分派闘争二年間の総決算

寺岡  衛(「労働者の旗創刊準備1号 88年3月掲載)


一、同盟の最後的崩壊−解党主義への転落

1. 第四インターナショナルの党に関する基本概念

 われわれは、声明=「第四インターナショナル 日本支部再建の闘いに結集することを呼びかける」(以下「呼びかけ」)を発表し、第四インターナショナル日本支部再建準備グループを組織した。われわれは、この呼びかけを通じて日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)の最後的な政治的崩壊を確認し、同時に日本支部再建のための新たな闘いにたちあがることを決意している。
 われわれが同盟の最後的崩壊を確認したのは、この二年間の分派闘争を通じて、同盟がもはや分派闘争の成立基盤そのものを解体してしまっていることを痛感せざるを得なかったからである。
 わが同盟の分派闘争は、分派間のそれぞれの実際的対立にもかかわらず、第四インターナショナルの原則的立場−ボルシェヴィキ=レーニン主義の革命的、歴史的伝統を共通の立脚基盤とすることなしには成立することはできない。すなわち、同盟の分派闘争の成立基盤は、第四インターナショナルの歴史的伝統や、その革命的概念が共通の規範として確認されることを前提とするものでなければならない。
 だが三中委から五中委の経過と決定は、「呼びかけ」の中でも明らかにしたように、われわれが共通の規範として確認してきたはずの「ボルシェヴィキ・レーニン主義=トロツキズムの組織論に関する革命的伝統」=その原則的立場を公然と捨て去るものであった。
 第四インターナショナルの原則的立場のこうした放棄は、分派闘争の成立基盤そのものを解体し、二年間の同盟分派闘争の最後的崩壊=終えんをもたらすこととなった。こうしてトロツキスト党を共通の枠組とする分派闘争は、その成立基盤を失ったのである。
 第四インターナショナルが革命的伝統の核心として継承した党に関する基本概念は、レーニンによって組織され、指導されたロシアボルシェヴィキ党の闘いと、試練の中で鍛えられ獲得されたものである。
 革命党に関するレーニン主義的概念の核心は、その党があるがままの階級や、他のすべての組織から完全かつ無条件に独立していることを前提とするものである。ボルシェヴィキ党の規約第一条=「党員資格」に関する規定は、党を階級から独立した存在へと鍛えあげるための組織的あり方を凝縮的したものである。その立場は、今日わが同盟の規約第二条の中に継承されている。
 革命党の組織論にとって決定的意義をもったボルシェヴィキ規約第一条問題は、マルトフの規約草案が党員の資格を「党の諸機関の統制と指導のもとに積極的に活動するもの」としたのに対して、「党の組織の一つにみずから参加することによっても党を支持するもの」としたレーニンの規約草案によってその基礎が獲得された。
 すなわちマルトフが「党員資格」を党への「運動」的参加へと限定し、そのことによって階級と党の区別を不鮮明なものにしようとしたのに対し、レーニンは、「党員資格」を党「組織」に参加するものと厳格に規定し、そのことによって階級から独立した党の前衛的性格を鮮明にしようとしたのである。レーニン主義的党概念の核心は、まさに階級から独立した党の前衛性の保障の鍵を、党員の「組織」への参加、そのことによる組織的規律への服務においたことである。ボルシェヴィキは、こうして規約第一条を組織的武器として党を不断の階級から独立した前衛へと鍛えてきたのである。  だがメンシェヴィキは、こうしたレーニンの党組織論を労働者階級の全体としての闘いを切り捨てるものであり、また法外な「中央集権主義」によって党内民主主義を破壊するものでもあると批難した。しかしレーニンの党組織論は、こうしたメンシェヴィキ派の批難とは逆に、階級から独立した党の前衛性こそ、労働者階級全体の普遍的利害を政治的に体現しうるものであり、また党のこうした前衛性結集こそ、労働者階級の内部に存在する雑多な政治的レベルや、多様な大衆組織とも有効に結びつくことができるとの考えに基づいているものであった。そしてまたこうした党の前衛性こそ、党の「民主的中央集権制」を保障していくための前提条件となったのである。
 レーニン党建設をめぐるこうした闘いは、ツアーを打倒し、労農独裁権力をめざすレーニンの政治綱領と不可分に結びついて いた。すなわちレーニンの経済主義、解党主義、メンシェヴィキ派潮流との党組織論をめぐる攻防は、革命をブルジョア革命へと限定し、同時に帝国主義の危機の時代において祖国防衛主義へと転落する第二インター内日和見主義派との政治綱領をめぐる闘いと一対をなしとものであった。
 だが重要なことは、レーニンの党組織論をめぐる闘いの過程が、第二インター内の日和見主義派との闘いに限定されたものではなかったということである。レーニンの党建設のための闘いは、第二インター内におけるローザやトロツキーなど革命的左派との党組織論をめぐる独自の闘いを必要としたのである。
 トロツキーの政治綱領−永久革命とプロレタリア独裁論は、革命をブルジョア革命に限定しようとするメンシェヴィキ派の政治綱領と最も鋭く対立した。だが党組織論は、政治綱領をめぐるメンシェヴィキとの非和解的対立とは相違して、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの組織的統一を要求する中間主義の立場に立つものであった。彼のこうした党組織的の根拠は、日和見主義との闘争において組織された党の独立した力に対する過少評価にあり、また階級の革命的自発性への過大評価が大きく作用していた。規約第一条をめぐる論争においてトロツキーは、レーニンと対立して次のように述べた。「日和見主義は、規約のあれこれの条項よりももっと(深い原因によって規定される)。それは、……プロレタリアートの相対的な発展水準によ」るものであると。そしてトロツキーは、そこから労農大衆の革命的高揚と、それに基盤をおく革命的左派の闘い(プロレタリアートの政治水準の発展)によって、メンシェヴィキの成立基盤を政治的に解体し、彼らに綱領的転換を強制することが可能であるとの考えにたった。
 レーニンは、こうしたトロツキーの立場と見解を全面的に批判して次のように述べた。「かんじんなことは、規約のいろいろの条項が日和見主義をつくりだすかもしれないという点にあるのではなく、それらの条項の助けをかりて、日和見主義はに対抗する多少とも鋭い武器を鍛えあげる点にある。日和見主義の原因が深ければ深いほど、この武器は、いっそう鋭くなければならない。だから日和見主義に門戸を開いている定式を、日和見主義には「深い原因」があるということで正当かすることは、きっすいの追随主義である」と。
 党組織論をめぐるレーニンとトロツキーの対立は、ロシア革命の現実−メンシェヴィキの反革命への転落によって明確に決着がついた。トロツキーは、ロシア革命の過程を通じてレーニン主義党の概念を全面的に受け入れ(自己批判)し、党組織論をめぐるレーニンとの対立においてレーニンが全面的に正しかったことを明らかにし、ボルシェヴィキへと合流した。
 「マルクス主義の革命的政策は、プロレタリアートの前衛としての党の概念に基礎をおく」「日和見主義的な誤謬や逸脱の社会的源泉や政治的原因がいかなるものであろうとも、それは常に革命党に関する、また他のプロレタリア組織や全体としての階級に対する革命党の関係にかんする誤った理解にイデオロギー的に還元される」(トロツキー「労働組合に関する共産主義者同盟右派分子の誤謬」)  政治路線と党組織の関係に関するこのトロツキーの定式化は、「日和見主義の『より深い』社会的源泉を主張することによって、日和見主義に門戸を開く定式(規約第一条をめぐるメンシェヴィキ的立場)を正当化してきた」彼の旧来の組織論的立場の全面的自己批判が含まれている。  これ以降トロツキズムと第四インターナショナルは、トロツキー自身の痛苦の自己批判を前提に、党に関するレーニン・ボルシェヴィズムの革命的伝統を全面的に継承し、それを自己の原則的立場として確立してきたのである。

