【沖縄県知事選】太田陣営敗北の本質
基地と経済を結ぶ構想と 公共事業依存型経済の落とし穴
稲嶺県政が直面する基地と経済の落とし穴


県内移設めぐる攻防

 11月15日に投票がおこなわれ即日開票された沖縄県知事選挙で、米軍普天間基地の県内移設に反対を唱えてきた大田昌秀知事は、沖縄県経営者協会など、県の財界がかつぎ出した稲嶺恵一氏(同協会特別顧問)に37,400票余りの大差で敗れ、三選を果たせなかった。選管の発表によれば稲嶺氏の得票は374,833票、対する大田知事の得票は337,369票で、当日の有権者総数939,545人に対する絶対得票率はそれぞれ39・89%と35・90%である。なお投票率は、前回94年の62・54%を14ポイント上回る76・54%であったが、これは過去8回の知事選のうち、大田氏が保守系現職の西銘氏を破って初当選を果たした90年選挙の76・78%につぐ5番目の投票率である。
 大田知事が普天間基地の県内移設に反対を表明して以降、経済振興策を話し合う「沖縄政策協議会」の不当なボイコットで応えてきた政府・自民党は、稲嶺氏の当選を一様に歓迎し、翌16日未明には沖縄担当大臣でもある野中官房長官が記者会見で、「新知事のもと、国と県が協力・連携して(問題解決に)取り組めると期待している」とエールを送り、さらに選挙から10日もたたぬ24日には、小渕首相自らが知事就任前の稲嶺氏と官邸で異例の会談を行って「必要なものがあれば誠心誠意、対応する」(11/25:朝日)と伝えるなど、稲嶺県政への全面的支援を表明した。
 他方、思わぬ大敗を喫した大田陣営は、選挙結果を厳しく受け止めながらも、すでに次の局面、とりわけ普天間基地の県内移設をめぐる新たな運動に目を向けはじめている。大田知事自身、選挙直後にも「私は県内に基地をつくるのは不可能だと思う」と重ねて県内移設が極めて難しいとの見解を表明したように、あるいは朝日新聞社と沖縄タイムス社が11月8、9日の両日に共同で実施した世論調査では、「グアムやハワイを含むアメリカ」(52%)と「日本本土」(13%)を合わせた「県外移設」の声が65%の多数を占めたことにも示されたように、知事選の隠れた、しかし本当の争点であった普天間基地の県内移設をめぐる攻防は、むしろこれから始まるのである。そして知事選直後から、県内移設反対の運動が活発化しはじめている。
 こうして、普天間基地の県北部への移設案をもって、政府・自民党との関係改善=協議の再開による「県政不況」の打開と経済振興を前面に押し出して当選した稲嶺新知事は、いわゆる「基地と経済」という最大のジレンマに、まさにこれから直面することになる。だが、本土では広く流布されまた多くの人々に信じられている「沖縄のジレンマと苦悩」は、少なくとも今回の知事選では、「基地と経済のジレンマ」をはらみながらも、むしろ深刻な不況や高い失業率を背景にして、「不況の時の自民党だのみ」といった、本土でも広く見られる利益誘導政治が色濃く滲みでていたように見える。

