イラク派兵を支持する著名人たちの没主体的言説に見る精神文化の退廃

― 「脱亜親米」という戦後日本のアイデンティティ ―

(インターナショナル第143号:2004年3月号掲載)


▼ラストサムライの爪の垢

 俳優の渡辺謙が、アカデミー助演男優賞にノミネートされて話題になった「ラストサムライ」という映画がある。
 サムライ(侍)の「哲学的美学」を称賛する多少時代錯誤の感が否めない作品ではあるのだが、渡辺の演じるサムライが、アメリカの圧力に屈して急激な西欧化を進めようとする明治政府の官僚に抗して、日本独自の文化や価値観(これがまた古色蒼然たる「誠」だったりするのだが)を貫こうと命懸けで戦う気骨ある人物であることが、日本の現実に対する強烈な皮肉に見えてしまう。
 というのも『文芸春秋』3月号に掲載された「著名人37人アンケート/自衛隊派遣/私はこう考える」に掲載された派遣を支持する著名人たちの主張には、そんな気骨の片鱗すら感じられないからである。
 例えば「いまさらどうしようもないから、とりあえず私は賛成」(上坂冬子=ノンフィクション作家)だとか、「派遣はすでに現実」だから「この現実から逃げて反対するのは教条的」(川勝平太=国際日本文化研究センター教授)とか言うのは、既成事実に追従した思考停止状態を自己正当化する以外のなにものでもない。
 そのうえ「賛成反対の立場を問わず」自衛隊に敬意を払って送り出すべき(阿川駐米公使)などと言うに至っては、外交政策に対する批判にこれ見よがしの人情を対置し、外交官としての説明責任を棚に上げた居直りと言うしかない。個々の自衛官が無事に帰国することを祈念することと、「非戦闘地域」と名の戦場に派兵を強行した日本政府を批判することを混同するのは、行政の当事者としては卑劣でさえある。
 さらには対米追随批判を意識した「今の日本に米国との同盟以外のどのような選択肢があるのか」(小谷野敦=国際日本文化研究センター客員助教授)とか、「米国の困難時にこれに積極協力する以外のいかなる選択肢が日本にあるというのか」(西尾幹二=評論家)、そして「拉致問題すら当事国として解決する力のない日本にとって、対米追随以外の選択肢がありえない」(三浦朱門=作家)と言った居直りがやたら目につくが、それはリアリズムを装って戦後日本の外交戦略に関する批判的考察を放棄していることの自己暴露だし、アメリカを支持した日本という既成事実に追従しているだけである。
 ところでイラク派兵を支持する、戦後タカ派の系譜を汲む「改革派」は、既成事実への追従や批判的思考を拒む居直りを守旧派として断罪し、自助努力と称する「主体性」を推奨してきた(と私は思っていた)。少なくとも戦後日本のタカ派は好んで武士道なる生きざまを賞賛し、日本の「主体性の回復」と称して「押しつけられた憲法」の改正を求めてきたのではなかったか。
 ところがアンケートに答えた派遣を支持する著名人の大半は、軽蔑すべき「没主体性」を臆面もなく吐露して既成事実に追従し、批判的見解に苛立って居丈高に居直るという精神的退廃を示して余りある。
 外圧に屈して西欧列強に追従する明治政府の官僚に命懸けの戦いを挑むラストサムライ=渡辺の演じる勝元(カツモト)が、皮肉に見える所以である。勝元の爪の垢があれば、煎じて彼らに飲ませたいほどだ。

▼「脱亜入欧」から「脱亜親米」へ

 もちろんこの『文芸春秋』には派兵反対の意見も掲載されている。だがその紹介は後回しにして、まずは賛成派著名人たちの精神的退廃について、とりわけ「没主体的な既成事実への追従と批判的思考の放棄」という精神構造の歴史的背景を考えてみたい。
 なぜならそこには、戦後日本の政治と外交が本質において没主体的でありつづけてきた歴史的負債が刻印されていると思われるからであり、またそこには戦後初の海外派兵が、さほどの抵抗もなく現実となった核心問題が潜んでいると思うからだ。

