映画「鉄道員(ぽっぽや)」を見て
映画屋が描いた使命感とプロ意識
生活と安全を支えた労働者のものがたり


 北海道の秋の山間いを、煙りを吐いてD51が走る。冬の原野を、雪を車体にくっつけてディーゼル旅客車が走る。町と街をつなぐもの、都会へ若者を送り出すもの、都会からの里帰り客を運ぶもの、それが鉄路だった。その鉄路保全と列車運行、駅務の労働者を「鉄道員(ぽっぽや)」と呼ぶ。
 北海道の国労闘争団との交流会で、保線だったSさんが語った。「駅務と保線と乗務を全部こなせるなんていうのは、実はなんにもできないということ。人はそんなに器用ではない。無理な広域配転、職務替えが事故を増やしている。保線は毎日続けているから異常に気づく」。話しはつづく。
「だから周辺の季節の変化にも敏感なんだ。あそこには何々の花が咲く、あそこにはまもなくワラビがはえる。旬のワラビを料理してたべるの、これがうまいんだ」。
 「Sさんはそれだけが楽しくて仕事してたんだべ、保線はそっちのけで」。もう一人の団員Uさんのこの一言で、皆が爆笑した。しかし笑いがおさまるとUさんは続けた。
 「本当は保線は大変なんだ、雪が積もったときなんか特に。除雪車が導入されたときなんか、楽になったなあと実感したもの。だけどその感覚が、機械化に伴う合理化に真っ正面から取り組むのを忘れさせたんだよね」。その苦闘は、私たちには到底想像できないものであろう。旬のワラビは、雪解けの後に姿をみせる。少しだけ仕事が楽になる季節の到来だった。
 鉄道の安全は、機械での制御だけではなく労働者の「勘」が支える。その勘を鉄道で働く労働者は、安全運行の「使命感」で磨き、伝達し、共有していった。職場で同じ釜のメシを食いながら先輩は後輩に仕事を教え、後輩は一人前になっていった。これが仲間意識を強くした。
 「国鉄マン」の呼称もある。しかし「ぽっぽや」と呼ぶと、そこには使命感をもった仕事好きの鉄道員の姿が浮かぶ。映像には登場しないこんなぽっぽやがおり、主人公・乙松らがいてこの物語はあった。

プロ、使命感、そして優しさと

 見習い機関士の青年労組員として順法闘争を担った主人公の乙松は、その後駅員が乙松一人しかいないローカル線の終着駅、炭鉱町の駅長となる。仕事が器用だったかはさておくとして、乙松の人生は決して器用とはいえない。やきもきする仲間に乙松は言う。「おれはぽっぽやだから」。その仕事は、まさに人生の最後までその「使命感」を背負ったものだった。
 いま「使命」と言えば、会社や上司の命令を忠実に実行する意味になってしまったが、その分事故も増え、回復に時間もかかる。国鉄の分割は、安全の分割だった。コンピュータ制御にすべてをゆだねる中で運休も増える。サービス重視をいうJRにとって、乗客を待たせ運ばないことが一番のサービス軽視であることは、わかっていても改善しない。鉄道の主人公は鉄道員でも乗客でもなく、会社と利益だけになってしまった。もし主人公を元にもどしたら、分割・民営化で国労を弱体化した意味がなくなるのだ。
 阪神大震災のときも、鉄道の復旧に闘争団を動員すればいいのにとずっと思っていた。非常時には、わだかまりは必要ない。「労使紛争」の停戦でも臨時採用でもいい。闘争団は鉄道のプロであり、使命感をもっている。闘争団も喜んで応じたのではなかっただろうか。そうしたら復旧はもっと早まったはずだ。しかしJRは、生活力をなくした住民のための復旧を急ぐ気はなかった。
 順法闘争のシーンがある。集団就職の列車だけは運行しようという意見が青年部労組員からだされ、押し切る。「金の卵」の期待と同時に不安を抱えての旅立ち、それは家族、友人との別れでもあった。その不安、悲しみをなんとか断ち切ったのに列車のストップ。労働者としての旅立ちを混乱に巻き込んではならないという心遣いには、労働者の優しさがにじみでている。70年代初めまで、東北地方の主要駅では、3月下旬のすべての上り列車の発車時に「蛍の光」が流れた。それはやけに悲しいメロディーだった。「金の卵」たちの旅立ちの遅れは、その分だけどこからの保証もない賃金カットになる。
 原作にはないストーリーだが、駅前の食堂で筑豊からやってきた炭坑の臨時坑夫と本工が閉山のうわさをめぐり喧嘩をはじめる。閉山での整理解雇でも臨時坑夫と本工では処遇が大きくちがう。臨時坑夫はほとんど権利を持っていなかったし、本工は自分たちのことだけしかとらえない。止めに入った乙松らに本工が矛先をかえて罵声をあびせる。「親方日の丸におれの気持ちがわかるか」。臨時坑夫と本工の喧嘩。労働者派遣法が改悪され、不安定雇用労働者が増える今後、このような対立を克服するような闘い、新たな団結が問われている。
 親方日の丸とは国鉄時代に誹謗するときよく使われたことばである。しかし多くの国鉄労働者と下請け労働者が、その親方日の丸に首をきられた。関連会社に移らざるをえなかった労働者は、残れた労働者より劣悪な労働条件下にいる。そしていま、親方日の丸と非難した民間の労働者が、企業の大小を問わず首を切られている。国労の闘いを傍観した結果が現在である。

