普天間基地の移設反対!候補地抜き打ち決定糾弾
あらゆる可能性を追求する日本本土の沖縄連帯闘争を
本土政府と稲嶺県政を包囲する多様な戦線の構築へ


姑息な抜き打ち決定

 沖縄県は11月22日午前、米軍普天間飛行場の県内移設先候補地を名護市の辺野古地区沿岸、米軍キャンプ・シュワブ水域と決定、同日午後には稲嶺知事が県庁で記者会見してこれを正式に発表した。
 普天間基地の「県内移設受け入れ」そのものは、10月15日の沖縄県議会で「県内移設決議」が強引に可決されたことを受けて、すでに11月19日に東京の首相官邸で開かれた沖縄政策協議会の席上、稲嶺知事自らが公式に表明していたし、その移設先候補地も事実上はキャンプ・シュワブ水域に絞り込まれてはいたが、その公式発表は当初、24日に稲嶺知事が記者会見で表明し、午後には名護市の岸本市長を直接訪問して受け入れを要請するとの情報がマスメディアなどで流されていた。したがって「ヘリ基地反対協議会」(反対協)などの県内移設に反対する勢力は、22日からの県庁前での座り込みやハンスト、24日当日には名護市役所前での集会などを計画し、97年の住民投票で示された基地受け入れ反対の住民意志を踏まえ、岸本市長に基地の受け入れ拒否を迫ると同時に、稲嶺知事をも追及する行動などを準備、22日当日も名護市内で街頭宣伝を行っていた。
 ところが22日午前10時すぎ、稲嶺知事から岸本市長のもとに「移設先として名護市を選定し、その説明とお願いのために石川副知事を派遣したのでよろしく」との電話があり、岸本市長は「当然、知事がくると考えていたが、副知事がすでに向かっているなら止むをえない」と、11時過ぎに"お忍び"で名護市を来訪した石川副知事と会い、「十分に検討し返答する」と即答は避けたものの、正式な要請文を受け取ったと言う。要するに稲嶺は、県内移設反対運動による追及を恐れ、自らは地元を訪れることもなく部下を矢面に立ててその陰に隠れ、2000年の沖縄サミットを控えた政府・自民党の「年内決着」という強い要望に沿うために、移設先候補地の"抜き打ち決定"を仕組んだのである。
 だがこの稲嶺の対応は、候補地とされた地元住民には何らの説明責任も果たすことなく、またもや住民の意向をまったく反映しない密室でのやり取りだけで候補地選定を強行したことによって、キャンプ・シュワブ水域への普天間基地の移設が地元民衆の意志に反したものであることを、稲嶺県政自身が白状したも同様だろう。

怒り、悔しさから反撃へ

 急を聞いて、県庁前ハンストの予定も急遽中止するなどして名護市役所前に集まった反対派の人々の間からは、この姑息で卑劣な稲嶺の対応に対する激しい非難の声が次々と挙がったのは当然であった。
 「こんな一大事を電話一本、副知事派遣で済まそうとするのは、あまりに屈辱的。要請を受けた市長も市長だ」(反対協・中村事務局長)。「また密室政治、知らないところで決めようとしている」。「まるでこそ泥」。そして「知事が24日に来るのに合わせて、戦争体験を知事に直接伝えたいと言う地元のおばあちゃんたちを市役所に連れて来ようと、30人乗りのバスまで予約したのに、どこまでわれわれをだますのか」という「二見以北10区の会」の涙ながらの訴えは、市役所前で緊急の抗議集会を開いていた人々から大きな共感を得たのだった。
 稲嶺の騙し討ちは、たしかに24日に焦点を絞って運動の盛り上がりを図ってきた反対派にとっては、苦い挫折感と悔しさを味わうものにはなった。だが、住民投票で基地受け入れ拒否の意思表示をした地元住民との対話どころか、基地の県内移設に反対を唱えてきた反対運動との正々堂々たる対決も回避し、まさに密室に逃げ込むことに終始した稲嶺の選択はむしろ新しい怒りを生み、名護市役所前での抗議集会でも「闘いはこれから」が新しい合言葉になった。
 しかも稲嶺は、自ら逃げの姿勢を見せたことで、知事選で公約に掲げた「基地の整理・縮小」や「15年の基地使用期限」が、実はきわめて根拠の乏しいものではないかとの県民の疑惑を増幅させることになるだろうし、なによりも95年10月以降、島ぐるみの闘いを背景にした大田県政が政府・自民党や防衛施設庁と堂々と渡り合い、日米両政府をじりじりと追い詰め、後に「同等の機能をもつ代替基地の建設」という不当な米軍の条件に押し切られる結果になったとは言え、96年4月に普天間基地返還の合意を実現したという、まだ生々しく残る記憶と今回の稲嶺の醜態との落差を、復権しはじめている沖縄のアイデンティテーをも背景に、いやおうなく実感することになるだろう。
 したがって、普天間基地の県内移設反対の闘いは、まさにこれから沖縄全島に戦線を広げつつ始まると言って過言ではないし、そうであれば、日本本土で沖縄の反基地闘争に心を寄せるすべての階級的労働者は、沖縄県による候補地選定という事実を踏まえて、新たな沖縄連帯闘争のための闘いに踏み出さなければならないだろう。

