの方法で好調を維持する流通・販売部門の経営を圧迫しかねないからである。
 こうして、驚異的な支持率とは必ずしも一致しない小泉の戦略的展望のあいまいさは、大衆的な小泉への期待が、幻想におわる可能性を強く示唆するのである。

民主主義拡大の対案を

 こうした国際的背景とあわせて、小泉人気のいまひとつの秘密は、石原東京都知事や田中長野県知事のように、世論の支持を背景にしたトップダウン方式で改革を進めることができそうだという点であろう。
 もっとも石原は、大衆的人気を利用しながらではあれ、東京都の官僚機構を巧みに操ることで目新しい政策を打ち出すのに対して、田中は、情報公開や住民対話など参加型民主主義の拡大を通じて県の官僚機構と対決し、新しい政策を進めようとするという大きな違いがある。
 小泉は、系譜と首相公選制などの主張から言えば石原型であると思われる。それは実際には、官僚たちの過去の失策が問われる問題では官僚を擁護し、むしろ抵抗勢力を強引にねじ伏せる決断をして「強い指導力」を官僚たちに印象づけ、その「権威」で官僚機構を操ろうとすることを意味している。石原都知事が、日の出の廃棄物処分場建設で土地収用を強行したようにである。
 ところでこの手法は、例えばいま大きな焦点となっている諌早湾干拓事業をめぐって、県の農政局に押しかけたり事業中止を求めて座り込む漁民たちを強制排除するなどの弾圧の可能性に結びつくが、小泉流改革とワンセットで現れるこうした社会問題への強権的対応は、小泉への幻想的期待の減退にどれほどの影響を与えるだろうか。「環境か経済か」といった二者択一で小泉が居直ったりすれば、案外と小泉支持が多数派になる可能性も否定はできない。
 だがそうだとすれば、ここに階級的労働者が小泉改革への幻想、とりわけトップダウンによる改革の限界と対峙する重要な課題があるように思われる。つまり漠然とした小泉改革に対して、自民党派閥政治と利益誘導を支えてきた制度的の欠陥の「改革」を小泉に突きつけ、官僚機構の情報公開、第三者機関による行政の監視と事業評価など、総じて民主主義の徹底と拡大とを、民衆の自己決定権や大衆自治の拡大と結んで要求するキャンペーンの展開である。
 それは小泉の大衆的人気に驚き、彼のタカ派的発言を旧来的な平和主義で批判する以上に、小泉に対する幻想を打ち破るのには効果的な対案ではないだろうか。

(さとう・ひでみ)


日本topへ HPtopへ