小渕の野望は、米軍基地問題を打開しえたか
日本の国際戦略不在を暴いた沖縄サミット


基地の島・沖縄の現実

 7月21日から開催される沖縄サミットを目前にした7月15日、サミット会場のある宜野湾市の海浜公園野外ステージでは、およそ7千人の沖縄の労働者・市民が参加して「米兵によるわいせつ事件糾弾、ひき逃げなど連続する事件・事故に抗議する緊急県民総決起大会」が開催された。
 決起大会は沖縄平和運動センター、連合沖縄、県労連など5団体の呼びかけで開かれ、自民党衆院議員を含む沖縄選出の5人の国会議員のほか、本土かえら駆けつけた共産党や社民党議員も出席した。7月3日に起きた米兵による少女に対するわいせつ事件と、9日に起きた米兵のひき逃げ事件がこの決起大会の直接的な契機となったが、沖縄では今年だけでも米兵による強盗や強姦未遂などの凶悪犯罪が10件ちかくも発生しており、こうした米兵犯罪の元凶が沖縄駐留米軍基地にあることは明らかである。
 だが他方では、今年になってからの沖縄では、「サミットを成功させよう」という大々的なキャンペーンが、琉球新報と沖縄タイムスという地元の二大新聞も巻き込んで繰りひろげられ、しかもそれは米軍基地の縮小と撤去を求め、普天間飛行場の宜野湾市への移転に反対する人々と運動を敵視し、沖縄全島をサミット歓迎一色で塗りつぶすかのようなキャンペーンであった。
 米兵によるわいせつ事件とひき逃げは、このサミット歓迎一色のキャンペーンが、実は沖縄における基地被害や米兵犯罪という負の現実を覆い隠し、基地被害の最高責任者にほかならないアメリカ大統領と日本政府総理大臣のご機嫌取り以外のもなではないことを暴き出したのであり、これこそが基地の島・沖縄の現実にほかならない。

沖縄サミット−小渕の野望

 福岡、宮崎との激しい誘致合戦の末に、大方の予測を裏切って沖縄をサミット会場に決めたのは小渕前首相であった。
 沖縄でのサミット開催に強く反対するアメリカのクリントン政権を執拗に説得し、あるいは自民党総裁選への出馬を表明した加藤紘一元幹事長に「沖縄サミットまで(首相を)やらせてほしい。サミットが終わったらあなたに政権を譲って退陣する」とまで伝えて次期サミット議長国の首相にとどまることに固執し、緊急入院の直前にも準備状況の視察に自ら現地に足を運ぶなど沖縄サミットに執着しつづけたと言われる小渕が、沖縄サミット議長としていかなる野心を抱いていたのかは、今となっては解らない。
 ただ学生時代に沖縄を訪れ、当時のアメリカ軍政下での沖縄の苦難に満ちた現実を目の当たりにして、帰京後は「沖縄文化協会」の設立に奔走するなど保守の側、あるいは民族主義的観点からとはいえ沖縄の本土復帰運動に関わりをもち、国会議員になってからも幾度となく沖縄を訪れた小渕の経歴から、様々な憶測はある。
 毎日新聞論説委員の中村啓三は、「・・・米軍基地の中に沖縄がある、という現実も世界の人々の目にさらされることになる。沖縄を見て、日本は相変わらずアメリカの占領下にあるという評価が世界に流れるかもしれない。/だが、そうした部分を世界に知ってもらうことを抜きにして『沖縄問題』の真の解決はないという思いが首相には強いという」と、今年はじめの『週刊エコノミスト』(1月25日)で、生前の小渕の沖縄サミットに対する強い思い入れを報じていた。
 なるほど。民族主義的観点からしても、米軍基地に圧迫されつづける沖縄民衆の現実は何らかの解決が求められる問題であり、中国をこのサミット会場に呼び込もうとした小渕の行動も、そうした彼の野心を考慮に入れれば理解しやすい。朝鮮半島と台湾海峡の軍事的緊張が沖縄米軍基地の最も重要な存在理由だとするアメリカの主張を前提にすれば、この地域の包括的な和平合意のイニシアチブを取ることは、「沖縄問題」の解決に向けた日本の立場を強化することになると小渕が考えた可能性はあるし、沖縄の施政権返還を実現した佐藤栄作や日中国交回復を実現した田中角栄と言った、歴史に名を残した歴代自民党総裁に比肩する保守政治家たらんとする野望が、その強い動機となっていたと考えることもできよう。
 しかしである。小渕の主観的願望がいかなるものであれ、日本の戦後外交戦略の決定的な転換なしには、沖縄米軍基地の縮小・撤去という沖縄民衆の悲願にこたえることは不可能なことは明らかである。問題はアメリカのアジア戦略にではなく、日本帝国主義の外交戦略の不在にこそあるからである。
 だからサミットを好機として基地の島・沖縄の現実に世界の耳目を集め、主要国間首脳会談という大舞台で沖縄米軍基地問題の「解決」に寄与する国際的合意を小渕が追求したとしても、それが沖縄基地問題の「解決」に向けた劇的な転換点となった可能性は、残念ながらほとんどなかったと言える。事実、アジア規模の包括的な安全保障の国際的合意にとって欠くことのできない中国の参加は、小渕の懸命の工作にもかかわらず、彼自身の政治基盤である日本保守勢力に対する不信と不快感の故に中国政府の拒絶によって挫折したし、6月の南北首脳会談の実現によって、朝鮮半島での軍事衝突の危険が大きく緩和される可能性が現れるという絶好の材料も、小渕の盟友たちや後継者は利用することすらできはしなかったのである。

