きれる子どもと労基法の改悪
教育公務員特別措置法・中教審答申から地域と親子を考える

(インターナショナル89 98年5月号掲載)


 現在、労働基準法を改悪する動きが進行しており、それに対する労働運動の側の反撃がかなり広い範囲の共闘関係を基礎として、全国的に繰り広げられている。この労働基準法の改悪の問題は、私たち教育現場に働く労働者にとっても極めて重要な問題である。
 以下の小論においては、教育労働運動の課題と労働基準法改悪の問題の関係を、4月初めに出された、中央教育審議会中間答申を手掛かりとして述べてみたい。

夢のない現実と学校教育

 昨年から続く少年犯罪の多発・深刻化を深刻に受け止めた中央教育審議会は、今年の4月初めに、「少年たちの犯罪を防ぐため」の学校・家庭・地域の役割のマニュアルとしてという形をとった中間答申を出した。この答申は、多発する少年犯罪の裏側に見え隠れする現在の社会機構の崩壊状況を、それなりにとらえている。
 まず前文で、少年たちが「切れやすくなっている」背景として、「大人たちが熱っぽく未来を夢を語ることのできない現代社会」があると指摘する。そして「社会の現状を作り変えていく事への情熱も語れない大人たち」の現状が、少年たちの心を蝕んでいると説く。この認識の結論的部分は「未来への夢も持てないような現実の中では、耐えろというほうが無理である」との、注目すべき指摘がなされている。この指摘はここで終わっているのだが、少年たちをとりまく社会の現実をとらえる時にきわめて有効な指摘でもある。
 この指摘にはおそらく「今の学校教育は暗記中心の無味乾燥なもので、規則でがんじがらめにした極めて強圧的なものだが、昔の少年たちがこの体制に耐えてきたのは未来への夢、学校を出たあとの自分の将来への夢が手に届くものとしてあったがゆえである。その夢がなくなった今、学校教育のありかたは根本的に変革されねばならない」との認識が示されていると思われる。
 なぜなら、この間の一連の中央教育審議会の答申やそれに基づく文部省の教育改革の方向は、暗記中心から問題解決・思考中心への転換、全員が同じことを学習する形から各個人の興味のあることの学習への転換を目指しており、これとの関連で、児童・生徒の権利の問題が最大限に尊重されるべき事として提起されている。この一連の教育改革の方向性を踏まえて今回の中間答申の前文の部分は読まれるべきなのである。
 高度経済成長の中で形成された現在の教育体制は、中学・高校を卒業したあとの、豊かな生活の保障があってこそ、その中で耐えていくことのできるしくみであった。小学校から高等学校までの学習が、全てテストときたるべき上級学校への入学試験のためになされていること、そして中学校での服装や髪形への厳しい規制が、高校入試を突破し一人前の社会人になるためと説明されている事を考えてみれば、現在の学校教育が「豊かな将来の保障」を担保にして成り立っていることは明白なのである。
 しかしこの「保障」は、すでにかなり前から崩壊している。
 高度経済成長の結果としての「豊かな」社会に生まれ育った今の青・少年たちにとっては、「豊かな」生活は当たり前のことであって、夢とはなりえないのである。しかも将来、彼らが出ていく社会は学校と同様に、企業も官庁も、その多くは様々な規制ばかりが多く、個人の自由も豊かな発想も押しつぶしていく横並びの社会であり、それを変える展望が示されているわけでもない。
 すでにかなり前から、学校を卒業した若者たちが定職につかず様々な職業を渡り歩いたりアルバイト的な状況を続けているのは、このためである。
 そしてそこに、日本経済の構造的不況が追い打ちをかけている。さらに無為無策を重ね、自己の利益のみ追求する政治家や官僚や経営者たち。答申の指摘は、このような状況を背景にしているのである。