基地返還プログラムの弱点

 すでに広く知られているように、大田知事の対立候補となった稲嶺氏は、米軍基地の縮小・撤去を求める95年10月の県民総決起集会では大田知事と同じ壇上にたち、昨年全国各地で開催された沖縄の実情を訴える県主催事業でも講師を勤め「2015年までの基地撤去は県民の総意だ」と、沖縄県が打ち出した「基地返還アクションプログラム」への理解を訴えて歩くほどの「盟友」であった。この両者の蜜月を、知事選の対立候補へと変化させたのが「基地か経済か」という「沖縄の苦悩」だったと言うのが一般的な解説でもある。しかし選挙戦の実情は、「『最も理想に近い現実路線』を説く稲嶺氏と『現実に立脚した理念』を言う大田氏に、実のところ言われるほどの開きがあるわけではない」(10月30日:朝日)にもかかわらず、「反基地か経済か」の鮮明なレッテルだけが、あらゆるメディア技術を駆使する稲嶺陣営の戦術によって強く印象づけられることになった。
 実際に大田、稲嶺の両者の間には、基本政策においてそれほど大きな違いがあるとは思われない。前述の「基地返還プログラム」にもとづく政府との交渉が難航したとき、これを打開しようと県が設置した「産業・経済の振興と規制緩和等検討委員会」には稲嶺自身が委員として直接関与し、自らその報告書を大田知事に手渡している。つまり大田県政が提唱した「基地返還プログラム」という画期的な提言(なぜ画期的かは後述する)が、沖縄県の経済界をも巻き込んで作られた以上、大田、稲嶺の両者にとってそれが基本政策になるのは当然でもある。
 この大田県政が新たな分岐に直面したのは、名護市での住民投票が海上基地の受け入れを拒否し、大田知事が県内移設に反対の態度を鮮明にして以降である。住民投票という民主的手段によって明らかになった民意を、自治体の首長として大田知事が遵守しようとしたのはまったく当然のことだが、自民党政府はこれに対抗して沖縄政策協議会を一方的にボイコット、振興事業を停滞させるという兵糧攻めで「基地か経済か」という旧い選択肢を再び強引に持ち出した。そしてこれが、沖縄県の財界に強い危機感を呼び起こすことになったのである。「基地か経済か」という選択肢を「旧い」と指摘したのは、長期にわたった米軍の占領によって、基地の雇用や米軍支出に代わる経済基盤がほとんど見当たらないという条件のもとで、「基地が無ければ生活が成り立たない」人々が現に多く存在するという厳しい現実が前提だった施政権返還当時と、それから27年をへた現在の沖縄が、同じ条件下にあるわけではないからである。
 そしてより重要なことは、実は大田県政が打ち出した「基地返還プログラム」は、「基地か経済か」という旧来的な選択肢に抗して、「基地跡地を利用した国際都市の形成」という構想を媒介に、意識的かつ積極的に基地撤去の要求と経済振興策を結びつけ、その実現に協力するよう日米両国政府に迫る、その意味では旧来的な安保廃棄・基地撤去という戦後革新の枠を越えて、95−97年の沖縄の闘いの背骨をなす「画期的」な提言であったことである。もちろんこうした新たな構想の背景となっていたのは、「返還当時は2万人もいた基地労働者は現在7千9百人で全県就労人口の1・3%、県民総生産に占める基地経済の割合は30%から6%にまで減少し、81年に返還された北谷(ちゃたん)町の飛行場と射爆場跡地(62ha)の再開発事業は、4年間で土地の資産価値を30倍にし、数人の基地雇用に代わって1千人が働くショッピングセンターをつくりあげた」(本紙69号:96年3月)などの、沖縄経済の変容があった。沖縄の米軍基地は、いまや沖縄経済の振興にとっても阻害要因へと転化していたのである。
 だがしかし、大田県政によるこの画期的提言には、国際都市を実現するための膨大な資金のほとんどを全面的に本土政府の補助金に依存し、日本企業の誘致を促進する政治的優遇策に期待するという大きな弱点がはらまれてもいた。闘いの節目ごとに現れた大田知事の動揺は、この本土政府への依存のために必要とされる「政府との協調」への固執という弱点の反映だったのであり、そして最後にはこの弱点が、大田知事自身の三選を阻む落とし穴になった。

