社会再編と政党嫌悪率に脅かされる自民党の苦戦
●森政権の誕生と解散・総選挙のゆくえ●
民主主義感覚の欠如
小渕首相が脳梗塞で倒れた。本当の病状はいまも判然としない。
すべては、「政治改革バーゲン」の時代に旧弊として非難された、国対政治と呼ばれる政党ボスたちによる談合に委ねられ、自民・公明・保守3党連立という政治力学にもとづく円滑な権力の継承という本音と、ブルジョア代議制といえども保障されるべき情報公開などの建前が、だれの目にも明らかな矛盾と分裂を露呈した。
小渕の病状に関する医師や病院の正式な発表もなしに、どうして専門外の官房長官ごときが「職務をまっとうできない」と勝手に断じることができるのか、だとすれば青木官房長官の首相臨時代理就任はどんな法的な根拠をもちうるのか、だからその青木が決めた内閣総辞職は形式的な合法性もが疑われてしかるべきではないのか。青木官房長官の説明は二転三転し、談合に関与した政党幹部の説明もあちこちで食い違った。
こうした事態は、所詮はブルジョア議会主義だからデタラメなのだ、ではすまない問題なのである。なぜなら、こうしたデタラメのひとつひとつの積み重ねが、あるいはそうしたデタラメに対する野党やマスメディアを含めた、具体的な追及をともなう批判の欠如が、談合政治や国対政治といった旧態依然たる代行主義を生きながらえさせ、それを温床として、直接請求や住民投票を「民主主義の誤作動」などと罵倒する、時代錯誤な政治屋たちを再生産するからである。
だから少なくとも民主党、社民党、共産党などの野党は、小渕の主治医の公開会見なり喚問を青木臨時代理に一致して要求して当然であり、マスメディアもまたありきたりの密室政治をもっともらしく批判する前に、小渕の入院が判明した時点で医師の会見を要求して当然だったのである。そうした野党やマスメディアの行動が、情報公開や民主主義についての社会的な大衆的訓練という意味をもつことにもなるからのである。民主主義は、とりわけ大衆自治と自己決定の土台となるべき民主主義は、空疎な言葉ではなく具体的行動を伴うことで実現されるのだ。
だがこうしたチェック機能は、まったく作動しなかった。海外メディアが「旧ソ連邦共産党の秘密主義と同じ」と報じたのは、こうした意味での民主主義感覚の欠如についての彼らの驚きの表明である。
なぜなら、例えばアメリカでは昨年、クリントン大統領が全治数週間程度のケガをしたとの公表がわずか2時間遅れただけで大問題になったことに示されるように、国家権力を握る公人の動静は、その権力を選挙で付託した民衆のすべてが何ものにも妨害されずに知る権利があり、それがまた権力の正統性を保障すると考えられているからであ。
同情票と6月総選挙説
だがこの一連の過程をつうじて、「病に倒れた小渕への同情」が社会感情となるような巧みな演出が、無策な野党とマスメディアに助けられて展開された。自民党派閥ボスと与党幹部たちの期待どおりである。
「他人の弱み(病気)につけこむのは卑怯ではないか」といった庶民的感情は、ある意味では日本的な美徳であろう。だからこれを悪用して小渕政権に対する批判を封じる一方で、「激務の果てに病に倒れた小渕への同情」をあおることができれば、支持率の低迷に悩む自公保連立政権にとっては、厳しい闘いが予測される総選挙で「追い風」になると期待できるからである。
案の定、本音ではこの「同情票」を利用したいだけの自民党議員たちのあいだで、7月サミット前の解散・総選挙の声が急速にたかまった。「同情票が期待できる今をおいて解散・総選挙の時期はない」と言う訳である。日本的美徳とはまったく無縁な、実に功利的で姑息な発想と評する以外にないが、いわゆる解散風が風力を増したのである。
こうした状況のもとで、失言癖のある森喜朗新首相は就任直後、任期満了の10月19日までには選挙があると言おうとして「6月19日までには必ず選挙がある」と口を滑らせるという失態を演じたが、これまで解散・総選挙に難色を示してきた公明党も、サミット前解散に同調する構えを見せ始めた。7月下旬の沖縄サミット前の解散・総選挙の可能性が、しかも6月下旬投票の可能性がかなりの程度強まった。
景気回復の遅れや国対政治への批判の高まりなど、マイナス要因はあってもこれと言ったプラス要因のない自公保政権与党にとって、同情票という追い風が期待できるうちに総選挙に打ってでたい衝動が強まるのは自然な流れと言えるだけでなく、棚ぼたで首相となった森が、こうした流れに抗して独自のイニシアチブを発揮することなど、ほとんど考えられないからである。