対症療法だけの処方箋

 答申は続けて、「家庭の機能の崩壊」を指摘している。
 今や家庭は「宿泊と飲食を提供する」場にすぎず、本来なされるべき心の育成や社会的ルールの教育はなされず、これらは全て学校教育に押しつけられてきたと指摘する。さらに答申は、本来その家庭を支え、共同して子供を育てていく場である「地域社会」がその機能を失い、親は孤立した個人として子供に対しなければならない状況になっていることを指摘する。
 そして以上の状況の中で生じた青・少年の心の荒れは、このような大人社会の崩壊の結果であり、学校だけで対処できるような問題ではないことを指摘し、学校・家庭・地域社会のそれぞれの役割を明確にするとともに、その相互の連携を説いて、それぞれが子供たちにどう対応すべてなのかを、マニュアル的に説明している。
 この答申の指摘は、最後の処方箋のマニュアル部分を除いて、基本的には正しい。
 昨今の様々な事件を見るまでもなく、家庭や地域や様々な社会組織の中での人々の共同と連帯が失われ、そのことが様々な問題を引き起こしていることは明白である。しかし大切なのは、この現実を指摘し、それに対する処方箋を性急に提言することではない。
 中央教育審議会の答申の社会の現実に対する指摘は正しいが、この答申に根本的に欠けているのは、何故、現在の社会組織が崩壊するにいたったのかの原因を全く究明していないことである。この原因の究明なしの処方箋は、所詮は対症療法でしかない。
 その一例をあげてみよう。
 答申では親たちに対して、もっと子供のことに目を向けようとよびかけている。とりわけ父親に対して、子供の教育を母親まかせにしないで、父親も子供に積極的にかかわっていくべきと説いている。
 だがこれは心掛けの問題であろうか。
 労働基準法で8時間労働制が定められ、一週間の労働時間が40時間と定められていても、これが有名無実と化して毎日何時間も残業するのが当たり前の現実であり、昨今は残業手当てさえ支給されない「サービス残業」が常態化している。変形労働時間や裁量労働制の導入も含めて、労働者は「業績」をあげるために過酷な競争を強いられている。むしろ結果としての業績よりも、どれだけ長く働いたかが人事考課の基準となっているような企業社会の中で、「子供に積極的にかかわる」ことなど、どこの「父親」ができただろうか。昨今は大きな社会問題となっている過労死など、休日も休息もなく、ただひたすら「会社のため」に働くことが当然とされてきた社会の反映なのだが、親がとりわけ父親が、子供の教育に関われないのは、こうした社会風潮の結果と言わざるをえない。
 子供の心の教育に父親も積極的に参加しようとの中間答申のよびかけも、この現実の前には一遍の絵空事でしかないのである。
 しかもこれは、すでに父親だけの現実ではない。労働者全体にしめる女性の割合がかなりの高率を占め、労働者家庭のかなりの部分が共稼ぎである現実は、家庭において父親ばかりか、母親の不在をも伴うのである。
 さらにもう一つ例をあげてみよう。
 地域社会の崩壊に対応して、答申では、家庭を支援する様々な社会組織の創設をよびけている。現にある警察署に併設された相談センターのように、地域に専門的な知識をもった人々による家庭を支援する組織をつくり、「親は子育てに一人で悩んでいないで、社会機関に相談しよう」とよびかけている。
 しかし、現に生活を維持するために、夫婦で夜遅くまで働かなければならない両親に、このような施設に相談に行く余裕はあるだろうか。現実を見るならば、このような施設に親が相談にいくのは、子供の忍耐が切れ、様々な深刻な問題を起こし、警察にやっかいになってから初めて行くというのが現状である。
 公共のこのような施設は、通常昼間しかやっていない。午後5時に閉まってしまう施設にどうやって相談に行けるのだろう。勤務時間中に相談にいけば、その分の賃金を削られてしまう現実の中では、仕事に忙しい親が相談に行けるのは、少数の私設の相談所以外には学校があるだけである。それすら、子供が学校で問題を起こしてからというのが通例であり、しかも学校での相談は、教師の勤務時間を度外視した教育的熱意によってだけ支えられたものであり、夜遅くまで熱心に親の相談にのってくれる教師は少ないのが現実である。教師だって家庭をもつ親であり労働者なのだから、それは当然といえようが・・・・。
 親たちに向かって、もっと子供の心に目を向けようと呼びかけるのならば、多くの労働者の働く時間を短くし、少ない労働時間でも十分に暮らせる賃金を支給することこそが必要なのである。またそうしてこそ親たちは、地域活動に参加できる。週に2日の休日が確保され、毎日まだ日の暮れないうちに帰宅できるようになれば、隣近所で支えあっていくことなど、政府に言われなくても自然と行えることであろう。
 企業の発展のみを追求してきた社会。企業の発展と労働者の幸せをイコールに結んできた社会。そのためには無理をしてでも働くのが当然としてきた社会。だから労働基準法など無視してきた社会。そのしわよせが最も集中的に現れているのが、子供たちの現状ではないのか。であれば、ゴタゴタと労働者にお説教をたれる前に、親である労働者の労働の状態を改めることが急務である。

