99統一地方選の示したもの
デマゴーグの登場と直接民主主義の要求
石原おしあげた没落する大衆の矛盾した心境


政党不信の2つの傾向

 小渕自民党政府成立後はじめての全国一斉選挙となった統一地方選挙は、前半戦の都道府県知事と道府県議会、政令市議会の各選挙の投票が4月11日に行われ、つづいて25日には市町村長と市町村議会、東京などの特別行政区議会の投票が行われた。
 詳しい数字は省略するが、選挙結果には前後半を通じて同様の傾向が現れた。それは政党別の勢力比では(1)自民党と社民党が大都市圏を中心に大幅に議席を減らし、(2)民主党は全般的に伸び悩み、(3)共産党と公明党が、とくに共産党は躍進と呼べる議席増を果たし、(4)「政党隠し」の保守系を含めてだが、無党派的な無所属議員の議席が大きく増加したことなどである。
 また共産党と無所属議員の増加とも関連して、共産党と無所属の女性候補がそれぞれ25人から56人へ、15人から30人へとほぼ倍増し、市町村議会との比較では女性議員の割合が少なかった道府県議でも女性議員は1・7倍に増加(79人から136人)し、さらに無所属の新人立候補者数とその当選者数も増加したことなどである。
 こうした傾向は、一般に「政党政治への不信」として、いわゆる新無党派層の増大との関連で解説されている。もちろんそれは、選挙のたびに現れる政党への拒絶反応や低い投票率といった事態のひとつの側面を言い当ててはいるが、99統一地方選で示されたのは、無党派層の動向と言うよりも、この層を含めた「政党不信」の拡大が、端緒的にだが、はっきりとした二つの傾向を示しはじめたように思われるのである。
 この傾向は、ひとつは「強いリーダーへの憧れ」と言われる傾向であり、他方は、なお個別政策をめぐってだが、政策決定過程への直接的関与を求める傾向と言えよう。あえて言い換えれば、「より強い者への依存」傾向と、自らの運命を自ら決める「自立と自治」の傾向である。前者を象徴するのが東京都知事選での石原慎太郎の圧勝であり、後者は、いまだ部分的で萌芽的ではあるが、96年以降の住民投票運動の広がりを継承した徳島市議選である。
 もちろん後者の例は、全国政治と全国的政治勢力の形勢といった観点からは、たしかに「例外的」である。だから徳島市議選に様々な思い入れを詰め込む象徴化は厳に謹まねばならないが、各地に広がった住民投票の流れの中でこれを位置づけたとき、そこには首長や議員に「白紙委任状」を与えると考えられてきた議会制民主主義に対する、だからまた白紙委任された議会や行政が身勝手に政治を決める代行民主主義に対して、「直接民主主義」という労働者民衆が対置すべき対案の萌芽が内包されていると思われるのである。
 以下ではこの視点から、99年統一地方選挙を振り返ってみることにしたい。

青島都政と無党派層の挫折

 石原の東京都知事選での圧勝は、すでにあらゆるところで指摘されているように、強いリーダーシップあるいは実行力への、大衆的期待の反映という性格をもっている。それは大衆的不信の標的となっていた談合政治を批判し、無党派層の圧倒的支持を受けて都知事に当選した青島が、結局は東京都の官僚政治に飲み込まれ、バブルのつけであった都市博の中止を決めた以外は、都政に変化らしい変化を何ももたらすことができなかったことと表裏の関係にある。
 しかし青島都政の挫折と堕落は、彼が国会で所属してきた参院二院クラブに象徴される戦後日本の「良心的議会主義」とでも言える、55年体制下ではそれなりに進歩的だった政治的立場が、日本帝国主義の国家社会再編が本格化する今日の局面では、ますます無力であることを明らかにしたのである。
 95年都知事選での青島の当選は、「改革か守旧か」という当時の争点と深く関係していた。青島は毎回の「クリーン選挙」や自民党金権政治に対する辛辣な批判者として、まさに良心的議会主義による「改革の旗手」を演じてきた政治家であり、「改革」を標榜する政党間の馴れ合いによる官僚候補の擁立に不信を抱く無党派層にとって、その批判的意志を体現する候補者であった。だが他方で良心的議会主義は、政治を議会内に限定し、議会内外を貫く大衆的で社会的な諸運動のダイナミックな相互関係の中に真の力関係を見い出そうとはしないという意味で、選挙を白紙委任状と考える代行的民主主義の最も断固たる擁護者でもある。それは利権や談合の政治に対する議会内批判勢力ではありえても、社会的諸勢力の錯綜した利害を反映する行政や議会の構造と基盤を解明し、これに対抗する大衆的で社会的な諸運動の圧力や直接請求を組織し、これに依拠して行政や議会の「改革」を促進するイニシアチブとはなり得なかったのも当然であった。
 だがこうして青島を知事に押し上げ、しかしその「リーダーシップの欠如」に幻滅せざるをえなかった無党派層は、星雲状の政治的には未定形な状態に押し戻され、その多くは政党色の薄い「無所属」候補の支持と棄権へと分散した。つまり石原の圧勝は、無党派層の27%を獲得したとは言え、自民党支持層の41%と民主党支持層の20%に支えられていたのである。前回は青島に投票し今回は石原に投票した無党派層は、わずかに8%強である。では青島の、良心的議会主義にもとづく「改革」を支持した無党派層の挫折を受けて、「強いリーダー」を期待される石原の役割とは何であろうか。

