少年凶悪犯罪が映し出す大人たちの憂鬱
突如「凶悪犯」になる「いい子」たちの怒り


 少年犯罪が社会問題化している。実は統計的には、青少年犯罪はここ数年は多少増加傾向にはあるものの、問題になるほど増えているわけではない。その大半も万引きとか窃盗とか、いまに始まったわけでもない思春期の非行程度の犯罪である。
 それなのに少年犯罪が改めて社会的問題として焦点化しているのは、新聞の社会面のトップ記事になるようないわゆる大事件を引き起こした少年たちが、一様に「普段はおとなしい」「あまり目立たない」「いい子」というような、事件の重大さとの比較で、その少年像の落差があまりにも大きいことに大人たちが衝撃を受けるからだろう。
 普段はおとなしくていい子が、想像以上に大胆な行動で大事件を引き起こす。たしかにこうした現象は、以前にはまったくなかったとは言わないが、近ごろの少年犯罪のひとつの特徴ではある。
 だから同じ年頃の子をもつ親たちは「もしやうちの子も・・・・」と不吉な可能性を想像して不安にかられて子育ての自信までが揺らぎはじめ、あれやこれやと自称専門家や権威ある学者とかの分析や説明を欲しがり、マスコミもこれに便乗して、事件の背景とおぼしき情報を、生活環境やら友人の証言としてかき集めてたれ流す。もちろんそれが本当に事件の背景かどうかは、取材して発信する側の主観的判断にすぎない。
 だから半分は、いまの報道の在り方の問題を含んでいるとは思うのだが、それなりの社会背景はたしかにあると思う。

いい子たちの恨みや怒り

 ある私立の男子中学・高校で、長く不登校や非行に走る生徒たちの相談相手を努めてきたという男性教師は、このいい子の暴発の背景を、内申書を重視する学校教育への転換と、企業社会の動揺に直面する家族という2つの関係で説き明かそうと試みている。
 内申書重視への転換というのは、79年に導入された共通一次試験と偏差値教育が校内暴力の頻発を生み出し、これに対抗した管理教育の強化が「いじめ」へと内向する弊害を広げたことから、90年代になって文部省が「個性重視」へと転換して偏差値から内申書重視に代わったことを指している。教師による評価が記載される内申書が重視されるため、子供たちはあまり目立った個性を発揮しないように気づかい、教師の前ではいい子を演じるように訓練されるという。だが現実の社会は相も変わらぬ偏差値至上主義だから、教師の評価にビクビクして仮面をかぶる一方で、目立つ子の足を引っ張り、勉強のできない目立たない子をおとしめる「いじめ」も無くならないのだと。
 ある優等生は「親が医者になれと言うが、本当は嫌だ」と相談にきて、「母親が、この子は成績がよくて医学部を受けると嬉しそうに親戚たちに話すのを見ると、ぶっ殺して自分も死にたくなる」「親を殺したい」と訴えるのだそうだ。受験戦争と偏差値による序列化に慣らされた親の世代は、子どもに自分の期待を押しつける「親の下心」で彼らを追い詰め、いい子たちの突然の暴発を無自覚のうちに準備しつづける。
 そのうえ親が期待する子どもの未来は、今ではすっかり色あせてしまった。偏差値による序列化競争を親の価値観に従って進んでいけば、そこそこの生活が保証されると教えられてきた子どもたちが、企業社会に裏切られてリストラの不安におびえる父親を再発見する。企業社会の論理や価値観をさんざんに振り回す親たちが、その企業社会の動揺ゆえに挫折する現実は、親の価値観に順応しようといい子を演じることに、疑問を抱かせて当然だろう。「利発な生徒ほど、それが見えてきているのではないか」。
 親も学校も、総じて大人社会が「時代遅れの価値観」を強いたことへの恨みや怒り。エネルギーのある子どもは、その恨みと怒りを親に学校にそして大人社会に向けて爆発させる。分断されたひとりひとりが、しかし共通する怒りや恨みを大人社会に対してもっているから、「授業にならない」と教師が嘆く学級崩壊や学校崩壊が現れる。

大人社会を映す少年事件

 そしてよく指摘されるように、今の子どもは一般に「自己肯定感」が乏しいが、それはまだ100点にはこれだけ足りない、だから頑張れという「部分肯定」主義的な子育ての結果なのだそうだ。過保護、過干渉で「自己決定能力」を育てずに、大学に入るころになって突然「責任を持て、自立しろ」という。親(大人)に捨てられた、あるいは裏切られたと子どもたちが感じたとき、いい子の暴発が思わぬ大事件として社会的に現れる。
 たしかに、衝撃的な事件を起こした少年たちの背後には、何らかの理由で親や信頼してきた大人に捨てられたとか裏切られたとか感じたであろうと思われる事情が、少なからずかい間見えたりする。引きこもりや多少の暴力で精神科の治療と入院を無理強いされた少年がいたり、子どもの起こした事件現場に駆けつけようとさえしない親がいたり、事件を起こした子どもの身や被害者の苦痛を案ずるよりも、まずはわが身を案じて雲隠れする親と先生がいたりする。
 「子は親の鏡」という諺がある。それは単に親と子の関係という以上に、子どもたちの社会的行動が、大人社会の歪みや理不尽さを映し出していることに注意を喚起するものと考えることもできる。少年たちによるいわゆる重大事件は、たしかに現代日本の、急速に進展する社会的再編を背景にした「時代遅れの価値観」の崩壊現象と、それにとまどいながらも、企業社会への深い依存から抜け出せない「自立できない」大人たちの自信を失った姿を投影しているだろう。

 かの男性教師によると、こうした大人の貧しさには、どちらかと言えば母親の方が気がつく場合が多いのだそうだ。
 子どもとの軋轢などを契機に自分の「親の下心」に気がつくと、自分の生きざまと子どもがダブってくるらしい。そして「内助の功」とおだてられて企業戦士の夫を「銃後」で支え、子どもを「戦線」に駆り立ててきた自分の生きざまへの疑問がわき、良い成績、良い学校、良い就職、良い生活と、実に単純に一元化された自分の価値観の貧しさに気がつくのだという。
 企業社会以外の社会とほとんど接点を持たずにきた企業戦士の「男」と、企業社会に組み込まれてきたとは言いながらも、地域の近所付き合いや学校父母会での人間関係といった、少し煩わしくはあるが違った社会との接点をもってきた「女」の、それは小さいけれど大きな違いの結果なのかもしれない。            

 (M)


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