いじめ克服の道はあるか

−学校現場と地域主体の教育再生実践へ−

(インターナショナル第169号:2006年11・12月号掲載)


▼いじめアンケート調査

いじめによる自殺の連鎖が、毎日のように報道されている。その真っ只中で、伊吹文科相による異例の「いじめの被害者」「いじめの加害者」へのメッセージが出され、全国の小中高等学校を通じて全ての児童生徒・保護者に配布されている。
 また11月29日に行われた「教育再生会議」で、緊急提言も発表された。どのメディアでも注目してとりあつかっているこの提言の柱は、“いじめた加害者への社会奉仕による指導”と“指導教員の厳罰”である。原案に盛り込まれた「加害者の出校停止」措置は、登校させての指導に落ち着いた。だがいずれにしろ、「いじめ加害者を許さない」「いじめを見逃し、助長する教員を許さない」というメディア・世論の動向を意識した提言であることは間違いない。
 しかし、この対応でいじめによる自殺やいじめ自体が根絶されるものではない。これはまさしく対症療法であり、政治的なポーズにすぎない。
 これに併せる様に、全国の学校で全児童生徒を対象に【いじめ実態アンケート】がなされている。アンケート結果は教育委員会で集計しているが、都道府県や全国の集計は出ていないし、公表するのも無意味だと考える。なぜなら、これで実態が明らかになるかは甚だ疑わしいからだ。
 この調査では、教師が児童生徒にしっかりと「いじめの定義」を説明した上でなされてはいないし、子どもが「言葉での脅し」「冷やかしやからかい」「ものかくし」「集団による無視」「暴力」等のアンケート項目に答え、集計するだけである。だが私の勤務する中学校では、アンケートに記載された内容を個々の面接で確認していくと、むしろ集団で一人ないし少人数を長期にわたって精神的、肉体的に追いつめた事象ではなく、過去の個人的関係の体験を答えている例が多いし、いじめの定義には合わないものだった。同じ市内の小中学校の統計でも、中学校がほとんどの項目でゼロ解答だったのは、当然の結果であった。しかも記名の上で回答するのでは、子どもの心理から、真実が隠されてしまうのが当然でもあろう。
 このアンケート調査を評価できるとすれば、「とりあえず子供たちに聴いてみる」と言ったところだろうか。
ところで今回の緊急提言にも、なぜか「いじめとは何か」という定義がない。それ以前の文部科学省の通達にはいじめの定義が明確にあったのに、再生会議の提言ではいじめを定義していない。何がいじめ事象で、加害者はどういう行為を行った者で、被害者はどういう事をされた誰なのか。これらを明確にすることがないまま対策を打ち出す姿勢は、現場を混乱させるだけである。
 しかしこの様な、政治的パフォーマンスが明らかにもかかわらず、メディアの報道も加わって、「厳罰主義・心の教育」の押しつけ方針が一人歩きを始めた。教育基本法の改悪を目論む勢力によって、「いじめ問題」が「教育再生」の追い風に利用され、補完要素とされようとしている。
これに対して、新聞報道にも現れているように、「現場の努力を理解していない」「いじめる側を切り捨てることは根本的解決にならない」という反撥は当然である。

▼「教育再生」という制度改革

では「いじめ」は、どのように定義されるべきだろうか。
 ひとつは、『同一集団内の相互作用過程において優位に立つ一方が、意識的に、あるいは集合的に、他方に 対して精神的・身体的苦痛を与えること』という、森田洋司・清水賢二著『新訂版いじめ』(金子書房1994年刊)にある定義である。
 もうひとつは、『学校及びその周辺において、生徒の間で、一定の者から特定の者に対し、集中的、継続的に繰り返される心理的、物理的、暴力的な苦痛を与える行為を総称するものであり、具体的には、心理的なものとして、「仲間はずれ」、「無視」、「悪口」等が、物理的なものとして「殴る」、「蹴る」等が考えられる』という、1991年9月26日に東京地裁八王子支部で出された判決にある定義である。