教育改革と時間外労働

 中央教育審議会の中間答申の処方箋が非現実的である例として、さらに教育改革の問題をあげてみよう。答申自身は学校教育のありかたに言及はしていないが、これまでに改革が進んでいる事を前提としてこの答申はつくられている。
 ところで今、現に進行している教育改革の方向性は基本的には正しいと思う。
 たしかに学校教育はもっとスリムにすべきである。教育内容も厳選し、学校の役割ももっと縮小し、家庭や地域や専門機関との連携で行っていくべきであろう。
 そして学習の形態や内容も、暗記中心の知識詰め込み偏重のものから、問題解決や思考を中心とした、各自の興味・関心を生かした学習に変更すべきである。特に中学校や高等学校においては、必修教科目数や必修教科の学習内容を削減し、選択教科やその学習内容を豊富化することが重要である。
 だが、現状の予算と人員でこの教育改革を実施するということは、教師のさらなるただ働きなしには成り立たない。今でさえ、授業の準備や児童・生徒の学習結果の評価の作業は、夜遅くまで学校に残ってやるか、家に帰ってからの夜なべ仕事となっているのが教師たち現状である。
 中学校を例にとってみよう。
 高等学校の入学試験体制が変更されず、今だに暗記した知識の量を検査する内容である現実。この中で文部省のいう教育改革をやっていくとどうなるか。様々な選択教科をつくるために必修教科の時間を減らす。そうすると一つのことに費やせる学習時間が今以上に減少する。しかも、様々な課題解決の思考を中心とした授業を入れねばならない。そうすれば積み残した所(=入試のために暗記すべき知識)は、補習をするかそのための補習プリントを作成したりしなければならない。新しい授業を創造したり、あらたな選択科目を持つには、これまで以上の準備も必要である。これに加えて「集団でも喜び」を与える様々な行事活動の準備や、部活動が加わる。さらに家庭からは躾(しつけ)も「委託」され、様々な問題を抱えた生徒の悩みを聞いたり、問題行動にも対処しなければならない。
 これだけの仕事を、勤務時間以内で処理することができるだろうか。ほとんど不可能である。毎日夜7時8時まで働き、家に帰ってからも仕事をし、土曜日も日曜日もなく働かねば無理なことである。
 とりわけ問題なのが部活動である。
 本来スポーツの振興や文化の振興は、社会教育の分野である。それは地域の公民館や体育館を活動の場として、そこで働く様々な専門の指導員のもとで、様々な文化活動や体育活動が行われるべきものを、すべて学校に肩代わりさせていると言える。そのため教師は無休・無給で夕方6時まで、平日も土曜日も日曜日もなく部活動の世話をせねばならない。こうした活動のために、本来の仕事である教育活動の準備や評価は、これらの活動の終了後にするしかない状況なのである。
 しかも教師の仕事は教育活動だけではない。様々な集金業務やその点検と催促、そして様々な教材の発注からその管理、校舎や校具・備品の管理や破損の点検から修理までの学校施設の維持管理の仕事、さらには学校図書館の本の選定・購入から、その維持管理業務や運営までが教師の仕事になっている。これは本来、学校事務労働者や現業職員、図書館司書の仕事である。しかしその1校あたりの人員は極めて少ない。高等学校を除いて、学校事務職員は1人が通例である。そして現業職員は1名か2名(高等学校ならば事務職員は4〜5名が通例であろう)。図書館司書にいたってはほとんど配置されていないのが現状なのである。
 現在の学校は様々な役割を押しつけられている反面、それに必要な人員も、その専門的な知識を持った職員も十分に配置されてはいないのである。昨今、子供の心の荒れが問題となって以降、相談カウンセラーの学校派遣が問題となっているが、これもあまりに遅きに失した対応であり、しかも常駐でなければ問題に対処できないだろう。
 事務職員や現業職員の増員、そしてカウンセラーの常駐、さらには学校図書館司書の配置や実習助手の配置など、教育活動を支える様々な職種の労働者の増員とともに、部活動の社会教育への移管などの学校教育活動の縮小の措置を伴わないかぎり、現在の「教育改革」は、必然的に教師の時間外労働の増加と働き過ぎとを伴い、今以上に生徒との関係はギスギスしたものとなっていくだろう。