2.三中委決定の解党主義的性格と分派闘争の成立基盤の崩壊

 「第四インター女性解放グループ」による中央委員会への通告は、基本的に以下のようなものである。
 @「第四インター女性解放グループの構成メンバーは現に日本支部に在籍している女性メンバーならびにかつて在籍していたが、この四年間の経過の中で脱盟した元女性メンバーをも含める」。
 A「財政はグループに所属するメンバーによって自分たちで同盟費、夏冬カンパを集め、プールして活動に必要な分を差し引いて残った分は中央に上納する」。
 B「JRの各級機関の会議への出席やブレチン等については権利を放棄しないが、従来と同じような義務を自動的に履行することをあらかじめ前提としない」というものである。
 われわれは、「第四インター女性解放グループ」の通告にはらまれた問題提起を、同盟再建の根幹にかかわるものとして受けとめ、「呼びかけ」の中で次のように自らの態度を明らかにした。
 「『第四インター女性解放グループ』の中央委員会への通告は、『組織』と『女たち』の不一致、『告発者防衛』と『組織機関防衛』の衝突という同盟の破綻の現状の上に、女たちが女たちとして生きのびるための《選択》であり、これ以上『男組織によって抑圧と分断の手段につかわれる』ことを拒否するという、女性の政治的自立のための自己防衛の表明であった」と。そして「同盟員によってひきおこされたレイプは、同盟の思想的団結の根幹を破壊した。この自覚のうえで同盟は、それを政治的・思想的・組織的に克服することを問われ続けてきたのである。しかし中央委員会をはじめとする同盟機関は、組織防衛の名のもとに女性からの告発を抑圧し、自らの総括にもふみ込めず保守的で受動的でありつづけた。われわれは、こうした同盟の保守的、受動的現状を克服しないかぎり、『女性解放グループ』の選択の政治責任は、基本的に同盟機関の側にあると考える」と。
 こうしてわれわれは、「告発者防衛」と「組織防衛」が非和解的に衝突しあうという同盟の政治・組織的破綻の現状を全面的に解明することを通じて、同盟総括の根幹にせまることを自らの責務として課しているのである。
 だが「『女性解放グループ』の選択の政治責任が基本的に同盟機関の側にあ」ること、組織内女性差別問題を通じて「同盟総括の根幹にせまることを自らの責務」とするということと、彼女たちの「通告」を受け入れるということとは組織的には全く別の問題である。われわれは、第四インターナショナルの「原則的立場」を堅持しようとすることなしに、女性差別を軸とした同盟破綻の総括をやりぬくことはできないと考えている。
 「第四インター女性解放グループ」の通告は、先に述べた第四インターナショナルの[組織原理」と明らかに衝突する。なぜなら彼女たちの通告の基本性格が、同盟組織に対する「女性解放グループ」の自治権・自決権の要求を含んだものとなっているからである。そのことは、「女性解放グループ」が、「脱盟したメンバーを含めていること」、「財政に対して自治権を要求していること」、「同盟員としての義務に関して自己決定権を要求していること」などの中に明確に示されている。
 第四インターナショナルは、党内グループの自治・自決権に基づく「自由連合」的な組織運営を自らの組織論として承認することはできないのである。彼女たちの通告を受け入れることは、まさに第四インターナショナル日本支部の革命党としての立脚基盤を自ら否定することにつながるのであり、解党主義へと転落することとなるのである。
 だが三中委は、「女性解放グループ」の「財政に関する通告」を無条件に受け入れることを決定した。この決定は、単に同盟の解党的実態を現状認識として確認するというような性質のものではない。そうではなく三中委決定は、第四インターナショナルの党に関する原則的立場の放棄を中央委員会の立場として決定し、また「規約違反」を中央委員会自らあえて強行したということなのである。
 だが、この問題の深刻さは、三中委のこうした決定が、革命党にとっていかに破滅的な意味をもっているかということについて中央委員会の多数派が全く無自覚であるということである。
 「女性解放グループ」の通告を受け入れる立場に立った人達の見解をここで少し紹介してみることにしよう。
 「七〇年代の政治の枠組の克服がつきつけられている。四年間この限界に本当に挑戦できなかった。したがって『第四インター女性解放グループ』の提言を受け入れ、そこから出発すべきだ」
 「差別的で統制的であったわが同盟の基本組織に対する総括なしに民主集中制を持ち出すことは問題だ」
 「民主集中制のために努力してきたことが差別・強姦として現実にあったのだから、このことをとらえ返すことなく民主集中制の回復といってもはじまらない」
 「緊急三中委は…『受け入れる』ということでこの局面−危機を乗り切ろうとすることであった」
 「規約違反であることはわかっている。そういう意味では『確信犯』である。しかし『受け入れなかった』状況を考えてみよう。今よりももっと危機は進んだだろう」
 「三中委決定は、確かに超法規的な決定であったが、そこから始まる以外になかったということだ」等々。
 こうした彼らの主張を次のように要約することができよう。
 第一に「強姦・女性差別をひきおこした同盟の『総括』『とらえ返し』『克服』なしに、民主集中制を持ちだすことは問題だし、はじまらないことだ」
 第二に「したがって『第四インター女性解放グループ』の提案を受け入れるべきであり、そのことによって危機を乗り切るべきである」
 第三に「三中委決定は、『規約違反』であり、『超法規的決定』だが、それはよりましな決定であり、そこから出発すべきだ」
 以上「受け入れる」との立場の人達の主張、意識は、大体この要約によっていいあらわされていると考えられる。
 彼らのこうした見解からは、次の二つの結論が導きだされるはずである。
 その一は、同盟の「組織原則」としての「民主集中制」の批判的再検討−すなわち第四インターナショナルの「組織原理」そのものの全面的見直しをはかろうとする立場に立つか、または、同盟の現状が「民主集中制」の適用不能という党失格状況にあることを確認し、自ら同盟を「解党」して一からやりなおすという立場に立つか。
 彼らの見解からするならばこのどちらかの結論へと自らの立場を選択しなければならない。こうした結論なしに「民主集中制」の放棄や、「規約違反」を何の理論的説明もなくなしくずし的に強行することは、党の成立基盤そのものを根本から解体し、党再建の可能性すら放棄してしまうことになる。
 党の「原則問題」や「規約」は、彼らの主張のように党のおかれている状況に応じて、「持ちだし」たり、「引っ込め」たりしうるような御都合主義的で、無原則的対応を許されるものではないのである。
 党の「原則問題」や「規約」に対するこうした中央委員会の御都合主義的対応は、第一に党の成立基盤をあるがままの現状の追認におくことによって党の革命的結集の基盤−同盟の理論闘争や論争的エネルギーを解体してしまうことになる。
 もし党の「原則的立場」が、なし崩し的に放棄され、、実際的闘いとの緊張関係を失い、理論的建前へとおいやられるならばその結集は、同盟の理論闘争、路線論争の成立基盤を根底から解体することとなり、同盟の現状への追随的堕落を極度に発展させていくこととなる。
 そのことは、第二に同盟を中央官僚とその多数派の主観によってどのようにでも便宜的に操作しうるものにし、同盟に官僚主義化と、一方での受動化を強制し、党の民主主義的基盤を根本から破壊していくこととなるのである。
 三中委から五中委の過程を通じて同盟中央委員会は、革命党に関する第四インターナショナルの原則的立場を放棄すると共に、党の「原則問題」や「規約」への官僚主義的御都合主義を全面化させ、そのことによって同盟を自己変革不能の段階へと堕落させてしまった。
 しかも更に重要なことは、同盟のこうした政治的堕落が、単に中央委員会の段階へととどまるものではないということである。そのことは、革命党としての同盟の存立にかかわる三中委決定に対して、同盟内部からの原則的批判が極めて弱々しいものにとどまったことの中に明確に示された。同盟総体としては、党の存立にかかわるこうした重大問題が、まともな論争として浮上することさえなかったのである。
 三中委決定はそれほど重要なことを決めたわけではないとの政治局員の発言、規約に違反した決定であることを自覚したうえでなおそれを問題にしようとさえしない同盟中央委員会の現状へのなし崩し的追認、御都合主義的な官僚主義的対応は、単に中央委員会の官僚主義的堕落に限定された事態ではなく、同盟総体を支配している歯止めのない崩壊感覚と、それへの受動的・保守的対応を表現したものであったといえよう。
 このことは、同盟中央委員会の解党主義への転落、それへの御都合主義的対応が、同盟全体へと浸透し、同盟の内部闘争のための基盤を決定的に解体していったことを意味した。同盟の現状に批判的な同盟員の多くが、同盟組織から分散し、政治的風化を強め、党そのものへの不信へと追い込まれていった。三中委から五中委の期間を通じて、一つの地方委員会からも、一つの地区委員会からも、また岩手を唯一の例外として一つの細胞からさえも三中委決定の撤回要求や、異議申立の決議がなされなかったという事実は、まさに同盟総体の構造が、再生不能の政治的死を示したものであったといえよう。  革命党に関するレーニン主義的原則が今や同盟中央によって公然と放棄されているにもかかわらずそれをめぐる論争は、同盟をとらえることはなかったのである。
 三中委から五中委のこうした事態は、まさに同盟中央の解党主義への公然たる転落と同時に、同盟総体の構造がもはや同盟の革命的内部闘争のための理論的、批判的エネルギーを喪失してしまっていることを示したのである。革命党としての原則的立場の公然たる放棄と、それへのなし崩し的対応、同盟総体の革命的内部闘争のための理論的、批判的エネルギーの喪失─同盟のこうした政治的空洞化の進行は、二年間にわたる分派闘争が、今や分派闘争成立の基盤の崩壊と共に最終的に終焉したことを示した。今後も展開されるであろう同盟の分派闘争ならざる分派闘争(?)は、歯ドメなく進む同盟の政治的堕落の現状を保守的に維持しあうための無原則的な馴れ合いと癒着、更に政治的取引の関係へと転落していくことになるであろう。