特筆すべき形骸サミット

 東西冷戦の終焉から10年、あるいは金融グローバリゼーションによって迫られる日本資本主義の国家社会再編の圧力の一層の高まりによって日本資本主義が突きつけられているのは、アメリカの政治経済をキャッチアップすることを外交戦略の代用品としつづけた戦後外交を抜本的に見直し、日本資本主義の独自の利害を擁護するための多角的な外交戦略を再構築することである。
 それは歴史的な経済関係や地理的条件からすれば、アジア各国・地域との外交関係を、少なくともアメリカとの同盟関係と同等の重要さをもつものとして位置づけ、その実現を積極的に推進することであろう。だがまさにこのために欠くことのできない前提が、かつての皇軍による侵略戦争と植民地支配について、真摯な歴史的総括にもとづいた謝罪や補償なのである。
 しかし小渕に、こうした戦略的転換の自覚があったかどうかは、はなはだ疑わしい。例えば、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の会長を小渕が長年務めてきた事実はあまり知られていないが、沖縄サミットへの招請を拒絶した中国政府がそれを知らないなどということはあり得ない。
 日本国内の、しかも全有権者の2割にも満たない支持(6月総選挙の投票率は62・49%、自民党の比例区得票率は28・69%)しか得ていない勢力の内部でだけ通用する常識の水準で、そのうえ日本資本主義が直面する外交戦略の転換に対する自覚もなく、学生時代からの民族主義的情熱だけでアジアにおける多国間安全保障にかかわる効果的な国際的合意のイニシアチブをとれるほど、日本をとりまく国際情勢は単純ではない。
 こうして、小渕の「若き民族主義的情熱」とも無縁な後継者・森は、小渕の沖縄サミットへの思い入れなどあっさりと投げ捨て、ただただ沖縄サミットを大過なくやり過ごすために、沖縄に関わる面倒な外交問題を回避したい外務官僚の隠然たる支持を受けた通産官僚のシナリオ=「IT革命をテーマにしたサミット」に飛びつき、特に反対もないが取り立てて有意義とも言えない、あえて言えば「どうでもいい」IT推進の共同声明と、150億ドルを途上国のIT支援に拠出するという、お得意の「援助外交」でサミットを乗り切ったのである。
 それは、巨大な米軍基地に今も脅かされつづける沖縄の、凄惨な沖縄戦の記念碑である「平和の礎」前で、米軍最高司令官でもあるクリントン大統領が兵士の士気を鼓舞するかわりに「沖縄民衆の良き隣人たれ」と語りかける異例のスピーチを例外とすれば、形骸化やセレモニー化の批判が強まっているここ数年のサミットの中でも、特筆すべき形骸化サミットと言って過言ではない。