 「太平洋戦争後の日本は、アメリカの歴史家ダワーが『敗北を抱きしめて』で活写したように官民をあげて戦略喪失状態となり、とくに政権を維持した保守派は、完全なるアメリカ追随主義を取るにいたった」(本紙141号:「羅針盤なき難破船のゆくえ」)。これが、今日まで継続される戦後日本の外交と政治の没主体性の原点である。
 1945年の敗戦で日本が「官民をあげて戦略的喪失状態」に陥ったのは、前掲「羅針盤なき難破船のゆくえ」が指摘したように「独自の国家戦略」が破産した結果であったが、それは同時に国家戦略の土台となる国家的アイデンティティ(自国の存在意義)の根本的立て直しを迫るものでもあった。つまり敗戦当時日本の支配層が直面したのは、遅れたアジアを日本の保護下に置いて西欧列強に対抗しようとした「脱亜入欧」の思想、要するに明治維新以来ほぼ80年にわたって国民教育の主柱をなし、「大東亜共栄圏」なる戦略構想の礎石となった「大日本帝国の存在意義」の理屈を全面的に総括するという、実に深刻な課題だったのである。
 だが周知のように戦後の日本は、「脱亜入欧」に代わる新しい国家的アイデンティテを自らの力で作り出せなかった。というよりも「脱亜入欧」は、東西冷戦によるアメリカの対日占領政策の転換を背景に「脱亜親米」として再構成され、占領政策の必要のために温存された戦前の国家官僚機構と家父長的ボス支配という社会構造の上に据え付けられ、日本の「独自の国家戦略」の代替品として定着したのである。
 戦後日本の保守勢力が、米英撃滅から一転して親米路線に安住の地を見いだす一方で、過去の侵略戦争を美化する暴言を繰り返してアジア諸国の憤激を呼び起こしてきたのは、戦後日本の外交戦略が、「脱亜入欧」や「大東亜共栄圏」のメンタリティー(精神文化)を無反省に継承した「脱亜親米」に過ぎなかったことの証拠である。
 先に紹介したイラク派兵賛成派著名人たちの精神文化の退廃は、こうした戦後日本の政治と外交の「没主体性」を無残なまでに、そして無自覚に体現しているのだ。

▼戦争責任の回避と道義的退廃

 わたしは「戦後の日本は『脱亜入欧』に代わる新しい国家的アイデンティテを自らの力で作り出せなかった」と言ったが、それはもちろん何の対案も提示されかったことを意味する訳ではない。
 だがこれまた周知のように、大衆的基盤をもつ「国民的アイデンティティ」として戦後日本に定着したのは、保守と革新とを問わず「一国平和主義」と呼ぶべき思想であり、それは「脱亜親米」と何ら矛盾するものではなかったのである。つまり戦後日本の国民的アイデンティティとしての平和主義は、大衆的な戦争体験を教訓にして戦争の野蛮や愚かさを厳しく批判する思想ではあったが、戦争の原因を究明して新たな国家戦略を構想する体系的思考として成熟するには至らなかった。そしてその未熟さは、戦争責任の究明の曖昧さに端的に現れていた。
 最大の戦争責任はいうまでもなく「大元帥陛下」たる天皇裕仁にあるが、その戦争責任を追及できなかった以上に致命的なのは、敗戦当時の皇族首相・東久邇が語った「一億総懴悔」が広く民衆に受け入れられた現実だったと思う。というのも「一億総懴悔」なる主張は、小熊英二氏が『〈民主〉と〈愛国〉』(本紙140号に書評)で指摘したように「総力戦体制の機能不全」という考えに基づいた戦争総括であって、戦争目的や国家目標については何の総括も含んではいないからである。
 しかも「皆が悪い」という無責任極まりないこの言い分は、強権的な総力戦体制の下ですべての国民が何らかの戦争協力を強いられたことで抱かざるを得なかった悔悟や、戦没者への哀悼といった人情に訴えて問題をすり替え、国家と戦争を「指導した者の責任」をまったく曖昧にしてしまった。
 だが国家指導者が民衆の「情」につけ込んで責任逃れをすれば、その国家はモラルハザード(道義的退廃)に陥るのは必然である。占領政策の必要のために温存された官僚機構の戦争責任も不問にされたこととも相まって、戦後日本の国家としての道義的退廃は政治家と官僚の「無責任体質」として密かに受け継がれ、駐米公使・阿川の言い草のように再生産されつづけてきたのだ。
 つまり阿川の言説は、日本という国家の道義的退廃そのものなのである。