二、分派闘争の崩壊と七〇年代同盟の負の遺産

3.同盟四回大会の組織方針と党の「原則」の建前化

 党の「原則的立場」の放棄、「原則問題」や「規約」に対するなし崩し的、御都合主義的対応、理論闘争、分派闘争の成立基盤の解体──こうしておちいった同盟の政治的崩壊は、もちろんこの二年間の分派闘争の総括の枠組では全面的に明らかにすることはできない。こうした同盟の破綻の実態を総括するためには、基本的に七〇年代同盟の綱領的、組織的総括が全面的に必要とされる。
 だがここでは、七〇年代同盟の全面的総括に直ちにたちいることはできない。ここでとりあげるのは、この二年間の党組織論をめぐる分派闘争の総括を基本におきながら、その検討に必要とされる枠組において七〇年代同盟の総括を必要最低限の範囲でふれようとするものである。
 私は、同盟が再生不能であることのメルクマールを、同盟中央の党に関する「原則」の公然たる放棄と、こうした事態に対して同盟総体からの原則的批判の不在──理論的、批判的エネルギーの喪失においた。そのことは、何度もくり返しているように同盟分派闘争の成立基盤の崩壊として示された。
 われわれは、まず同盟のこうした破綻の歴史的源泉をさぐってみなければならない。
 同盟のこうした崩壊の姿は、基本的に七〇年代同盟の綱領的、組織論的破綻の過程が、同時にマルクス主義−トロツキズムの理論的土台をも侵食し、マルクス主義−トロツキズムの基本テーゼそのものの解体へといきついていることを示すものである。そういう意味で同盟の今日の政治・組織的解体は、一九五七年以降日本において公然と登場したトロツキズムの政治潮流としての消滅の危機を意味するものである。
 レーニン主義(トロツキズム)の党に関する基本テーゼの放棄へといきついた今日の同盟は、組織論的根拠を、七〇年代同盟の綱領的、組織論的立場の中にどのように内包させていたのだろうか。われわれは、ここで七〇年代の党建設方針に関する基本性格を検討してみると共に、その方針が生みだした同盟組織の実態的性格をとらえ返してみなければならない。
 七〇年代同盟の政治・組織的骨格を形成した同盟第四回大会は、同盟建設に関する基本方針を次のように提出した。
 「諸闘争の性格は、……革命党を直ちに建設することを直接の課題かつ日程にあげるのではない。日本における社会階級闘争の当面する政治的局面は、まだそこまで成熟し、につまってはいない」
 「ただ徹底的に急進的に広範に大衆を動員しようとし、もっとも遠くまで闘いぬくことだけが本質的問題であり課題である」
 「全一連の権力闘争の性格は……急進主義的大衆闘争そのものをまず徹底的に闘いぬき経験すべき時期である」
 「大衆闘争においてわれわれは、……経験的アジア革命派の活動家たちと登場し、それらの諸闘争をもっとも非妥協的かつ戦闘的に戦いぬこうとする全国分派として自らを確立しなければならない」と(同盟第四回大会決議〈同盟建設−総括・展望・任務〉)
 だが一方では、「アジア革命派の全国分派」の確立をめざす急進主義的大衆闘争の獲得目標と切り離されたところでトロツキズムのためのイデオロギー活動が位置づけられる。
 「レーニン死後スターリニズムにたいして一貫して闘いぬいたトロツキズム全理論成果の無条件的承認をかちとるための闘争……すべてをただトロツキズムから出発させようとするイデオロギー的な絶対的忠誠心──われわれはこのために断固として闘いぬかなければならない」(同盟第四回大会の決議〈同盟建設−総括・展望・任務〉)
 ここに提出されている同盟建設方針の基本性格は、第一に今日の局面を「革命党を直ちに建設する」時期でないと規定し、「急進的大衆闘争を徹底的に闘い抜くことだけが本質的課題であり」、その闘いを通じて「アジア革命派の全国分派」を確立することが組織的課題であると提起していることである。
 ここからは、党建設の闘いが否定され、急進的大衆闘争のための闘争組織=「アジア革命派の全国分派」が組織的な獲得の課題として設定されるのである。
 同盟建設方針の第二の基本性格は、イデオロギー活動が「トロツキズムイデオロギーへの絶対的忠誠心」の闘いとして提起される。こうして「党建設」の実践的課から切り離されたイデオロギー活動は、必然的に「イデオロギー的絶対的忠誠心」のための活動に矮小化されることとなる。
 同盟第四回大会における党建設の否定は、一方で大衆闘争・組織活動とイデオロギー活動を二元的に分断し、他方そのことがイデオロギー活動を「絶対的忠誠心」のための活動に矮小化し、革命的理論を抽象的な建前へとおいやってしまうこととなる。
 トロツキズムイデオロギーの「絶対化」は、その裏返しとして革命党に関する「理論」や「原則」の建前化を生みだす。同盟の今日の破綻の実態は、まさに党の「理論」や「原則」の建前化と、それへの御都合主義的対応によって生じているのである。今日の同盟破綻のあしき源流を、われわれは、第四回大会のイデオロギー活動の方針の中に見出すことができるのである。

4.同盟第四回−六回大会の党組織論とそのメンシェヴィキ的性格

 党建設の否定の上に生みだされたイデオロギー活動と、大衆闘争・組織活動の二元的分断は、一方においてマルクス主義−トロツキズムの「理論」や「原則」を実践的緊張から不断に切り離なし、その抽象的建前化を促進していく。そしてこのことが、党の「理論」や「原則」への御都合主義的で、便宜的対応を生みだす根拠となって同盟に蓄積されていったのである。
 他方「理論」の建前化と裏腹の関係にある「アジア革命派の全国分派」形成の組織方針は、同盟の組織的実態をますます急進主義的大衆闘争のための組織へと一元化させていくこととなった。
 七〇年代同盟の組織の原型は、まさにこうして生みだされた同盟の組織実態──急進主義的大衆闘争のための組織を基盤に、その追認の上に形成されてきたのである。
 同盟の組織活動方針や組織体制は、同盟組織のこうした実態を基盤とし、その経験的対応の上にくみたてられていった。
 五〇年代世代を軸とした政治局と、そのイニシアチブで発刊される「世界革命」紙が、唯一の党的機能をはたすものとされ、闘争現場における同盟の組織化は、急進主義的大衆闘争のための活動家組織(ILC=共青同、職場労研等)として位置づけられた。
 こうして同盟は、階級との接点において党組織(細胞)を実質あるものとして組織しえず、そのことによって大衆的活動家組織に「細胞」機能を代行させるというやり方がとられた。
 階級との接点における党組織(細胞)の不在、その機能の共青同・職場労研等による代行は、同盟組織のあるがままの階級の水準へと不断に溶解させ、そのことによって階級闘争を自然発生的レベルへとおしとどめていくこととなる。
 同盟のこうした組織実態を基盤として、党の指導機能は政治局と「世界革命」紙──大衆闘争と組織活動はILC=共青同という同盟組織のモザイク的構造を定着させていくにいたった。
 七〇年代同盟のこうした大衆運動主義的な組織構造は、まさに第四回大会のもつ党組織に関するメンシェヴィキ的性格の組織論的帰結であったといえよう。  だが同盟第四回大会のこうしたメンシェヴィキ的で解党主義的弱点は、ある限界内において意識されていた。
 同盟第六回大会では、党建設に関する方針の転換=修正がおこなわれた。そこでは第四回大会の提起した、「党建設の二段階的把握が固定化された」ならば、「客観主義的な解党主義へと容易に転化しうる」(第六回大会の総括〈わが同盟の現段階〉)との警告をおこない、「わが同盟の党建設のための飛躍」が提起された。
 そこでは、「旧来わが同盟は、その再建過程によって、同盟と大衆の結合関係の軸をILC、学生インターに代行させることによって、多くの自然発生的で、カンパニア的関係の諸要素を残し、変革的、教育的機能を充分にはたすことができなかった」「まさに党建設のための飛躍は、党の基本組織を確立し、頑強な闘争の過程によって大衆を教育する真に強固な革命家の組織を建設することであ」り、「来るべき対決にむけて準備するプロレタリア統一戦線とその戦略拠点の構築を、党の基本組織の形成と不抜の党生活によって可能」ならしめなければならない(第六回大会〈わが同盟の任務〉)と提起した。  第六回大会のこうした提起は、明らかに第四回大会の党建設方針からの転換を提起したものである。
 だが同盟第六回大会の党建設方針に関する方針転換は、第四回大会が内包したメンシェヴィキ的、解党主義的性格の根本にメスをあて、それを転換させうる性格のものとはならなかった。
 「革命党建設を直接の課題とはしない」との提起の第四回大会における論拠は、今日の諸闘争の性格や発展が、日本プロレタリアートを党の基盤へと結びつけるまでににつまっていないからだというものである。こうした論拠を前提にするかぎり党建設方針の提起は、労働者大衆が革命とそのための党の必要を理解しているときにはじめて可能だということになる。だがそうした時期は、革命的情勢か、革命前的情勢に限られる。
 だが革命党の建設は、まさにそれとは逆に、革命の目的意識と、あるがままの現実の階級との間にある巨大なギャップがその必要性に根拠を与えるのである。
 同盟第四回大会に内包するメンシェヴィキ的、解党主義的本質は、まさに党建設に関するこうした立論――すなわち党と階級の同一視の方法の中につらぬかれていたのである。
 だが同盟第六回大会における党建設方針に関する転換は、党建設のための闘いを緊要の直接的課題として提起しているにもかかわらず、第四回大会の立論方法をそのまま継承するものであった。
 すなわち第六回大会が党建設を直接的課題として提出した論拠は、第四回大会の党建設の基盤の不成熟論に対して、党建設の基盤の成熟論をもって対抗しようとするものであった。
 「帝国主義の危機の時代は、労働者人民の要求と実際的闘争の発展が、支配階級の改良的で、平和的な支配の基盤をマヒさせる役割をはたし、不断に権力問題をプロレタリアートとその指導部に提起する」「革命党は、この時代にあっては大衆闘争を権力獲得にむけて組織し、動員しようとする闘争の直接的イニシアチブを発揮しなければならない」(第六回大会〈わが同盟の任務〉)
 六回大会のこうした党建設の提起の前提は、まさに「帝国主義の危機」と「権力のための闘争」の時代、「全人民も急進化」が根拠となって提出されたのである。第六回大会のこうした党建設の論拠は、四大会の党に関するメンシェヴィキ的性格を批判しうるものとはならなかった。
 すなわち四回大会から六回大会への組織論の転換は、社会経済闘争の政治局面が成熟しているかどうかが、党建設を直接に提起しうるかどうかをきめるという方法論的性格に関しては何ら変化はなかった。その方法は、逆に継承されてさえいたのである。
 六回大会は、同盟組織の原型を成立させた四回大会の組織方針を技術的、現象的には転換させたとはいえ本質においてはそれを継承し、その組織構造の精密化をはかる役割をはたした。
 四回大会から六回大会を通じて七〇年代同盟に定着した組織のメンシェヴィキ的性格は、同盟の職場細胞の不成立と、同盟の細胞機能を共青同・職場労研等、大衆的「活動家組織」に代行させるかたちでその特徴を表現した。
 七〇年代の前・中期における同盟=共青同は、労働組合青年部運動の左翼反対派的機能を基盤とし、その先端の活動家を組織していくことによって発展した。だが同盟は、階級から独立した党「細胞」の職場における不在によって、青年労働者の戦闘性を職場の日常的活動の中で不断に教育・変革していく革命的機能をもちえず、そのことによって組織された青年労働者活動家(共青同)を労働組合左派の政治水準に不断に放置していくこととなった。
 青年労働者の政治意識の形勢過程は、労働組合青年部機関を媒介とした左翼反対派(左翼バネ)の闘争によって生み出されていった。
 こうして共青同への政治・組織的獲得の基盤は、同盟の職場における独自活動に依存するのではなく、労働組合青年部の機関活動が生み出す自然発生的な政治的活性化に大きく依存するというものであった。階級との接点における同盟組織(共青同)は、職場細胞の不在の結果、労働組合左派の政治レベルへと不断に溶解させられていく。
 だが政治組織たる共青同が、青年労働者活動家を組織へと獲得しようとするかぎり、労働組合左派の政治レベルから独立した政治意識への獲得過程が要求される。こうした青年組織への政治的、教育的保障は、本来党「細胞」の日常指導によるのもでなければならない。だがそれが不在である。こうして同盟=共青同の政治・組織的獲得にとって、全国的な急進的政治カンパニアへの動員・組織化が決定的に意味をもってくるのである。
 同盟(共青同)は、急進的政治カンパニアを通じて労働組合左派の政治レベルから自らを独立させていくのである。
 同盟の政治集会によるアジテーション(綱領カンパニア的政治意識)と、政治闘争・三里塚闘争における党派軍団(政治的独自性の組織化)は、党「細胞」による日常的政治教育の不在が強制する政治的組織化のための代行的手法であった。だがそのことによって職場における同盟組織(共青同)の労働組合左派政治のレベルが基本的に克服されたわけではない。それは、同盟組織のメンシェヴィキ的構造を基盤として成立した労働組合左派と急進的カンパニア主義の政治的アマルガムの姿である。