人々の生活を脅かす悪循環

 その後、乙松らと臨時坑夫は付き合いはじめるが、その臨時坑夫は事故で命を失う。幼い息子一人が残された。寂しい葬儀だった。遺骨には花輪も遺影も添えられなかった。遺影の代わりは、息子が描いた似顔絵だった。ふと、「人とし生きるために」の歌詞が浮かんできた。
 「血にまみれた/血にまみれた/写真が落ちていた/学生帽の/ランドセルの/顔が笑ってた/この子に/すべての/望み託して働いていた/友の笑顔が浮かぶ」。1960年頃、釧路の太平洋炭鉱での下請け労働者の事故をうたったものだ。
 乙松の娘、妻の葬儀では、ぽっぽやの仲間がスクラムを組んで鉄道員の歌をうたう。それに比べると炭坑の臨時坑夫の葬儀は・・・・。せめてもと気負ったわけではないが、映画館を出た時、おもわず「人とし生きるために」を口ずさんでいた。そして、この炭坑の臨時工夫の喧嘩、事故に遭遇しての死の場面を、乙松ではなく高倉健はどういう思いで演じていたのだろうかと想像した。
 彼は筑豊で生まれた。父親は大正中炭鉱で〃鬼の労務〃と呼ばれた、たたき上げの有名な労務係だった(上野英信著『出ニッポン記』)。彼は、父親と炭鉱で働く労働者の姿を知っているはずだ。映画での乙松の臨時工夫への優しさは、高倉健にとって父親に代わっての炭鉱労働者への贖罪を演じていたのではなかっただろうか。
 乙松が結婚して17年目に子供ができる。しかし2カ月で娘は病死する。娘は母親にだかれて、松が待つ終着駅につく。その後妻も先立つ。また妻の遺体を終着駅で待つ乙松。仕事のため二人を看取ることはできなかった。墓前でぽっぽやの仲間たちがスクラムをくんで歌をうたう。家族ぐるみが太い絆で結ばれている。現在の闘争団の原動力の一つである家族会の団結もこのようにして培われてきたのだろうか。
 炭鉱が閉山になると、終着駅は人を送り出すところになる。町全体がさびれていく。そこに廃線の知らせが届く。「このあとどうなるんでしょうね」「もとの原野にもどるだけさ」という会話がかわされる。
 現在の北海道と重なる。乙松の娘や妻は、鉄路を使って病院にいった。でも鉄路がなかったら、病院にすら行けなかった。廃線は生活・生命を奪う。鉄路はまさに生活の動脈だ。しかしこの物語の後に、国鉄の民営化が強行され廃線は増えた。その土地でやっと生活の根をおろした住民を、将棋の駒のようにもてあそび最後に捨てる。国鉄の民営化は人々の生活の民営化、過疎化と廃線のイタチごっこ、このサイクルはどこかで断ち切らなければならない。赤字だからこそ国営や国有化が必要ではないのか。
 廃線となったらもとの原野にもどるのか。子供ができたことを知らせた妻と乙松が、線路の上で抱き合って喜んでいるのをみていた鹿たちのものになるのか。そうではない。
 閉山は、石油による「エネルギー革命」の政策だった。その石油が原子力に取ってかわられつつある。そして原子力の廃棄物が、閉山と廃線がすすみ、過疎化した北海道に持ち込まれる。そこではあらゆる生き物が生存できなくなる危険性さえある。
 この7月、東京で、演劇「常紋トンネル」が上演された。1910年代のタコ部屋労働による北海道網走支庁石北線の常紋トンネル工事を取り上げたものだが、そのなかに次のような台詞があった。
 「倒れたタコも、逃げて殺された人も、みんなうやむやのうちに、この線路のしたにうづめられている」「僕は・・・・いやです。殺されて死んでもまだ線路をかつがせるなんて・・・・」。この事実に、そしてその後の強制連行での労働に、国と国鉄、それにJRは謝罪や慰霊をしただろうか。分割・民営化はその歴史を葬り去ること、関係を絶つことだった。そして廃線。しかし私たちはこの歴史と、今も謝罪をしていない現実をけっして忘れてはならない。