稲嶺県政のジレンマを撃つ

 日本本土における沖縄連帯闘争の新たな展望を考えるうえで重要なことは、在沖縄米軍基地の縮小・撤去という沖縄民衆の悲願に実践的に応えるために、日米両国政府に対する圧力となるあらゆる運動、あらゆる勢力との連携、そしてあらゆる可能性を追求することである。
 その意味では、独自の部隊をほとんど持たない幽霊師団・第3海兵師団の撤退という要求は
【本紙74号参照】、今後も最も重視されるべき要求であることは疑いないが、実は辺野古沿岸域という候補地が、2つの点で大きな矛盾と障害をはらんでいることに注目することも、本土における新たな展望と戦線の拡大にとって無駄ではないだろう。
 そのひとつは、稲嶺を知事にかつぎ上げた沖縄県最大のゼネコン・國場組を中心とした土建業界勢力との関係で、基地建設の工法をめぐる問題があり、もうひとつは、国際的な環境保護派の圧力もあって、沖縄県自身が昨年2月に策定した「自然環境の保全に関する指針」との関係である。
 前者の、建設工法をめぐる問題は96年9月、当時の首相であった橋本が、沖縄米軍基地の返還問題を協議していた日米特別行動委員会の最終報告を目前にして自ら沖縄に乗り込み、「自然破壊につながらず、撤去可能な海上ヘリポート案」としてメガフロート式の代替基地建設案を華々しく披瀝し【本紙76号参照】、本土政府と沖縄県が法廷で争う「異常事態」の決着を図った経緯と、稲嶺の選出母体である県の土建業界が期待しているであろう「巨大土木事業特需」との間によこたわるジレンマである。
 辺野古沿岸域を候補地に選定した稲嶺県政が、埋め立て方式、杭式桟橋方式、メガフロート(超大型浮体式海洋構造物)方式の各工法を決定しないのは、もちろん地元自治体である名護市の意向に可能な限り応えようとする配慮もあるが、工法の決定がはらむ「土木利権」と「メガフロート利権」の確執は、沖縄県の土建業界の特需の期待と、鉄鋼や造船重機といった本土の独占資本の特需期待という、熾烈な利権争奪戦を内包しているからに他ならない。もし仮に、稲嶺が県の建設業界の期待に応えられないメガフロート式を選択した場合、特需を期待した、とくに不況下で経営難にあえぐ中小零細の土建業者が、どこまで県内移設賛成派としてとどまるかは、予断を許さない事態になる可能性もある。しかも、現に本土政府にいいように操られている稲嶺は、本当に体を張って地元業界の期待に応えられるのだろうか。工法の決定もまた、稲嶺にとっては「苦汁の決断」になりかねないジレンマなのである。
 そして後者の「自然環境の保全に関する指針」の問題は、候補地に選定された「キャンプ・シュワブ水域辺野古沿岸域」が、この指針によって、「自然環境の厳正な保護・保全を図る区域」(評価ランクT)に指定されており、埋め立て方式の陸域も「自然環境の保全と調和を図る区域」(同V)に指定されていることである。
 稲嶺はこの問題に関して、移設先を正式に発表した22日の記者会見でも、「自然環境保全の最も高い区分にある地域だが」との記者の質問に対して、「政府には配慮を要望している」と弱々しく答えただけで、辺野古への基地移設の決断が「沖縄が自らの意志と責任を示すことによって、基地問題解決に向けた将来展望を切り開くことにもつながる」(11・23:朝日)という自らの発言とは裏腹な、まったくの没主体性を暴露したのである。そして環境保護運動の国際的広がりや影響力は、いまや無視しがたいものであることは言うまでもない。

 沖縄米軍基地の全面的な撤去は、アメリカ帝国主義のアジア戦略の転換なしには実現しないとの主張は、もちろん本質的で正しいものである。だが日本本土の階級的労働者は、沖縄米軍基地の政治的軍事的意義を強調し、反戦平和運動の高い理想から沖縄民衆の基地撤去・県内移設反対運動に連帯しようとするあまり、沖縄民衆の切実な、日常的な苦痛を軽視する傾向を、繰り返し厳しく戒めなければならない。なぜならそれこそが95年10月以降、一人の少女に対する米兵の強姦という事件を契機に、日本本土の民衆にも突きつけられた〃沖縄の苛立ち〃であり、本土の労働者・民衆に対する〃不信〃の根拠でもありつづけているからである。
 そうであればあらゆる可能性を、つまり環境保護運動との連携も、政治利権を与党攻撃の格好の材料と考える議会内野党との大胆な連携も、そしてもちろん利権政治に憤る大衆的な政治不信との連携をも追求するような、普天間基地の撤去と県内移設の阻止を闘う日本本土の沖縄連帯闘争が、沖縄で本格化する普天間基地移設反対運動にとって有力な援軍となりうるだろう       

 (T・K)


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