5.三里塚処分をめぐる攻防と七〇年代同盟の組織的解体

 同盟のメンシェヴィキ的組織構造(階級からの非独立)は、総評左派の闘いが有効性を発揮しているとき、その矛盾は隠蔽され、組織的発展の基礎が与えられた。だが労働組合青年部運動の危機の顕在化は、直ちに同盟組織(共青同)に停滞と破綻を強制していくこととなった。
 同盟のメンシェヴィキ的組織構造が全面的にその破綻を顕在化させたのは、三里塚処分をめぐる権力闘争の職場日常性への還流を通じてであった。企業秩序に成立の基盤を与えられている労働組合左派の政治レベルでは、職場におけ権力との日常的攻防に耐えることはできない。だが一方労働組合左派の政治レベルと裏腹の関係にある急進的政治カンパニアの結集は、「企業社会」の秩序を媒介とする権力の日常的攻撃にひとたまりもなく敗退させられていくこととなる。
 わが同盟組織の労働現場における構造は、三里塚処分をめぐる攻防に耐えられず、その過程を通じて全面的な解体過程に入った。  だが三里塚処分に典型的な職場における権力との日常的攻防の構造は、特殊三里塚処分をめぐる闘いに限定されたものではなく、八〇年代における階級闘争の基本的あり方を先取的に示したものである。すなわち三里塚処分をめぐるわが同盟の解体は、日本帝国主義の新たな時代にむけた攻撃に対する主体的敗北であった。
 日本国家の帝国主義的再編は、その社会・経済的秩序の最大の基盤を労働組合の国家への統合におく。こうして日本国家の帝国主義的再編の重要な一部を構成す労戦の右翼的再編は、日本国家の権力秩序が労働者の日常へと貫徹していくことと一体的に進行していった。
 帝国主義国家の秩序は、先行する独占企業の国際化に対応した「企業社会」の秩序としてその土台を形成した。帝国主義経済の危機の背景に展開された資本の「減量経営」攻撃は、「企業社会」の支配秩序を定着させるために決定的役割をはたした。
 独立少数派組合の闘い、生産管理=自主生産の闘いを基盤とした「労働情報」の活動は、まさに「減量経営」攻撃を媒介とした「企業社会」の帝国主義的秩序と対決する闘いとして展開された。「連合」成立に対応する日本国家の帝国主義的再編は、まさに「企業社会」の日常支配の構造を基盤において成立していったのである。
 こうして日本国家の帝国主義的再編に対する闘いは、それに社会・経済的基礎を与えている「企業社会」の日常的支配秩序との闘いへと貫徹されていかなければならない。
 親帝派ナショナルセンター「連合」に対抗する階級的ナショナルセンターの闘いは、まさに「職場」「地域」における国家支配との日常的攻防を組織することなしにはその組織的基盤を獲得していくことはできない。
 三里塚処分の攻防を転機とした同盟の八〇年代における敗北は、まさにこうした敵の攻撃に対する七〇年代同盟の政治、組織の構造的破綻を全面的に暴露するものであった。
 それは、階級から独立した党「細胞」の存在が不可欠とされたまさにその瞬間に、七〇年代同盟の組織構造(階級への溶解の構造)の破綻が全面的に顕在化したことを示したのである。
 「階級の敗北」論の登場は、戦後改良主義労働運動の崩壊という階級総体の評価をめぐる問題というよりも、総評の解体がわが同盟の政治的・組織的敗北・解体と一体的に進行したというところにその根拠がある。すなわち「階級の敗北」論が同盟総括のキー概念として登場してきたのは、まさに総評の解体が、わが同盟の解体に直結した事態に対してそれを主体的に総括することができなかった結果、同盟の敗北をプロレタリアートの敗北の責任へと転化させていったからであった。

6.同盟組織の位階制秩序と女性差別・抑圧の組織構造

 先に述べた「政治局と『世界革命』紙を唯一の党的機能とし、闘争現場の同盟組織を急進的大衆闘争のための活動家集団(共青同、職場労研)とする七〇年代同盟のモザイク的組織構造は、八〇年代における同盟の敗北・解体の直接的根拠となった。
 だが重要な問題は、八〇年代における闘争現場の組織的解体によって、七〇年代同盟の組織構造に内包していた抑圧的体質=その裏返しとしての受動的体質を全面的に顕在化させていったということである。
 階級との接点における党組織の不在は、党機関への労働現場の受動性を促進していく組織的要因となる。なぜなら階級との接点における独立した党組織の存在こそ、党機関の方針と指導を現実の闘争にてらしてテストし、批判的に点検する場となり、党内民主主義を保障する力の源泉となるからである。
 政治局の方針が「世界革命」紙によって一方通行的に流され、闘争現場(共青同、職場労研等)が、それを受動的に受けとめ、実践するという同盟組織の構造は、闘争組織の職場における解体によって、組織のあり方を更に上意下達的な官僚構造へと定着させていくこととなる。
 労働現場における闘争組織の解体は、それによって促進される同盟組織の抑圧的官僚化は、先に述べた革命党の「理論」や「原則」の建前化、それへの御都合主義的対応、綱領論争、イデオロギー闘争の成立基盤の解体と不可分なものとして作用しながら進展していく。
 それに加えて五〇年代世代の指導部が歴史的過程で身につけたバランス感覚は、綱領的意識の二元論的枠組の維持、同盟の大衆闘争との結合優先によって、イデオロギー闘争を不断に先送りする組織体質を定着させ、大衆闘争の必要の度合いによってのみ理論問題が意識されるという同盟の脱イデオロギー的体質を作りあげることに大きく作用した。
 五〇年代指導部が層としてとったイデオロギー闘争回避のあり方は、まさに官僚的位階制秩序――組織的抑圧構造へと同盟組織を変質させていくのに大きな役割をはたしたといえよう。こうした同盟のイデオロギー闘争回避の組織体質が、中央機構の官僚的抑圧構造と現場闘争組織の政治・組織・イデオロギー的受動性・非自立性を定着させる基盤となって作用したのである。「この官僚性、受動性、非自立性は、共産主義的価値観、人間観への各自の自己変革、綱領との関係における緊張した各自の日常党生活をもたらすことはできない」  組織内レイプ問題、女性同盟員の告発に対する同盟機関の組織的抑圧は、まさに七〇年代同盟が温存してきた同盟のイデオロギー闘争の回避の構造、それと不可分の関係にある組織の官僚的位階制秩序の構造が重要な基盤となったのである。
 レイプ問題を契機とした女性同盟員による告発、糾弾の闘いは、まさに女性の政治的、人間的自立とその防衛のための闘いが、不可避的に同盟組織のこうした官僚的差別、抑圧性、一方の受動性、非自立性に対する闘いとして展開せざるを得なかったのである。
 女性同盟員の告発・糾弾は、まさに七〇年代同盟の破綻のこうした基本構造をトータルに問題とする性格のものとして提出されたのである。そしてまた七〇年代同盟の破綻のこうした基本構造こそが、今日の解党主義を生み出した基盤であり、分派闘争の成立基盤を崩壊へと導いた源泉であったといえよう。