▼残された「主体性論争」の課題

 では戦後の日本では、こうした没主体性に対する批判的総括が現れなかったのかと言えば、そうではない。それは左翼の陣営に、つまり共産党の分派闘争の中に「主体性論争」として現れてはいたのである。
 主体性論争の歴史的経緯は前掲『〈民主〉と〈愛国〉』に詳しいのでここでは省くが、その論争の核心にあったのは、戦争責任を追及すべき共産党つまり左翼の内にも「没主体的な追従や無反省な転換」があるのではないかということにあった。
 たしかに「獄中18年」の共産党幹部が釈放されると、当時の知識人(いまで言う著名人と同類の人々かもしれない)はこぞって戦争反対を貫いた「非転向の権威」に追従して自らの戦争協力には口を拭い、戦中をふくむ18年ものあいだ獄中にあって無力だった「共産党の敗北」を真摯に振り返る道を閉ざしたのだが、その共産党もまた1950年にコミンフォルムの批判を受けるや、一転して「アメリカ解放軍」規定を「アメリカ帝国主義」へと無反省に転換し、国際共産主義運動の権威に没主体的に追従した。
 主体性論争は必ずしもこうした問題を直接論点にした訳ではなかったが、「官民をあげて戦略的喪失状態」に陥った敗戦後、保守勢力が「脱亜入欧」から無反省に「脱亜親米」に転換して道義的退廃に陥ったとすれば、同様の無反省な転換や没主体的追従に無自覚な当時の共産党が、新しい国民的アイデンティティの確立にむけて民衆をリードできなくて当然であった。「主体性論争」が提起した精神文化の退廃を克服するという課題は、その回答を見いだせないまま、以降の世代の課題として残されたのである。

 『文芸春秋』に派遣反対の回答を寄せた柳田邦男(ノンフィクション作家)は、次のように警鐘を鳴らす。

 「・・・・言葉が黒か白かを迫る一神教の強迫に似て、血が流れるいのちの現実や本質から遊離した、攻撃あるいは抑圧の道具と化した時、国の文化は崩壊し枠組みも壊れる、ということだ。言葉が品格を失い始めるのは、文化の危機の予兆なのだ。
 私が少年だった頃、この国の人々は、いくつもの言葉に呪縛されていた。国体、神国、挙国一致、非国民、アカ、バスに乗り遅れるな、戦地の兵隊さんを思え、等々。挙げ句、国は潰れた。
 敗戦後、左翼陣営内部でいくつもの言葉が、砲弾のように飛び交った。教条主義、左翼小児病、日和見主義、人民の敵、体制的・・・。挙げ句、左翼は内部崩壊した。(中略)
 そして今、国益、国際貢献、日米協調、現実主義(リアリズム)・・・。その論客たちの言葉が品格を失い傲慢になっている。この文化の危機を私の身体が受け入れないのだ」と。

 わたしたちはこの体験的教訓を伝える「言葉」を、日本の戦後史の総括の中に見い出さなければならない時に居るのだろう。

(3/19:きうち・たかし)


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