デマゴギスト・石原の役割

 石原を都知事に押し上げたのは、「強いリーダーシップ」への期待である。だが階級的労働者に必要とされているのは、この「大衆的期待」がどのような社会的基盤を持ち、それがどのような民衆の意識構造と結びついているのかを解明することであろう。
 端的に言って、石原圧勝の大衆的基盤はアトム化された大衆の無力感の裏返し、つまり企業社会であれ地域社会であれ、旧来的な社会的集団への帰属意識の解体が大規模に進行し、その過程で個別化され無力化された大衆が、「強いリーダーシップ」で現状を一挙に変えてほしいと期待する、ある種の救世主願望と言える。その背景は言うまでもなく、不況と将来的不安の増大による大衆的な閉塞感と自信喪失であり、これに対する既成政党と官僚の旧態依然たる政治と無能、あるいは裏切りに対する不信と不満である。
 アジア諸国はもとより、欧米諸国でも「極右ナショナリスト」と評される石原は、『NOと言える日本』の筆者であることが示すように、戦後日本政治の主流である自民党政治を激しく非難し、それを公言してはばからない国会議員としての経歴をもつが、それは現在のような閉塞状況下で、個別化されて無力化された大衆的願望を吸収する、歴史的に準備されたブルジョア政治家でもある。
 周知のように石原は、戦後日本の高度経済成長時代に先駆け、青年世代の欲望や不満を公然と肯定し、弟の裕次郎と共に、功利的個人主義と物欲の追求を賛美する小説や映画で一世を風靡した、山下汽船の大番頭(つまり戦前からのブルジョアジーと縁戚関係にある裕福な家系)の子息である。つまり石原は、戦前からの保守政治家の系譜に連なりながら、この系譜にはとどまらない戦後日本の高度経済成長の寵児でもあった。したがって石原のナショナリズムは、自民党が体現する戦後保守政治とは異質な趣をもち、しかし他方では高度経済成長を自画自賛する傲慢なブルジョア的価値観を体現するものなのである。過去の「日本的美徳や伝統」を嘲笑し、「近代的自我」つまり功利的個人主義を称賛し、経済大国・日本の傲慢さを剥き出しにしたアメリカ批判や中国蔑視を隠そうともしない石原は、たしかに自民党保守政治家としては「トリック的」に見えるとしても、戦争責任という歴史的負債から切断され、他方では経済大国・日本の繁栄に「滅私奉公」する伝統的意識を継承もしていた企業戦士、つまりアジアから隔離された日本の経済成長に同化してきた多くの労働者大衆や個人経営者にとって、自らの信条を代弁するものでもあった。
 なぜなら、戦後日本の保守政治を旧来的伝統もろともこき下ろし、他方では高度経済成長と功利的個人主義を称賛してその傲慢さを顧みない石原の言動こそは、自民党政治への不信と、だがその下で達成された過去の栄光への固執という矛盾した信条を満足させるデマゴギーだからである。つい数年前は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称賛された日本経済の担い手を自負してきた企業戦士や個人経営者にとって、不況とリストラによる彼らの没落を「構造改革に伴う痛み」と称して是認する自民党政治(議会)や官僚(行政)は理不尽なものだが、そうした議会や行政の下で達成された経済大国という過去の栄光は、彼ら自身の栄達やプライドとも分かち難く結びついており、だからその全面的な否定は、いわば彼らの人生全体の否定的評価に直結しかねない、そうした解き難い矛盾でもある。それは企業社会の必要によって没落を強いられながら、最後まで「愛社精神」に固執し、企業社会への帰属意識に囚われた諌言と憤死へと追い詰められたブリヂストンの元管理職者の意識構造にも通底する、やり場のない憤りや不信なのである。
 つまり石原への期待とは、相互扶助が解体された地域社会や、終身の生活保障を期待した企業社会に裏切られてアトム化された大衆が、自立的個人の連帯と団結の力で自らの運命を切り開く社会的運動が脆弱であるがために、あるいは企業社会に代わる労働者の自立的連帯に向かう契機となる「自省」の機会を持てなかったことによって、政治や資本の裏切りに抗しえない自らの無力を、強いリーダーへの期待を表明することで慰めようとした選択であった。
 では石原は、この没落する労働者や個人経営者を基盤とするファシストなのだろうか。否である。ファシズムは帝国主義の強化を求める反革命大衆運動だが、石原にはこうした大衆運動を組織する能力も、そしておそらく意志もない。石原は大言壮語の饒舌の徒ではあっても、だから小説や映画という虚構の世界では英雄になり得ても、現実の荒々しい社会的諸関係に立ち向かい、それを通じて鍛え上げられた政治家ではないからである。都知事としての石原は、官僚機構自らがその延命のために大衆に迎合して決定する「改革」を自分の成果として宣伝する以外には、結局は何ひとつ改革らしい改革も実現することはできないだろう。
 にもかかわらず石原は、そのデマゴギーによって、今後も日本帝国主義の国家・社会再編の進展が没落を強いる労働者大衆の意識の中に、労働者的政治勢力を含む政党と、労働組合を含む官僚機構への反感を煽る誇大妄想的な幻想を吹き込み、階級闘争にかかわる政治的混乱を植えつける。これこそが彼の客観的役割である。それは労働者大衆の自省を阻む目眩ましとなり、自発的な社会的運動への参加を妨害し、雑多で混乱した反動的な社会運動の登場を助長し、資本主義の危機に抗した労働者の階級的反乱を敵視する大衆的憤激の基盤を準備するのである。