三、同盟の破綻をマルクス主義-トロッキズムの放棄へ結びつけた「階級の敗北」論

7.同盟総括のキー概念としての「階級の敗北」論

 先に私は、「同盟のこうした崩壊の姿は、基本的に七〇年代同盟の綱領的、組職論的破綻の過程が、同時にマルクス主義ートロッキズムの理論的土台を侵食し、マルクス主義ートロッキズムの基本テーゼそのものを解体していくことを示すものである」と述べた。だが私は、先に見てきたような七〇年代同盟の破綻の構造が、マルクス主義ートロッキズムの基本原則の公然たる放棄へと自動的に結びついたなどと短絡的に主張しようとは思わない。
  七〇年代同盟を破綻へと導いた四回大会諸テーゼの内容が、マルクス主義−トロッキズムの理論体系にてらしてみて重大な理論的逸脱の契機を内包していたことはたしかである。 だがわが同盟は、七〇年代においてたてまえ化されていたとはいえマルクス主義−トロッキズムの諸原別を公然と放棄するということはなかった。 七〇年代同盟の破産の経験を、マルクス主義ートロッキズムの公然たる放棄=修正へと結びつけるには、七〇年代同盟の破産をマルクス主義−トロッキズムの武装解除へと誘導するための新たな理論的「概念」規定の提起が必要とされた。私は、その理論的 「概念」提起が、七〇年代同盟の総括のキー概念として持ち出された「階級の敗北」論であると考えている。
 先にも述べたように「階級の敗北」論は、戦後改良主義労働運動の崩壊という労働運動総体の状況評価の間題というよりも、総評の解体が、わが同盟の敗北・解体と一体的に進行したという事態を、主体的に総括することができなかった結果、同盟の敗北をプロレタリアートの敗北=絶望へと帰結させていったということにその本質的意味があったのである
 。 こうして「同盟の敗北」の今日的根拠が、一九三〇年代の階級の歴史的敗北の帰結として描きだされなければならなかったのである。 「階級の敗北」論は、まさに「同盟」と「階級」に対するニ重映しの絶望感覚に理論的土台を与えるものとなった。
  ではマルクス主義−トロッキズムの原則的立場の放棄に道を開いた「階級の敗北」論とは、どのような方法論的特微をもっているのであろうか、そのことを検討してみることにしよう。
  「階級の敗北」論の第一の特徴は、先にも述べたように「同盟」と「プロレタリアート」へのニ重映しとなった敗北=絶望感覚を理論化しようとするものであったといえる。こうした方法からは、 「同盟の敗北」の総括を深めることが、同時に「革命的階級としてのブロレタリナート」という革命主体に関するマルクス王義の基本テーゼの放棄へと結びついていくこととなる。
  「階級の敗北」論の第二の特徴は、「同盟の敗北」を「階級の敗北」の歴史的責任へと転嫁することによって、同盟の主体的で、内在的な総括の放棄が正当化されるということである。こうした方法は、「同盟の敗北」を客観主義的に説明し、宿命論的に総括することとなる。こうして「同盟の敗北」の今日的根拠が、一九二〇−三〇年代の歴史的敗北の中へと解消されていくこととなるのである。
 「階級の敗北」論の第三の特徴は、「同盟の敗北」と「階級の敗北」が直結させられることによって、党と階級の同一視=党の階級への解消の思想がより促進させられていくということである。こうしてこの方法が、階級から独立したプロレタリア前衛としての革命党概念を容易に清算していく根拠となって機能したのである。
  同盟の総括のキー概念としてもちだされた「階級の敗北」論は、第一に「同盟・階級への絶望の理論化」=「革命的階級としてのプロレタリアートという革命主体に関する基本テーゼの放棄」、第二に「同盟の主体的・内在的総括の放棄の正当化」=「同盟の敗北に対する客観主義的、宿命論的認識」、第三に「党の階級への解消」=「レ−ニン主義的前衛党概念の放棄」という諸問題に理論的土台を提供することとなったのである。
  すなわち「階級の敗北」論が果たした役割と結果は、その特徴を要約すると「革命的階級としてのプロレタリアートという革命主体に関するマルクス主義の基本テーゼ」と「階級から独立したレーニン主義的前衛党概念」というマルクス主義-トロツキズム の根本にかかわる理論的命題の放棄へと道を開いたということで ある。
  「階級の敗北」論がもつこうした政治的・理論的性格が、七〇 年代同盟に内在した党組織論に関する「メンシェヴィキ」的、 「解党主義的」諸要素を、マルクス主義ートロツキズムの緒「原 則」の解体・放棄へと帰結させていった結節環として機能したのである。
  階級主体への絶望の理論化を本質とする「階級の敗北」論は、 まさにたてまえ的であったとはいえこれまで維持されてきたマル クス主義ートロツキズムの理論的原則の放棄に道を開くこととな り、同盟を「解党」へと導くための新たな理論的キー概念として 提起されてきたのである。