 いじめに象徴される現代の教育の病理は、まさしく社会の病理である。大人の社会が弱肉強食の「競争原理」に支配されている現代社会で、目標を見失った大人を見ながら、ぎすぎすした大人社会に乗り出そうとする子どもたちは、格差社会でどう生き残ろうかと小学生の時から模索しているのである。
 受験競争に勝とうとするチャレンジャーがいる一方で、自らの将来に希望が持てずに享楽に浸り、今を刹那的にすごそうとする子ども群像が見える。学習に意欲が持てない子どもたちを、教育学者の佐藤学氏は「学びから逃避する子どもたち」と名付けた。これは全国津々浦々の学校で見られる現象であり、私の勤務する山間地の小規模校でも例外ではない。典型的な例は、「教育再生特区」というべき品川区の状況であろう。
 受験競争にチャレンジする「学力上位者」や「リーダー性」を持つ子どもは私立学校に流れ、公立中学校には、それ以外の「学力の中下位」の生徒や「生活に課題を持つ」生徒が集まってしまう。結果として学習と生活の基本となる「集団」は、集団秩序や正義が通りにくい「群れ」になってしまっている。これを「中1ギャップ」と呼び、何が起きても不思議のない「荒れた状況」が生じるのである。そのような学校では、正義派はいじめの対象になっている。
 この対策と称して、品川区では「自由学区制」と「小中一貫校」という制度改革を実行している。だが「自由学区制」は、学校の差別化政策である。地域の中の学校を否定し、生徒の学力向上だけで学校を評価する仕組みである。しかも学力の評価は、現在実施されている2年生の一斉テストであり、進学実績である。一方「小中一貫教育」は、小学校高学年を中学校のシステムに組み込み、高校受験に向けて早めに基礎・基本を教え込み、中学3年生は、総仕上げと称して受験勉強に駆り立てようとする教育体系であり、進学競争対策であることは間違いない。
 また学校間の競争の導入で注目を浴びているが、果てのない学校間の競争は教師を疲弊させ、ついてこれない教師の切り捨て(教職員評価と賃金差別)、「人気のない」つまり生徒の集まらない学校を切り捨てる政策である。子どもに目を向ける以上に管理職や教育委員会を意識する教師のもと、厳罰主義によって管理された学校で子どもたちは、はけ口を内と外に求めて非行を常態化させることになる。陰湿な「いじめ・いじめられる」という、まるで旧日本軍の内務班のような学校生活を送ることになる。

▼先進国に共通する病理

 ところで、今のいじめの特色は、@以前のいじめと比較して悪質・長期的で、陰湿化した精神的ないじめという特色を持つ。ネットを利用した匿名性の執拗な悪質なメールを流し続けるなど、である。Aけんかと違って、多数がひとり(少数)をいじめる。B何もしていない子がターゲットになる。Cいじめていた側がいじめられる側になる、またその逆が現れるなど流動的構造がある。D日本だけの特有の病理ではなく、1960年代後半にノルウェーで初見のある、欧米先進諸国で起きている共通の社会的病理である。アメリカでは、いじめられた側が銃の乱射で無差別の仕返しをした例もある。
要するに、世界の先進国に共通の現象であり、その克服にも、先進国に共通する社会状況を分析する必要がある。

京都大学大学院医学研究科・社会疫学分野助教授の木原雅子氏の分析によれば、現在の子どもたち(10歳代)の諸問題、すなわち「不登校、学級崩壊、万引き、性行動、いじめ、自傷行為、学力低下等」は、それぞれにつながりを持っているという。
 「精神的いじめの構造」と「精神的いじめの連鎖」の背景には、現在の子どもの心理と行動が如実に表れている。
 マンガや雑誌から、間違った情報を受け取って性意識を形成する子どもたち。世界一のテレビ視聴時間(ゲーム使用時間)を記録した日本の子どもたちだが、加害者つまり「いじめをした」経験者は、テレビ視聴時間が平均より長いという。あるいは携帯電話のメール交換頻度の高い子どもと、いじめをした関係も数字的には高いことが明らかになった。面と向かってのいじめだけでなく、メールによる執拗ないじめも現在的いじめの特徴だが、それは匿名性が担保される為に大流行しており、保護者も全く感知できない。
 中でも重要と思えるのは、「教師と生徒の人間関係」「家族の人間関係」の衰えにあるという指摘である。
 教師、家庭、地域社会、友人、同僚、先輩との間に信頼関係を築けない状況に加え、携帯電話の普及に見られるように、大人社会で個別化(人間のアトム化)が進行したことも、子どもの個別化の促進として投影されている事実がある。年間3万件を越える自殺は、大人社会こそが弱者切り捨ての論理が横行する社会であることを示しており、いじめによる子どもの自殺はその反映でもある。
 そのうえで私は、「いじめはなくすことができない」し、「自殺もなくすことはできない」ということを前提に、その対応策を考えなければならないと思っている。ただし当事者間のいじめは克服できるし、新たな人間関係を築くこともできる。これは担任した学級での取組みの経験からも言える。
したがって法で網をかけて「取り締まる」様なやり方は、もっとも稚拙で根本的解決にはつながらない。

