若者の「自立宣言」の場に!
―「荒れる」成人式の実情と背景―
(インターナショナル第142号:2004年2月掲載)
今年の成人式も、各地で若者達が騒いだと大きくマスメディアで取り上げられた。
だが、ことは単に成人式のありかたの問題に限らないのではないか。この「荒れる」成人式現象は、今の日本社会が、若者に帰属意識を持たせるものではなくなっていることを示しているのだと思う。
▼儀式と化した「意見の」聴取―「サポーター」代表の「荒れ」の意味―
2月12日に行われた神奈川県川崎市の成人式の午前の部では、成人式に「新成人の声を反映させる」ためのサポーター組織の代表を務め挨拶を述べる予定であった男性が、土足で演台にあがり式典の内容や意義を批判し、激怒した市長が壇上から、彼が読み上げるはずだった式辞の文書を男性の背に投げつけるというハプニングがあった。
男性が批判したのは、成人式は若者を励ますものというが、その趣旨は式典を見ている限り伝わってこないということ。男性は「議員の紹介とか長いし、議員の人が選挙のアピールに来ているみたいで、どうかと思う」とのべ「市長の話しもみんな聞いていない」と批判した。
報道によると、川崎市では式典やアトラクションを決める市の実施委員会の下に、若者の意見を反映させるために18〜25歳のサポーターグループがあるという。男性はそのグループの代表で、サポーターの一人は「議員紹介を省略し、パンフレットに顔写真を載せる案も出たが、『役所に通るはずがない』と提案しなかった」と打ち明ける。当の男性も式典後、「議員紹介を省略するったって、通らなかったでしょう」と市の担当者に話したという。
式典の内容を見ると、アトラクションのあと市長の挨拶や議員の挨拶・紹介があって、そのあと新成人の言葉があるという式の進め方は、30数年前とまったく変わっていない。つまり「若者の意見を反映させる」とうたっていても、その実は式典の内容も市の実施委員会が決めていて、サポータも「提案しても役所に通るはずがない」と自己規制する情況だったということだ。
最初はいろいろと役所に提案していた若者も、提案するたびに拒否されて「言ってもしかたがない」という心境にいたったのではないか。代表の男性は、役所の「若者の意見を取り入れる」と言っておきながら、その実は役所が全て決めてしまう態度に不満をもち、その不満が当日爆発したのであろう。
若者の意見を取り入れる場は、単なる「儀式」に化していたのだ。シナリオは事前に全て決まっていた。
▼ 形式化する「民主主義」―自己決定を拒否する社会―
この川崎市の成人式の様子を1月28日づけの記者の目に詳しく書いた毎日新聞川崎支局の伊藤直孝記者は、記事の最後で以下のように述べた。
「阿部市長は来年も、式典の準備に若者を参加させると明言している。それなら私もお願いしたい。若者の自由な発想に役所も耳を傾け、共に議論を尽くしてほしい。少なくとも、若者の側が自己規制するようでは参加する意味がない」と。
その通りである。今の形では若者が成人式の企画に参加する意味はないのである。
だが問題は、成人式に限られないのではないか。「意見を聞く」と称して実はシナリオが事前に決まっており、「意見を聞く」という民主主義が単なる儀式に化しているのは、この川崎市の成人式に限らない。国政の場における国会の議論のありかたや、公聴会と称する「国民の意見の聴取」の場のあり方、そして各種審議会のありかた。この国のあらゆる場において、「主権者である国民」の意見の聴取は完全に形式化されている。
いやもっと身近な、今年成人式を迎えた若者達にも身近なものであった学校という場を考えても同じことが言える。
学校には「児童会」や「生徒会」という生徒の「自治組織」があり、建前としては学校の問題を生徒自身が運営するということでこれらの活動は行われている。しかし生徒にもっとも身近な問題である服装や髪型などの規則をめぐる問題を、生徒の「自治組織」の論議に任せている学校は極めて少ない。任せたとしてもその決定を実施するには教員の同意(校長の同意か職員会の同意)が不可欠だ。そして体育祭や文化祭などの学校の行事にしても生徒の手によって企画・運営される例は少ない。行事のありかたの根本をめぐって、いちから生徒が議論して決定することはほとんど見られない。
すべて内容・ありかたは教員のほうでおぜん立てされているのである。
このような形式化された「自治」と、規則や学習内容などの一方的押しつけが、若者の間に「何を言っても変わりはしない」という諦めの気持ちを育てて行く。川崎市の成人式で、代表の男性のパフォーマンスを見る新成人たちの反応は、「男性の出身中学の同窓生が集まる一群を除き冷ややかで、男性は浮いていた」という。中にはこの伊藤記者のように内心では男性の主張に共感を覚えるものもいたであろうが、多くは「成人式なんてこんなもの」「ここで騒いだって何も変わりはしない」という醒めた気持ちでいたのではないだろうか。
今の若者の多くは幼少の時から、本人の意思を尊重する家庭教育の中で育てられてきた。しかし彼らを取り巻く社会のほうは、彼らを主人公としてはあつかわない。いっぱしの大人としての意識を持ちはじめた中学生以後の時でも、彼らはいつも「保護される」存在。彼らが自己決定する場はほとんどない。そして彼らが自分たちの意思を社会に反映させる技術を訓練する場がないがゆえに、彼らには自分の意思を表現し、社会の他の構成員にそれを納得させていく技術も言葉も持ち合わせていないものが多い。
このことが時として、「自己を大切にされていない」ことへの不満として噴出し、「荒れ」と表現される行動へと駈りたててしまうのではないか。成人式の騒動もこの一つだと思う。
彼らには今の社会のありかたやルールが、自己をその中で開花させるにふさわしい環境とは見えていないのではないだろうか。「慣習」の名の下に、その構成員の自己決定を拒否する社会であるのだから。
変えるべきなのは成人式だけではなく、その背景にある社会全般なのだ。
▼ 若者の「自立宣言」の場へ―成人式のありかた―
では、当面の成人式のありかたはどうあるべきだろうか。成人式とは伝統的には、若者が「社会の自立的構成員」として「構成員に必要な技能を得た」ことを社会が祝う場である。しかし今日の流動化する社会の中で「必要な技能」を得たとは、なかなか証明しがたい。だが「社会の自立的構成員」になるということは「いかにして社会の一員として社会に貢献していくか」という問題意識を持つことだと考えれば、それは可能なことだし意味のあることである。
であるならば、成人式は一人一人の新成人が「自分がどのようにして社会に貢献し」たいと考えているかということを社会に宣言する場とすれば良いと思う。そして一人一人が主役として宣言するには、成人式の場はなるべく「狭い範囲の社会」で構成されるべきだろう。お互いが互いに見知った、例えば中学校区ぐらいの狭い地域社会という場で。
(2/20:すどう・けいすけ)