8.「階級の敗北」論ー その主要な理論的性格

 「階級の敗北」論を最も強力に主張する織田は、「国民国家共 同体」ーー「現代民主主義」論をもってその問題意識をつきだしている。
  彼の「階級の敗北」論の特徴は、現代国家の機能が、「資本主 義経済の危機を支配のシステムの根底的な危機へと連動せしめずに吸収し、克服するいわゆる『回復機能』を内在させた政府形態 として『現代民主主義』」を構築したことを根拠とするものであり、その結果として敗北を強制された歴史的存在としての「現代プロレタリアート」は、革命的再生不能へとおちいったとの結論に到達しているということである。「我々は、ロシア革命の勝利 とドイツ革命の敗北によって深く規定された世界の中にいる。第 四イン夕ナショナルは、革命の不均等発展の矛盾の閉じられた円環を突き破るための方法と拠点を発見するにいたっていない。わ れわれは、孤立の構造を脱する戦略を獲得していない」との現代 の世界構造に関する彼の認識に基本的に私の認識も共通している。
  だがこうした現代世界の構造は、第四インターナショナルの結成以来強制され続けた矛盾であり、戦後第四インターナショナルを不断に戦略的分裂へと引き裂くこととなった根拠でもあった。
そしてまたわが七〇年代同盟の戦略的破綻の基本は、こうした第四インターナショナルの世界的孤立構造からの脱出の「願望」を「現実的戦略」へととりちがえたことにあったといえよう。
 そ してその破綻の根本的要因は、私もまた現代資本主義の民主主義的な危磯管理機能に対する決定的な過小評価にあったと考えてい る。
  こうした新たな国家支配のシステムは、たしかに「前期帝国主義」の歴史的な経験を教訓とし、その経験を基礎にブルジョアジーによって追求され、発展させられたものであった。だが問題の核心は、それを実現した現代資本主義の潜在的可能性と、その限界を歴史的にどうとらえるのかということである。
  私の方法は、国家の民主主義的支配は「経済の豊かな国」でのみ可能な「貴族的」支配機能であるという「伝統的方法」を前提 としている。支配のこうしたシステムは、ブルジョア国家の政策的意志を可能とする質本主義経済の物質的基礎の上にのみ組み立てられ機能しうるものなのである。  私は、「今日の帝国主義的中枢諸国の共通の政治形態である『現代民主主義』」を可能にしたのは、アメリカ帝国主義による戦後 世界資本主義の再組織化−「後期帝国主義」体制が生みだした資本主義の「潜在的可能性」に基礎を与えられたものであったと考 えている。
  戦後世界における絶対的優位のもとでアメリカ帝国主義は、世界経済の調整機能を全面的に果たし、高度経済成長システムの機 能にとって決定的な土台を提供した。戦後世界の高度経済成長は、労働者大衆の大量消費の構造(生活基盤の物質的豊かさ)を資本の生産拡大ー資本蕃積の市場基盤とすることによって、新たな経済発展のサイクルを獲得していったのである。
  労働者大衆の大量消費と資本の生産拡大=資本蓄積が相互に補 完しあう高度経済成長の構造は、一方労働者の賞金上昇、生活の豊かさの獲得を企業の生産性向上=競争力の強化へと結びつけることに大きく作用した。こうして高度経済成長の過程は、同時に労資共同利害に相互連鎖の枠組みを提供するものとして機能したのである。
  戦後の高度経済成長に基礎を与えられたこうした労資共同利害の連鎖の枠組みは、国家の経済介入、技術革新、社会福祉政策等ともあいまって、「企業社会」を単位とした「労資共同体」の意識構造を強力に発展させた。こうした基礎のうえに成立した労働者大衆の改良の闘いは、その成果を蓄積すればするほど労資共同体の意識構造を強めていくために機能することとなった。
  「後期帝国主義」体制が生みだし、蓄積したこうした「労資共同体」構造が、石油危機を契機とした七〇年代資本主義の危機を破局から救出する最大の原動力であった。そして資本主義の七〇年代における危機の開始は、逆に企義を単位とした「労資共同利害」の構造を、「国民国家の積極的支持要因」に発展させる契機 となったのである。
 石油危機の七〇年代は、「後期帝国主義」体制の破局の頂点をしめすものではなく、危機の最初の顕在化であり、その第一段階であった。そして危機の第一段階は、「後期帝国主義」体制が生みだした支配のシステムを逆に一つの完成形態へと発展させたのである。
  危機の開始を背景とした「後期帝国主義」体制の支配システムの完成形態=織田のいう「国民国家共同体」ー「現代民主主義」 の頂点は、同時にその背後でより深刻な危機を蓄積していき、「国民国家共同体」ー「現代民主主義」の成立基盤の均衛そのものを破壊しはじめているのである。
  その危機の核心は、先進帝国主義諸国の経済発展の裏側で進め られた「第三」世界の経済的破局と人民の大量飢餓の構造が、「後期帝国主義」体制の危機の開始と深く連動し、諸階級の国家への包摂=「現代民主主義」のシステムをマヒさせていく可能性をは らんで発展していることである。
「現代民主主義」が、その本質において支配階級の支配の武器であることは明確である。「プロレタリアートは、できあいの国家を利用するのではなく、粉砕することが必要」としたマルクス の提起以来、ブルジョア民主主義に対する幻想との闘争は、マルクス主義者の最も重要な闘争課題となった。
もし資本主義経済構造が、永遠にプロレタリアートの要求をその支配システムへと吸収する条件をそなえているのであれば、「現代民主主義」は、諸階級の共同支配の体制として定着していくこ ととなる。
 だが経済の危機の深化が、階級利害の非和解性を顕在化させるとき、民主主義はブルジョア支配にとって新たな桎梏へと転化し、 民主主義ー改良のための闘争は、階級闘争=「プルジョア民主主義の幻想をうち被る」闘争手段へと転化していくのである。
 こうした危機が到来しうるとすれば、「労資共同体」に基盤を与えた労働者大衆の同じ改良の闘いが、新たな対立の非和解性を背景に「労資共同体」の構造を解体=「民主主義幻想をうち破る」 闘いに可能性を与えるのである。
 わたしは、「今日のプロレタリアート」の革命的再生の基盤を「後期帝国主義」体制の新たな危機の段階ー「国民国家共同体」ー「現代民主主義」の新たな危機の中でその契機をつかみとろう と考えておりそれは可能であると考えている。
 一方「階級の敗北」論から導き出される織田の結論は、私とは相違して、継承すべき革命的伝統として確認してきた従来の「革命」や「革命党」に関する理論的命題の前提条件そのものが全面的に再検討の対象とされなければならないということとなる。こうしてボルシェヴィキ・レーニン主義=トロッキズムの革命的伝統やその「原則」防衛の立場は、彼からすれば「絶対に脅かされることのない”確信”の巣にとじこもる」こととなるのであろう。
 だが第四インターナショナルは、少なくとも第四インターナショ ナルが立脚する革命的伝統や、その規範としての諸原則を共通の前提とすることなしには成立することが不可能である。もちろんわれわれの革命的戦略、綱領は、情勢や構造の歴史的変化をとらえ、現実の動向を共通に認識する武器とならねばならない。だが変化に対応しうる戦略的、綱領的発展は、第四インターナショナルの「原則」とその革命的伝統それ自体の根本に内在する方法を継承することなしには成功的に獲得することはできないと確信し ている。
 だが「階級の敗北」論から導きだされる織田の結論は、第四イ ンターナショナルの「諸原則]そのものの全面的再検討を要求するものであり、結局第四インターナショナルは、いったん解党ー 再出発の基礎を再獲得するために闘うべきであるということとな るであろう。
 一方酒井は、「階級の敗北」論に関連して次のように述べている。
  「帝国主義とその危機の時代においては…・・・資本家階級と賃金労働者階級という社会経済的関係は、その直接性においては労働者階級の階級としての統一のための物質的基盤・土台たりえなく なった」と提起し、そして「日本の現実においては、総評社共運動体制下で、中間的・改良主義的にあった〃階級対階級〃の関係 さえ最後的に崩壊してしまった」との結論に到達しているようで ある。織田の「階級の敗北」論の提起が、たとえ経済的「物質的基盤のところで」危機が生じたとしても「政治的危機に直接連動 させないで吸収する」「現代民主主義」支配のシステムが構築されてきたことを重要な根拠にしているのに対し、酒井の「階織の敗北」論は、帝国主義の危機の段階では「資本家階級と賃金労働者階級という社会経済的関係」そのものーすなわち労働力商品と しての自らの価値をいかに高く売りつけるか、生産の成果の配分をいかに有利に獲得するかという労働組合運動の成立の基盤そのものが、もはや労働者の階級としての統一の物質的基盤たりえな くなってしまったことをその論拠とするものである。
 先にも述べたように「後期帝国主義」体制のもとで成立した高度経済成長の構造は、労働者の改良(労働力商品の販売)の蓄積 が、「労資共同体」の意識と構造をつよめるものとして機能したことはたしかである。そしてそれは、今日の帝国主義諸国の民主主義的支配の最も重要な土台となっている。だが酒井がいうようにそのことから改良(労働力商品販売)の闘いが「労働者の階級としての統一の物質的基盤・土台たり得なくなった」と結論づけ ることは、ものごとの一面的把握だけの問題ではなく、マルクス主義の理論的根幹の修正に通じることとなる。
  「資本家階級と賃金労働者階級という社会経済的関係」ーその闘争関係が、「その直接性においては労働者階級の階級としての統一 」を保証するものとならないことは自明のことである。だがそれは別に「帝国主義の危機の時代」に限られているわけではない。ただ帝国主義の危機の時代は、階級の統一にとって革命党の意識的指導の重要性がより比重を増すこととなるということである。
 だがそのことと「資本家階級と賃金労働者階級という社会経済 的関係が」「階級としての統一のための物質的基盤・土台たりえなくなった」ということとは全く別の問題である。
 もし資本と賃金労働の社会経済的関係が階級の統一のための物質的基盤・土台たりえないのであれば、階級を革命的に統一しよ うとする革命党の指導は、社会経済的な物質的根拠・土台をもたない観念的で、恣意的な願望に転落してしまうこととなる。革命党の意識性は、社会経済的基盤に内在する階級闘争の必然性をつ かみとることであり、それを明確に表現するものなのである。それは、観念的で恣意的な「願望」とは無緑である。
 帝国主義の危機の発展は、「労資共同体」に土台を与えてきた同じ改良(労働力商品販売)闘争の契機が、新たな階級的利害の非和解性を基盤に労働者の階級的統一の基盤、労働者の階級主体形成のための契機へと転化しうるのである。
 酒井の論法からは、改良要求に基礎をおく大衆的労働組合は、 いまや「階級対階級の関係を最後的に崩壊させ」てしまうもので あり、階級闘争のための基盤・土台として否定されることになる。 大衆的労働組合のこうした否定のうえに提起される波の「階級的労働組合」運動の性格は、必然的に資本の搾取そのものの廃絶、労働力商品としての労働そのものの廃絶を直接に要求する政治闘争のための組織でなければならなくなる。こうした結論のうえに彼は、「革命的前衛」と「階級的労働組合」をワンセットとした 新たな「革命的階級主体」の組織論を提出する。そしてこの「革命的階級主体構造」の基盤なしには「『過渡的綱領』の闘いは現 実に成立しない」とされ、またそこから「社共から分離・独立した統一戦線」が提唱されることとなる。
「階級の敗北」論と結びついた彼のレーニン主義は、社会経済的な物質的基礎から分離した観念の中で操作された恣意的な「願望」として描き出される。
 他方「階級の敗北」論、「国民国家共同体」論を批判して登場 した「PD派」もまた実際には「階級の敗北」論にとり込まれてしまっているのである。
 彼らは、「労働者階級は企業社会にギリギリ縛りつけられ、ア トム化され、原初的な階級意識そのものを喪失して」おり、「草の根」の市民・住民運動こそが、「冬の時代」に立ち向かう自立 的勢力として存在していると評価する。こうした評価の基礎のうえに彼らは、「帝国主義の一方的核廃棄」「革命的祖国敗北主義」 等のスローガンをセクト主義、最後通牒主義をうみだすものとして否定する。
 こうした「階級の敗北」論は、ラジカル・フェ ミニズムによる「階級対立」と「性差別」のニ元論的定義に対しても、判断不能の状況におちいり、プロレタリア前衛としての主体性を解体していく理論的基盤となっている。 同盟のこうした判断不能の状況を典型的に示しているのが「女性解放グループ」からの通告の受け入れを表明した三中委における「多数派提案」の内容である。
 「同盟がとるべき態度と方針は、……この四年余りの現実が作りだした『決裂的現実』を現実として真っ正面から真摯にとらえるということである。結論的にいえば『グループ』の発足と要求を基本的に受け入れることである。
  しかし受け入れるということは何か他の選択肢があって、受け入れる、受け入れないと判断するというよりは現実を現実としてとらえきるという姿勢でいうところの『受け入れる」ということである」と。ここに示された党の主体的判断の崩壊は、同盟とプロ レタリアートのニ重映しの「敗北」論に根拠を与えた歯止めのな い崩壊感覚がいかに深刻なものであるかを象徴的に示したものである。
  以上に典型的に示された「階級の敗北」に関する考え方は、同盟とプロレタリアートの困難な現実を基礎に、同盟全体の思想状況を誘導したのである。こうして「階級の敗北」論は、マルクス主義ートロッキズムの理論的土台を侵食し、脱マル傾向がおおっ ている今日の左翼思想状況の同盟への浸透に門戸を開くものとなったのである。