労基法改悪の先取り、特別措置法

 ところで、このような教師の勤務状態はいかにして始まったのだろうか。
 もともと教師は「聖職」と呼ばれ、勤務時間など度外視して動くのが当たり前とされてきた。しかし戦後の日教組運動はこれに歯止めをかけるべく、様々な特殊勤務手当ての支給や休日勤務の代替措置などを運動としてかち取ってきたのであり、教師の勤務時間を厳守すべく、多くの確認事項を地区教育委員会との間で結んできた。
 だがこの流れは、1971年の国立および公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法の施行によって大きく転換された。この特別措置法は、時間外手当てを支給しない代わりに教育公務員調整手当てという名目で本俸の4%を支給するというものであり、それは事実上日教組が8時間労働という基本労働時間の概念を放棄したことを意味し、その後の際限のないサービス残業の拡大のレールを敷いたと言っても過言ではない。
 この法律を受け入れたあたりから、日教組運動は質的に変化していった。例えば部活動にしても、これは本来は社会教育の分野であり、将来的には社会教育に移行する措置をとるべきだと主張していたが、このトーンは年々低くなり、今ではほとんど聞かれない状況になってしまっている。その中で、いまや部活動は全員加入制となり、課外活動ではなく教育課程内の活動として認知され、教師は全員これを受け持つことが義務づけられるまでになっているのである。
 昨今の教育改革の中でも、教師の勤務時間を無視する動きは急である。魅力ある学校を標榜し、教育改革の先陣を切ろうとする校長ほど勤務時間を無視し、様々なサービス残業を「企業努力」という「ボランティア」として強制してくる。その意味で教育現場の状況もまた、現在進行している労働基準法の改悪を先取りしていたと言わざるをえない。

労働問い直す闘いのはじまり

 現在進行している労働基準法の改悪は、すでに各所で進行している「働かせ過ぎ」の現実を法的に追認するものではあるが、これが実現されれば、基本労働時間という概念は法的にも葬りさられ、使用者の恣意的な判断で、労働者の基本的な権利が奪い取られることになっていく。さらなる「サービス残業」ばかりか、休日や休息の時間さえ確実に奪われる、「働かせ過ぎ」の状況が深刻化しよう。そしてこれに伴うしわ寄せが、ますます子供たちにいくこととなる。
 子供たちが親の愛情につつまれ、伸び伸びと育っていける環境をつくるためにも、労働基準法の改悪は阻止しなければならない。それは同時に、学校教育現場で働く労働者たちの労働のあり方を問い直す闘いでもあり、学校教育のあり方を問いなおす闘いでもある。
 学校をより自由な学習の場としたいのならば、様々な専門的知識や技能を持った労働者の新たなる配置や増員が必要なのであり、地域や家庭・そして各種専門機関との連携のしくみ伴うを学校機能の縮小の道筋を明らかにしていく必要がある。文部省に対して、教育改革を真に進展させるためには、以上のことを実行せよと迫る必要がある。そしてこのことは同時に、全ての労働者の労働時間の短縮と、労働のあり方の問いなおしと密接な関連を持って進めねばならない。
 8時間労働制とは、いったいどのような意味をもって、闘い取られてきたのであろうか。これは自らの肉体と精神の維持の時間を確保する闘いであったと同時に、労働者が自分自身のことや家族にかかわることに取り組める時間を確保する闘い、簡単にいえば人間らしい暮らしを実現するための闘いの成果であったと思う。この制度を戦いとっていた時代にくらべ、生産技術は格段の進展をとげでいる現代。私たち労働者が、社会的に必要な生産物を生産する必要労働時間は、さらに短縮されているはずである。
 労働者が自分自身のことや地域社会のこと、そして子供も含めた家族のことにもっと多くの時間をさけるような労働のあり方。労働基準法の改悪阻止の戦いは、このようなことを問いなおす闘いの始まりでもある。

                                                    (すどう・けいすけ)


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