無党派層の政党嫌悪率
小渕前首相は、サミット前の解散・総選挙に消極的だったと言われている。政権維持を最大の目的にした巨大与党勢力・自自公連立は、自民党支持層の中で強い不評を買ったことで、小渕政権の選挙基盤を強化・拡大する側面では完全に裏目にでた。結果として小渕政権と自民党の支持率は低下し、総選挙は自民党にとって厳しいものとなるだろうとの予測が、各種の世論調査によって明らかになりはじめていたからである。
したがって自自公連立の不人気や小渕政権の人気低迷といった要因が、同情票によって左右される可能性が生じた分だけ、総選挙の結果を予測するのは難しくはなった。
しかしもちろん、「小渕への同情」が首尾よく演出されたにもかかわらず、自民党が総選挙で手痛い敗北を喫する可能性も、依然として強く残ってもいる。
アメリカでは日本政治の権威として知られるコロンビア大学のジェラルド・カーティス教授は、森政権誕生後の『週刊東洋経済』誌(4/22号)の取材に対して、「私はこのままの状態なら、今回の総選挙では自民党は議席を減らすと見ています。問題はどれだけ議席を失うかです」(中略)「それでも、自民党の獲得議席は抜きん出ているので、選挙後は自民党中心の連立政権になる可能性が高い」との見解を示している。
さらに彼は、「しかし、野党にも勢いはない」との記者の質問には、「確かに、民主党にはさほどの人気はありません。世論調査では、現在の支持率は1ケタですね。しかし、実は1998年に行われた参院選挙の3週間前の調査でも、支持率は1ケタだったのです。ところが、実際、そのときの選挙結果は上々でした。自民党以外に票を入れたい、と考えた有権者がたくさんいたからです。今回の総選挙でもそうなる可能性は十分あります」と答えている。
「自民党以外に票を入れたい、と考えた有権者」とは、いうまでもなく無党派層と呼ばれる(しかも今回は、自民党から離反した保守的な無党派層を大量に含んだ)、政治的関心は高いが支持政党がない、近年の選挙では度々その結果を大きく左右もしてきた、比較的投票率の高い有権者層であり、そして「自民党以外」という選択肢は、最近の世論調査では「政党嫌悪率」という、あまり聞き馴れない言葉で表現されはじめた意識傾向を表すものであり、実は民主党は、この嫌悪率の最も低い政党なのである。
もちろん「総選挙での自民党の敗北」は、森政権発足直後の支持率が43〜48%という現状では少数派の予測である。だが永田町かいわいではこれに同調するような世論調査の分析が、野党議員だけでなく与党議員たちのあいだでもうわさになりはじめ、中には自民党の200議席割れという大胆な予測もとりざたされているという。
「自民党苦戦」の背景
ではなぜ森新政権は、同情票が期待できてなお、総選挙での勝利を確かなものとはできないのだろうか。もう一度、前出カーティス教授の解説を聞こう。
「永田町と・・・・平均的な日本人の考えは前から大きな開きがありましたが、その開き方がここまで大きくなったのは今回が戦後初めてです」(中略)「確かに、景気のよいときには政界の腐敗に目をつぶる人はいたかもしれませんが、今は苦しい時代です。国民が不安を抱えているのに、政治家はそれに対応していないという不満が高まっているのです。これは一触即発の事態なのです」。
さらに彼は、自民党の重要な政治基盤である財界の動向についても、「確かに日本社会は革命的なことは求めていませんし、基本的には日本は極めて保守的なのです。ただ、一方で世界の現実に適応していかなければという考えもかなり広まっています」(中略)「これは明らかに日本社会が大きく変化していることの表れです。『変わらなければ状況はさらに悪化する』ということをしぶしぶ認識し、やむにやまれず変化をしようとしているのです。今後も既存の利害調整に汲々とする政治家と機動的な政策を望む民間企業とのギャップはさらに拡大し、矛盾は深刻になるでしょう」とも述べている。
そのカーティス教授は「中期的には(引き続き)自民党中心の連立政権か、自民党以外の党による連立政権が誕生すると思います。自民党が崩壊し、多くの党を巻き込んだ形での政界再編が起こる可能性さえあります」との中期的観測も述べているが、小渕から森へと、旧態依然たる国対政治への回帰をつづける自民党の現状は、「自民党の分裂を伴う新たな政党再編」の可能性に、ますます現実味をおびさせることになろう。
(4月20日)