9 、 「階級の敗北」論の 実践的・組織論的帰結

 同盟内の「階級の敗北」論に関するこうした思想状況が、「労情組織委員会」の実質的否定を決定した十二期六中委決定と、「解党主義」への転落を示した十三期三中委ー五中委決定の背景となっ て大きく作用した。
  階級から独立した党のレーニン主義的概念は、同時に「革命的主体としてのプロレタリアート」というマルクス主義の政治経済学に対する確信と一体のものである。だが労働者階級に対する絶望感覚に基礎をおく「階級の敗北」論を前提とするかぎり階級からの党の独立の概念は、階級からの党の召還として一面化され、 さらに進んでそれへの敵対へと進展する。
  「労情組織委員会」に対する事実上の否定=敵対を決定した十 一・七政治局確認と十二期六中委決定は、まさに「階級の敗北」 論の立場に立つ政治局=中央委員会多数派の政治路線の実践的適用でありその帰結であった。
  労働情報の運動は、七〇年代の経済危機を前提に展開された減量経営攻撃との対決において屈服を拒否し、職場ー地域に階級的労働運動のための基盤を成立させていく闘いであった。
  七〇年代後半において労働情報の職場・地域拠点のための闘いが、一定の対応力を発揮しえたのは、敵の攻撃が、帝国主義支配のための第一段階として企業基盤へと基本的に集中していたからである。行革攻撃を媒介とした敵の攻摯の第二段階は、基盤をうち固めた「企業社会」を拠点としつつ、全面的な国家=社会体制の再編へとその攻撃を移行させた。こうした日本国家=社会の帝国主義的再編は、同時に親帝派労働運動のナショナルセンター形成を重要な社会的基盤とする。
  「労働情報」の闘いは、こうして国家=社会体制の帝国主義的再編ー親帝派ナショナルセンター の攻撃に真っ正面からたちむかうことを強制された。情勢のこう した新たな局面は、七〇年代「労働情報]の個別拠点=地域拠点の算術連合的性格からの転換を要求することとなった。それは、 、七〇年代「労働情報」の成果ー職場拠点・地域拠点を基盤としつつ、同時に親帝派ナショナルセンターに対抗する階級的ナショナ ルセンター形成のための独立した全国政治センターとして自らを決定的に飛躍させなければならないということであった。
  「組織委員会」をめぐる「労働情報]再編の本質は、まさに「国家」=「ナショナルセンター」という全国政治の核心問題に直面 し、それに対応する自らの「政治」「組織」体制をどのように再編していくべきかが間われたことであった。
  「労働情報」のこうした再編の性格は、当然にも労働組合の全国センターにおける「党」の役割の問題が大きく浮上してくることとなる。政治的飛躍を求められる「労働情報]再編は、「労働情報」内全国党派としてのわが同盟にきわめて大きな役割を強制する」こととなる。
  だがわが同盟は、十一・七政治局確認ー十二期6中委決定によって、革命党が階級闘争の中で果たさなければならない重要な任務をその決定的な瞬間に、まさに決定的に裏切ったのである。
  「階級の敗北」論の実践的帰結は、まさに、「労働情報]への同盟の決定的な敵対ー裏切として貫徹されたのである。
  「階級の敗北」論は、党建設に関する観念的セクト主義を、さ らに「労働組合」論の領域へと発展させた。「党」と「階級的労働組合]をワンセットとする「革命的階級主体構造論」は、まさに国労をめぐる攻防において社共から分離・独立した統一戦線論 として展開された。それがもたらした結果は、まさに国労をめぐる攻防の決定的瞬間にまさにそれから召還するものであった。
 十二期六中委決定が、「階級の敗北」論の大衆的=実践的適用であったとするならば、十三期三中委の決定は、「階級の敗北」論の党建設上における適用であった。
  先に述べたように「階級の敗北」論は、七〇年代同盟の「メン シェヴィキ」的、「解党主義的」性格を、マルクス主義ートロッキズムの武装解除を通じて全面的に開花させていった。
  同盟の解党主義は、第一に「階級の敗北」論が内在させたトロッキズムの革命的伝統そのものの再検討論の中に刻印されていたのである。第四インターナショナルの党としての成立基盤は、トロッキズムの伝統の中に内在する革命的本質を継承するという立場を明確にすることなしには成立しない。だが「階級の敗北」論 に内在しているトロッキズムの革命的伝統の再検討論は、第四イ ンターナショナルの立脚基盤そのものに対する無原別的対応を許容することとなっていったのである。こうして同盟は、第四イン ターナショナルが継承してきた理論的「原則]「規範]を放棄し、 「解党」の基盤を深く準備していったのである。
  同盟の解党主義は、第二に「階級の敗北」論が同盟の主体的総括の放棄を正当化するものであったことに重要な根拠があった。
  同盟の破産の主体的解明の放棄は、同盟の破産が、七〇年代同盟内在していた「解党主義」的諸要素に重要な根拠をもってい たこと、そして今日の同盟の解党主義的意識が七〇年代同盟の破綻 の最後的帰結であることなど、こうした同盟の内的諸問題への自覚を生みだしたのである。そしてそのことの結果、わが同盟の今日の解党状況=解党意識との闘争こそが七〇年代同盟の破綻の克服への抜本的挑戦であるということに全く無自覚であるという現状を生みだてしまったのである。革命党の「原則」を放棄して同盟の破産の現状を没主体的に追認し、その上で官僚的な御都合主義的対応を深める同盟の現状は、まさに「階級の敗北」論に よって七〇年代同盟の破産を拡大再生産し、解党主義へと帰結さ せていった姿を示すものであった。
  そしてこうした事態は、「階級の敗北」論を前提とする「レー ニン主義」(?)が容易に「解党主義」へと転落するものであることを示すものでもあった。