住民投票と直接民主主義

 都知事選に現れた傾向に対置するものとして徳島市議選を挙げるのは、あらかじめ断ったようにかなり不釣り合いではある。
 しかし今回の徳島市議選は、96年8月の新潟県巻町での原発建設の是非と問う住民投票を皮切りに、以降も沖縄県と同宜野湾市で、岐阜県御嵩町で、あるいは神戸での住民投票要求運動の盛り上がりなど、地域住民が国や自治体の政策に対して、直接その意志を表明する機会を要求する運動の全国的広がりの延長上にあった。
 ご承知の方も多いだろうが、徳島市議選の前哨戦は、吉野川の第十堰を破壊して新しい可動堰を建設する公共事業をめぐる住民投票の要求であった。詳しい経過は省くが、徳島市議会は2月8日、有権者の49%にも達する10万人以上の署名を添えて提出された住民投票条例制定の直接請求をあっさりと否決、例によって〃白紙委任を受けた議会〃が、巨大公共事業の是非を住民が直接判断しようとする機会を、「議会制民主主義に反する」として葬ろうとしたのである。
 そして迎えた市議選は、この運動の中心となってきた「住民投票の会」が「住民投票に賛成する現職と新人候補の応援」を市議選の指針として決め、「住民投票を実現する市民ネットワーク」も候補を擁立したことで、住民による直接投票という、いわば「直接民主主義」の是非を公然たる争点にして争われることになった。結果は、住民投票賛成派22人が当選して定数40の過半を制し、投票2日後の27日には関谷建設大臣が記者会見で、「住民投票で反対が過半数を占めれば、可動堰建設は中止する」と表明したのである。
 もちろんこれで可動堰建設の中止が決まったわけではないし、各地に広がる住民投票も、まだ個別の政策に対する意思表示の要求にとどまり、その意味では政策の総合性を問う議会選挙や首長選挙を補完する性格をもってもいる。しかも徳島市では住民投票の攻防が市議選直前にあり、この時間的接近が住民投票賛成派に有利に作用したこともあろう。だがやはりそこには、議会や首長選挙における投票率の低下傾向と無党派層の増加とは対照的な、代行主義と談合に覆われた現在の政治に対して、大衆自らの意思表示の強い要求が秘められているだろう。
 少なくとも議会や首長選挙が、以降何年にもわたる白紙委任ではなく、民衆にとって関わりが深いと考えられる個別の政策では、大衆的な直接の意思表示は当然とする考えが、かなり広範に支持されはじめていることを示すものである。そこには、戦後日本の代行民主主義の「機能不全」に対して、直接民主主義の要求がひとつの突破口として支持されはじめていることが示されているとは言えないだろうか。石原を都知事に押し上げた「無力化された個人の救世主願望」とは対照的に、地域の社会的問題に労働者民衆が自発的に関わり、それを地方議会を「変える」ことに結実させた徳島市の例は、こうした意味で注目に値すると思われるのである。