▼何を、何処から始めるべきか

 まず、現在の教育の迷走(ブレ)をただし、競争主義を排除し教育の自由を担保することからはじめなければならない。
 現在の教育のブレは、指導要領と教育課程にある。教科授業時間の縮減と緩和、道徳授業の押しつけと形骸化した内容、総合的な学習の時間・選択制の単位時間いじり等、現場では文科省のこのブレを、不信を持って受け止めている。
 今の自公連立政権・文科省の教育政策は、基本的には「何が何でも学力向上」であり、世界トップの学力を付けることだけが、教育にかかわる財界・政界の近年の重点課題であり関心事である。
 「出来る子」はそれ以上に出来るように指導し、「出来ない子」はそれなりの進路を準備し、「はずれる子」には、規範意識を注入するという事である。この流れの中で、子どもも教師も窒息しかけている。加えて「教職員評価」をはじめとする管理主義は、教職員だけではなく、子どもにも圧迫感を与えている。こういう状況で中学校、高校は「進路実績」で評価されることになる。これでは生徒指導などは十分にできず、管理主義に陥ることは明らかである。
 「教育の自由」は、実にここにかかわってくる。それぞれの学校の教師集団の力量を信頼し、その自主的な研修を保障することがなければならない。戦後教育はそれぞれの教師集団の主体的な力に依拠し成立していたことを想起しなければならない。戦後教育政策こそ問われているのである。
 いま一つは、学校の教室で、子どもの心を開く授業(科学的根拠に基づく=調査と評価に基づく教育と対策、正確な実態把握(質的調査・量的調査)、教材開発−プログラム開発(行動理論、コミュニケーション理論、マーケティング)、事後評価−効果評価のシステムを確立することである。
 つまり上からの改革ではなく、地域の自発性の中で達成すべき課題である。この点に教育委員会の役割があるが、それが教育行政の末端として機能する限り、いじめを隠匿することなく保護者の相談を受け止める機関にはなり得ない。教育委員会の改革は、この方向で考えるべきであろう。
 だが保護者と地域を組織していく過程で、子どもの問題以上に見えてくるのは、家庭と地域の崩壊による保護者と地域の教育力の衰えである。
 この10年、保護者の教育力の衰えは、児童虐待、親に対する殺傷に至る親子関係、中間富裕層の給食費不払い、果ては子どもの言い分に左右されて学校を追究する保護者、ストレスで神経症を発症する保護者等々、枚挙にいとまがないほど実例が上げられる。
 学校が荒れ始めたり、陰湿ないじめ事象があらわれた学年の担任では、保護者の年齢に注目しなければならないこともある。保護者自身が、かつて「荒れ」の真っ只中で中学校生活を送っていたことが多いという事に行き着いたことも、少なからずある。
 地域住民の子どもたちへの係わりも、いくつかの地域では積極的に係わりを持とうとする動きはあるが、比較的時間のゆとりのある自治会役員層の「宛職」(役員に付随する役割)で、地域防犯パトロールや学校の行事に招待されて参加するにとどまっている例が大多数である。教職員も、保護者や地域の人々との「対等と協働」の関係を築けていない。地域の右傾化が進行する中で、教職員は警戒して決して心を開こうとはしないし、一方で地域の有力者は、学校の価値を学力と非行で判断する傾向が強いのである。
 文科省も教育再生会議において、「家庭の教育力」「地域の教育力」の育成を強調しているが、形ばかりの「家庭・地域連携の組織」(各地で呼び名は色々あるが)はこの10年間、成果が上がっていない。従って現状の延長線上に、具体的な展望はない。

 しかし、実際に地域で生きている子どもをめぐって、前述のように学校を核に、いじめ克服だけでなく”心を育てる”プログラムを立ち上げる事で、展望は開ける。学校現場を包み込む人々を組織することは、不可能なことではない。
 現に各地には、教育実践として「地域による学校運営」に取り組み、成果を上げているところはいくつもある【岩波ブックレットの教育シリーズを参照されたい】。
 中学校区単位に、学校を核に学校を取り囲む家庭・地域を貫く「教育再生会議」を組織する必要がある。この「再生会議」は、学校の実践と並行した、事実を積み重ねた調査による正確な実態把握と教育プログラムを共有化し、互いに「対等で協働する」プロジェクトを立ち上げる必要がある。それは趣旨に賛同する者であれば誰もがメンバーになれ、子どもも大人も誰もが参加出来る会議であり、教育委員会もその決定を尊重して教育行政を進める、そのような会議である。教育プログラムとそれに基づく教育実践は、すでに動き始めている。
 学校がしかけプロデュースする組織と、地域、家庭、学校が主体的に関わる協働関係からしか、根本的ないじめへの対応策はない。それは限定的な現場主義・地域主義でなければならないとも言える。

(12/5:たかなし・としみ)


教育と文化topへ hptopへ