ぽっぽやの魂と映画屋のワザと

 ぽっぽやの乙松は、家族を顧みなかったのではない。器用ではなかったのだ。しかしそのことへのこだわりを持っていた。
 乙松が生活をしている駅舎に少女が訪れる。入れ替わりにその姉、またその姉と3人の姉妹が訪れる。姉妹は、母の田舎にきたというが、駅員が一人しかいない駅にいつ降りたのだろう。長姉は学校で鉄道のサークルに入っているといって、乙松が大事にしまっていた鉄道の備品に目を輝かす。そして手料理をつくり食事を一緒にする。その姉妹に、乙松の亡くなった娘、妻がかさなる。幻想だった。妻と娘は乙松の生き方を認めていた。
 乙松でない高倉健は、江利チエミと結婚した。江利は身籠もるが、子供はこの世で息をすることはなかった。その子供の供養を高倉はずっと続けているという。二人は離婚し、江利は先立つが、命日に高倉は供物を届け続けているという。子供が生きていたら・・・・。映画の三姉妹のような成長をとげていただろう、そのおもいが高倉の脳裏に浮かんだはずである。
 バックミュージックに江利のヒット曲「テネシーワルツ」が流れ、乙松も口ずさむ。
 「去りにし夢/このテネシーワルツ/なつかしき/愛のうた/・・・・/面影しのんで/今宵もうたう/うるわしのテネシーワルツ」
 監督と脚本家は、よくもまあ使ったものだ思った。しかしこれは、高倉自身の要請だったと後できく。「不器用なものですから」という乙松の人生に、高倉は器用に自分のそれをかさねた。それが実感のこもった演技となっている。
 定年を間近かにひかえた乙松は仕事中にホームで倒れ、誰にも看取られることなく最期をむかえる。納得できた最期だったであろう。家族がいなくなった野辺送りは、遺体が同僚の運転する列車で終着駅から運ばれる。追悼の汽笛が原野に鳴らされる。
 「ぽーっぽーっ」。そしてまもなく、この鉄路への追悼の汽笛が鳴らされることを予測させる。
 かといってこの映画は、主人公の乙松だけを描いているわけではない。フランス文学が専攻の監督と脚本家は、フランスリアリズムの思考で登場人物一人ひとりの個性をひきたてている。一人ひとりが光っている。映画「ぽっぽや」は、「ぽっぽやたちとその家族、仲間たち」だった。そして制作に携わった熟練の「映画屋」たちが、丁寧に舞台を作り上げた。そのふたつが見事にとけあっていた。「・・・・おやじの言葉を信じて実行してきたんだ。D51やC62が、戦争にまけた日本を引っ張るんだって」。主人公・乙松は、このような使命感をうけ継いでいた。
 その乙松のおやじの言葉から半世紀が過ぎた。乙松の後輩は、政府・国鉄の攻撃で1047人が首を切られ、100人以上が自ら命を絶つことにすらなった。日本の労働運動を「引っ張ってきた」総評と国労を解体するのが分割・民営化の目的だっと中曽根は公言した。「日本を引っ張った」路線は、廃線になったところもある。乙松が生きていたら、この後輩の姿と廃線の跡をみてどう思うだろうか。そしてどこまでも「ぽっぽや」の闘争団は、この映画をどんな思いで観るだろうか。

  (いしだ・けい)


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