公共事業という麻薬

 1972年の施政権返還後、基地経済の減少をカバーして沖縄経済の支柱となってきたのは、「沖縄振興開発計画」にもとづく巨額の本土政府による財政援助と公共事業であり、「復帰特別措置」などによる各種の産業保護政策であった。施政権返還から98年度までに、本土政府がつぎ込んだ沖縄開発事業費は総額で5兆5773億円にのぼるが、うち92%を占める5兆1224億円が道路や港湾整備といった公共事業費である。この莫大な公共投資は、90年代に入っても沖縄県民総支出の12・4−15・5%を占め、全国平均の6・5−8・9%の倍ちかい高率で推移しており、公共事業の大半を占める建設投資事業を請け負う土木・建築業者は、74年の2100業者から、98年には5300業者にまで膨れ上がった。
 言葉は悪いが、本土政府は施政権の返還以降の沖縄を、海洋博などを契機に公共事業という「カンフル剤」を多用して「麻薬づけ」にし、米軍基地に対する沖縄民衆の不満や反感をマヒさせようとしてきたと言って過言ではない。したがって沖縄振興協議会のボイコットという自民党政府の対応は、公共事業に依存する建設業界、とくに業者の98%を占める資本金5千万円未満の中小零細業者には最も効果的で露骨な恫喝だったのである。かくして、バブル景気の崩壊によって各種リゾート建設プロジェクトが相次いで工事中断や計画の中止に追い込まれ、この苦境を乗り切るために公共事業を渇望する地元建設業界は、第二次大戦中は日本軍基地の建設を請け負い、戦後も米軍基地の建設を手掛け、施政権の返還後は巨額の公共事業を受注して「第二の県庁」とさえ呼ばれてきた、沖縄を代表するゼネコン=國場(こくば)組を中心に、大田知事の「盟友」稲嶺氏をかつぎ出し、公共事業獲得のために自民党政府との関係改善に躍起となったのである。
 基地用地の返還と跡地利用の国際都市構想という画期的提言も、本土政府が公共事業として推進してくれればこそ沖縄の建設業界も潤うのであって、大田県政と本土政府の交渉が停滞し、そのあおりで公共事業の凍結を招くとなれば、話は別である。「県政不況の打破」を旗印に、本音では公共事業の獲得を最優先する業界利害が色濃く滲み出た知事選が、大手広告代理店・電通の指揮の下で展開されたとき、「基地返還プログラム」が内包していた公共事業への依存体質が、大田知事の足元をすくうことになった。「大田では公共事業はとれない。流れを変えよう」というキャンペーンは、「基地返還プログラム」もまた本土政府による財政援助や公共事業への依存度の高い構想であった分だけ、「経済振興策が最大の争点」だとする選挙戦の流れに勢いをつけたからである。
 しかしだとすれば、今回の知事選に現れた投票行動は、景気対策の補助金を求め、政権党たる自民党の下請けと化した自治体首長を選んだと言える性格をもつのであって、稲嶺陣営の幹部も自ら「稲嶺が勝っても、本土が『沖縄は基地を認めた』と考えるのは間違いだ」(10/25朝日)と強調していたように、「基地か経済か」の選択とは少しばかり位相の異なる、旧態依然たる自民党的な利益誘導選挙が、経済的基盤の脆弱な不況下の沖縄において貫徹されたとは言えないだろか。

稲嶺県政のジレンマ

 だがこうして稲嶺県政は、米軍基地の撤去を求める沖縄民衆の多数派と、公共事業という政治利権を渇望する選挙基盤との板挟みというかたちで、「基地と経済の矛盾」というジレンマに直面する。稲嶺県政の最大の強みは、もちろん自民党政府の全面的バックアップを得て莫大な公共事業費の獲得が可能になったことだが、その強みも、日本経済全体を覆う深刻な不況という条件の下では、はたしてどれほど沖縄経済に有効性をもつかとなると、はなはだ心もとない。しかも沖縄経済の自立的成長のための「誘い水がほしい」という、かつて稲嶺氏自らが主張していた財政支援(97年5/15:朝日)とは裏腹に、これまでの27年間が現にそうだったように、沖縄経済の公共事業への依存体質を、だからまた本土政府への依存をさらに深める結果をもたらすだけであろう。
 他方で稲嶺県政の最大の弱点は、基地の整理・縮小と撤去を求める大衆的基盤との乖離である。この点でも稲嶺氏は、同じ97年5月の朝日新聞のインタビューで、沖縄が自立する上で一番大切なことは「沖縄の内部が割れないことだ」と答えているが、彼の今回の知事選への出馬は、その主観的意図はどうあれ米軍基地の撤去を求める大衆的基盤と、建設業界を中心とした政治利権獲得の要求を政治的な対立へと転化し、結果として「県民の総意」と自ら断言した2015年までの基地撤去という、「基地返還プログラム」に象徴された民衆の要求に分裂をもたらし、同時に米軍基地の整理・縮小を求める大衆的基盤と乖離することで、本土政府との交渉において、最も強力な援軍と推進力を自ら放棄してしまったことを意味するのである。それは沖縄本島北部地域への普天間代替え基地の建設予定地が具体化する過程で、激しい民衆の抵抗に直面することは、稲嶺自身が誰よりもよく予感しているのかもしれない。
 しかし沖縄民衆の、県内移設に対する激しい抵抗によって代替え基地の建設が遅れ、その分だけ普天間の返還も遅延することになれば、沖縄経済の振興にとって阻害要因となっている広大な基地用地の問題が、したがって基地の整理・縮小の要求が、改めて焦点化することもまた明らかである。そしてこのとき稲嶺県政は、日米両国政府に対して強い姿勢で交渉に臨むための後ろ盾、すなわち「県民の総意」を示す大衆的基盤との乖離を悔やむことになりはしないだろうか。
 もちろんこうした問題が顕在化するのは、まだ先のことである。だが沖縄民衆の米軍基地撤去の要求と闘いに連帯を表明してきた階級的労働者は、当面する県内移設反対運動への連帯闘争を組織しつつ、同時に大田県政の画期的提言の意義と共にその弱点と限界をも踏まえ、新たなイニシアチブを準備する闘いをはじめるだろう。

  (12月15日)


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