虹と緑の500人リスト

 最後に、いわゆる無所属市民派が初めて全国的なネットワークを形成して統一地方選挙に挑んだ「虹と緑の500人リスト」(以下:「虹と緑」)の健闘ぶりと、選挙後の構想である「政策情報センター」の課題や可能性について、ごく簡単に触れておきたい。
 「虹と緑」に名前を連ねて今回の統一地方選挙に挑んだ現職と新人候補者は、前後半を通じて226人で、うち当選者は都府県議8人、市・区議92人、町村議31人、首長2人の計133人であった。今回は非改選のリスト搭載者51人と合わせれば、「虹と緑」の地方議員の総数は184人となり、改選前との比較では、現職は約20名が落選したが新人候補が約40名当選し、およそ20議席の増加である。また全国で4千4百とも言われる共産党の地方議員とは比較にならないとしても、民主党の379議席、社民党の319議席と比べれば、地方議員団勢力としてはすでに極少数派とはいえない議席数と言える。それは70年代に社共とは区別された革新・無所属地方議員の全国的結集体として組織され、その後分解した革新議員連盟以来、久々に登場した無所属地方議員の全国ネットワークでもある。
 しかし「虹と緑」の基本政策や政治的合意は、その担い手たちの間でも判然としない部分が多い。革無の「反戦平和」が「エコロジー」に代わったということでも、もちろんない。むしろ「虹と緑」は、地域の市民運動や住民運動を基盤に、具体的には情報公開や市民オンブズマン、そして前述した住民投票などの運動とそれへの大衆的共感を基盤にして、「地域から(地方から)日本の政治を変える」ことと、「ラディカル民主主義(民主主義の徹底)」を共通項に結集した地方議員たち、とでも呼べる議員集団である。あえて言えば、政治不信を助長し、新無党派層を生み出している現在の代行的民主主義に対して、地方議会と地域という身近な回路を通じた、民衆の自発的て直接的な政治への関わりを支持し、そうした運動の全国的連携のうちに政治を変える可能性を見いだそうとする、そうした運動そのものと言えるかもしれない。
 それは当然にも政治的には未定形で、国政について、とくに外交政策についての合意は難題であろう。しかしまただからこそ、そのシンクタンクとして期待される「政策情報センター」形成とそこでの研究や論議が、「虹と緑」の将来を展望するうえで重要さを増す。当面それは184人の地方議員から始まることになろうが、誤解をおそれず大胆に言えば、共産党のみならず社民党や民主党の一部をも巻き込むような、広範な議論のイニシアチブ装置としての機能をもつ政策研究会として構想されることが望ましいだろう。
 なぜなら日本帝国主義の国家社会再編に連動して、政治再編はなお流動をつづけており、今回の統一地方選挙は、そうした流動を再編するイニシアチブは、なお登場していないことを示したからである。

(きうち・たかし)


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