南北首脳会談

 この形骸化サミットに比較して、ほぼ6週間前に行われた韓国の金大中大統領と朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」)の金正日国防委員長の南北首脳会談は、歴史的、画期的との形容で世界中に報じられ、韓国民衆の多くが、そしておそらく共和国の民衆も同様にこの首脳会談を歓迎した。
 この南北朝鮮首脳の、実に朝鮮戦争から半世紀ぶりの会談の画期的意義は、反共の立場から一貫して朝鮮情勢を分析し、それ故に日本の保守勢力によって重用されてきた「朝鮮問題の専門家」たちの予測が、次々と覆された事実に示された。
 この「専門家」たちは、「金正日は形式的にしか会談に参加しないだろう」とか「共同声明は、もし出たとしても署名は金正日以外の人物がする」等々、南北首脳会談が共和国による全くのマヌーバーであり、それは朝鮮半島の軍事的緊張の緩和にはほとんど役に立たないだけでなく、南北朝鮮の統一という朝鮮民衆の悲願にとっても意味のない会談であるとの「分析」を流しつづけた。それは破綻しつつある自らの教条を、改めて自らに言い聞かせるかのようであった。
 というのも昨年5月、アメリカのペリー前国防長官が共和国を訪問し、共和国をいわば通常の交渉相手国として認知する「ペリー・プロセス」と呼ばれる朝鮮政策を大統領に勧告したのを転機に、経済危機による共和国の瓦解もしくは瓦解の危機に直面した共和国軍による韓国侵攻を想定し、逆に米韓連合軍による共和国侵攻によって金正日政権を打倒して南北朝鮮を統一するという、これまでのアメリカの対共和国戦略が事実上放棄されたからである。しかも今年3月には、このアメリカの対朝鮮政策の転換を受けて、共和国に対する「太陽政策」を堅持してきた金大中大統領が、民間企業による経済協力を越えて、韓国政府も参加する南北経済協力の意志を鮮明にする「ベルリン宣言」を発表し、そして4月10日には、ついに南北首脳会談の開催が発表されたからであった。
 だが南北首脳会談前に、こうした反共宣伝が大量に流布されたことは、むしろ共和国と金正日に幸いしたと言える。金正日自身による、「専門家」の予測をことごとく裏切る大胆な対応と演出は、共和国と金正日に対して張り付けられた様々な悪者のレッテルを一掃するとともに、東西冷戦の終焉によって期待された「平和の配当」とは無縁でありつづけてきた朝鮮半島で、その軍事的緊張を打開して民族の統一を「自主的に」推進する決断を下したことを、内外に誇示することになったからである。それは同時に金正日が、一国の指導者としての国際的認知を手中にしたことをも意味している。

日本外交の破綻と沖縄

 この「朝鮮問題の専門家」たちのみごとなまでの破産は、しかし日本外交の戦略的破綻と一体のものである。
 「ペリー・プロセス」への転換以降アメリカからの圧力もあって、日本政府も遅ればせながら共和国への食料支援を再開(今年3月)し、4月には3年ぶりに日朝交渉本会談を行うなどの対応をしてきたのだが、これ自身、アメリカの対朝鮮戦略の転換への追随でしかない。結果として日本資本主義は、極東アジアにおける国際関係の大きな転機に立ち遅れ、この国際関係の再編の圧力に受動的に対応するしかない事態に追い込まれつつある。という以上に、むしろ金大中政権の成立以降は、共和国との対決路線で日本と韓国が結び、中国とともに共和国を国際基準の中に取り込もうとする、アメリカにもあるリベラル戦略派を牽制するという保守政治の伝統的朝鮮政策が完全に行き詰まり、「ペリー・プロセス」であれ「太陽政策」であれ、あるいは中国による「共和国カード」であれ、結局はいづれかのイニシアチブに振り回され、日本の独自性と言えば「経済援助」という、金で相手の歓心を買う実に下劣な外交に終始せざるを得なくなっていると言える。
 そしてここにこそ、沖縄米軍基地の撤去問題で、自民党政権がいかなる積極的役割も果たせない本質的要因がある。

 だが同時に、この日本保守政治の外交的行き詰まりは、戦後日本の社会主義的勢力全体にも重要な課題を突きつける。
 朝鮮戦争勃発当時、日本労働運動は共和国と韓国の支持をめぐって分裂した。たしかに当時の韓国の李承晩政権は、反日民族感情を利用はするがアメリカの傀儡という性格を持っていたし、その後1960の学生革命を粉砕して登場した朴正熙政権は、関西を中心とした日本資本の進出と日本の経済援助をテコに開発政策を推進する、その意味で日本の傀儡の性格を色濃く持ってもいた。だが90年代の初頭から始まった韓国「民主化」の過程、金泳三政権や金大中政権を誕生させた資本主義・韓国の変貌について、それを進歩的変化として歓迎はしても、社会主義的国際戦略の見直しにまで貫いて再評価・再把握するには至らなかったのではなかったか。
 ここには、第二次対戦後に再建された資本主義の、ロシア革命の当時には想像もできなかった極めてフレキシブルで、歴史的にもなお進歩的側面をもつ後期資本主義の登場を直視できないできた、社会主義勢力の歴史的衰退の要因が貫かれてもいよう。そしてこうした課題に答えようとすることなしには、階級的労働者もまた、日本資本主義の国際戦略の行き詰まりに抗して、沖縄米軍基地の撤去を実現しうる、新たな国際戦略の展望を見いだすことはできないだろう。  

 (S)


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