四、分派闘争の基盤の崩壊と プロレリア派の分解

10、プロレタリア派の成立とその限界

 革命党の階級からの独立というレーニン主義的党概念は、同時に革命を目標に党を階級にむけてよりよく接近させ、有機的に結びつけていくための方法であり武器である。
  だが同盟の総括のキー概念としてもちだされた「階級の敗北」 論は、こうした党と階級の独立と結合に関する弁証法的理解を否定し、党の階級からの機械的分離−召還ー敵対に道を開き、党建設に関する観念主義・セクト主義を発展させた。そのことは、同時にレーニン主義的党再建の名によって同盟を官僚主義的方向に 転落させていくものでもあった。
  十一・七政治局確認ー十二期六中委決定の過程は、「労働情報・ 組織委員会の事実上の否定−労情からの召還とそれへの敵対−が、 同時にうわさ先行による財政問題での I 追放策動と一体的におし進められた。
 中央委員会(政治局)多数派は、階級の自然発生性へと最も深く癒着を体現し、七〇年代同盟の自然発生主義的組織体質を最も強力におし進め、それを悔い改めない中心人物として I をとらえ た。
 こうして同盟の「レーニン主義」(?)的再建の組織的環を、 I の「労働情報」組織委員会への参加の拒否・同盟における I のイニシアチブの解体、「財政問題」を通じての I の同盟からの事実上の追放を意図したのである。
  「プロレタリア派」の成立の共通基盤は、十一・七政治局確認 −十二期六中委決定におけるI問題に示された「『労働情報』組織委員会の事実上の否定」=「労働情報運動からの召還とそれへの敵対」、他方「労働情報」 からの召還という事態の背後でおし進められたレーニン主義的党再建の大義による「I追放」の官僚主義的手法ーこうした事態に対する批判、反発を最大公約数として結集したものであった。
  「労働情報」運動からの召還=敵対、「I 追放」の官僚主義的手法に批判、反発するプロレタリア派成立の共通基盤は、まさに日本新左翼の急進主義的堕落との闘争を通じて同盟が維持してき た労働運動からの召還の拒否、労働者階級の闘いの先端と不断に結合しようとする積極的要素、内ゲバ主義的・官僚主義的な組織運営の手法に反対し、民主主義的組織体質を防衛しようとする性 格のものであった。プロレタリア派成立の基盤は、まさに中央委員会(政治局)多数派がー階級から召還」し、「官僚主義的手法」 を強めることによってトロッキスト同盟としてのわが同盟が内包 していたこれらの積極的諸要素を最後的に放棄し、精算しようとすることに対する批判であった。
  だが問題は、プロレタリア派の意識性のレベルが、「階級からの召還」「官僚主義的手法」という同盟の堕落と真に闘いうるも のであるのかどうか、真にトロッキズム防衛の主体たりうるのかどうかが問われることとなったのである。すなわち「階級からの召還」に反対し、「官僚主義的手法」に反対するプロレタリア派 の闘いが、自己の基盤を依然として七〇年代同盟の延長線上にお くかぎり、プロレタリア派もまた七〇年代同盟の破綻の枠を越えられないのである。
  「労働情報」からの召還に反対するプロレタリア派の闘いが、 七〇年代において築かれた同盟と労働情報の既存の関係をそのままにして、それを保守的に防衛しようとするかぎりそれは、同盟再建の闘いの基盤たりえないだけでなく、労働情報の今日の危機 を克服するための闘いともなり得ないのである。 また「官僚主義的手法」に反対するプロレタリア派の闘いが、 七〇年代同盟が産みだしたレイプと組織内女性差別の保守的構造に手をつけず、その延長線上に闘争基盤をおくかぎり、同盟の官僚的抑圧構造を真に打破する闘いとはなりえないのである。
  「労働情報」からの召還に反対し、「官僚主義的手法」に反対するプロレタリア派の闘いの出発が、七〇年代同盟が内包した「解党主義」的傾向、「理論」や「原則」に対する御都合主義的対応、 組織の差別・抑圧的構造等を全面的に切開していく闘いへと結合し発展させられないかぎりプロレタリア派もまた革命的再建分派 として自己を成立させることができないことをしめしたのである。
  同盟に内在するこうした破綻の本質を解明し、それへの闘いを 頑強に組織しようとすることなしには「労働情報」の召還に反対するプロレタリア派の闘いは、階級と結合する革命派でなく、単なる戦闘的「大衆運動」派、戦闘的「労働組合」派にとどまって しまうことになる。そのことは、同時に「革命的民主主義」派としてではなく党内各派にたいする「調停・協議」派分派へと転落 していくことにもなるのである。

11、四中委の評価を、めぐる対立と 同盟の「協議会」化の組織論

 プロレタリア派が分派闘争の本質的課題をめぐって対立を顕在化させていったのは、同盟が三中委決定によって解党主義へと公 然と転落していく過程と機を一にしていた。さらに進んでプロレタリア派の内部対立が深刻の度を深めたのは、四中委の評価をめ ぐってであった。寺岡、吉行は、四中委において中央委員会の解党主義への転落を確認し、「中央委員会への態度の留保」を表明 した。一方政治局を辞任したXXら三名は、辞任後も「中央委員 会にとどまる」ことを表明した。
  寺岡、吉行は、三−四中央委員会決定が、第四インターナショ ナルの存立そのものにかかわる原則問題であり、それを容認することは、自ら解党主義の立場へと転落することであり、妥協の余地のない性格のものであると認識した。しかも三中委決定が、同盟規約に違反していることを自覚した上でなおそれを平然と強行するという中央委員会は、もはや自ら中央指導部としての資格を投げ捨てたものであることを確認した。こうして寺岡、吉行は、中央委員会の否認を声明した。
  これに対して政治局を辞任しながら「中央委員会」にとどまったX×三名は、三中委決定の最大の核心問題を革命党の組織に関する「原則」問題というよりも十三回大会で確認した指導部に関する協議と連合の枠組みを政治局多数派が自ら破壊し裏切ったということにおいたのである。こう して彼らは、「中央委員会」にとどまり、協議と連合の枠組みを破壊した政治局を辞任したのである。
  四中委の評価をめぐって顕在化したプロレタリア派内部のこう した対立は、中央委員会を「容認」するのか「否認」するのかというきわめて深刻なものであった。それは、革命党の存立に関する根本認識の対立を含んでおり、分派としての成立の土台をおび やかすものであった。
 今日「プロレタリア派」にとどまっているXXらは、三中委決定が、民主集中制にもとづく同盟の存立を崩壊させたことを確認 した上で、なお同盟内各分派の協議体制によって、第四インター ナショナル日本支部としての同盟の維特を同盟再建のための積極 的な組織方計として提起した。こうした同盟の協議体化の基盤の上に彼らはさらに大衆的な場における批判の自由のみならず、行動上の自由(分裂)をも許容される「公然たる分派闘争」論を提 起したのである。
 同盟の協議会化をめざす彼らのこうした提起は、 三中委決定の徹回を要求し、ボルシェヴィキ・レーニン主義の伝統を防衛しようとしてきたプロレタリア派の闘いを基本的に清算する性格のものであった。彼らにとっては、自己が第四インターナ ショナルの立場に立っていることと、「民主集中制」の崩壊を前提とした同盟の協議会化がさしたる矛盾もなく統一できるのである。こうして同盟の現状を組織的に維持するためには、第四インターナショナルの党に関する「原則」を放棄することが簡単に許されることとなる。
 われわれの立場からするならば、「民主集中制」の放棄は、第四インターナショナルの立場の放棄と一体で あり、同盟の協議会化は、第四インターナショナル日本支部の革命党としての失格(解党)を意味するものである。
  だが彼らは、同盟の協議会化が、第四インターナショナル日本支部の凍結を意味しているものであるとの認識にはたたず、それを逆に党再建の組織論へと高めてしまっているかのようである。
  彼らのこうした提起が、今後「協議会」的結集そのものを党組織論として定式化していくか、それとも「協議会」的結集から「民主集中制」へと進むニ段階論的組織論として提起してくることとなるか、それは未だ明確でない。
  だがこうした党組織論の提起は、いずれにしてもボルシェヴィ キ・レーニン主義の革命党に関する伝統的立場の放棄へと直結しているのである。  一方同盟の「協議会」化と不可分の関係にある「公然たる分派 闘争」論は、「同盟内密室論争」を打破しようとするところにその本質があるのではなく、分派闘争における行動の自由(分裂) を要求することにその核心点がある。こうした分派闘争論は、われわれが歴史的教訓の中から認識してきた分派闘争論の枠を完全に越えたものであり、事実上の組織的分裂(行動の分裂)を体現するものとなる。だがこうした分派闘争論が、先に見てきた同盟の「協議会」化と結びつく時、そこに一貫した党組織論に関する考え方が姿をあらわすのである。
  彼らのこうした党組織論は、三中委ー五中委における同盟中央委員会の原則の放棄と、それへの御都合主義的対応を許容するだけでなく、自らが「解党主義」へといきつくこととなる。
  彼らの同盟再建協議会の構想は、同盟再建の核心点が、同盟を構成する諸分派・諸勢力の協議・討論を通じた結集にあると考えているようである。だが同盟の今日の分解は、綱領的、戦略的対立が、不断に組織的分裂へと結びつく危機を内包して進展しているのである。同盟内の諸分派・諸勢力の再結集は、党の「原則] を規範とした熾烈な綱領的、理論的闘争をめきにしては不可能である。
  党に関するレーニン主義的「原則」の放棄の上で組織される同盟内諸分派・諸勢力の協議の性格は、同盟内における綱領的、理論的危機を隠蔽するものとなり、綱領的、理論的闘争を前提に成立する分派闘争の根幹を解体していくこととなる。
  同盟の協議会化は、まさに同盟の綱領的破綻と分解を、同盟を構成する諸分派・諸勢力の算術的総和をもって維持しようとするものである。 こうして綱領・組織をめぐる同盟の総括や論争が凍結され、同盟の革命的再建のための土台が放棄されていくこととなるのである。

 もし同盟の協議会化を分派闘争の組織的目標とするのであれば 「プロレタリア派」は、戦闘的「大衆闘争」派、戦闘的「労働組合」派分派として自己を完全に定着させてしまうこととなるのである。
  すなわち七〇年代同盟の革命党に関する「メンシェヴィキ」的、 「解党主義」的性格は、プロレタリア派の中においても拡大再生産され、同盟の「協議会」化の組織論として体現されたのである。 こうして同盟における分派闘争の成立基盤の崩壊は、プロレタリ ア派分派の分解となって行き着いたのである。
  われわれの第四インタナショナル日本支部再建の闘いは、こう した同盟の再建基盤の解体、プロレタリア派の分解の確認を前提 として提起したのである。


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